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2005年10月30日 (日)

『NEWSWEEK』11/2号・「靖国反日のまぼろし」

金曜日の昨日は非常勤。終日ずっとなのでかなり疲れる。ま、みなさん頑張りませう。

土曜日の本日、いろいろやってから、「割とご近所」に引っ越してきた大学時代の同窓生宅を、おなじく同窓生一人と訪問。
「引っ越してきた」方は、「おれのもっとも古い付き合いの友人」。そいつは私の戦友みたいなもので、「一緒にいろいろあがいた」ものだけど、「あること」をきっかけにめっきり疎遠になってしまった。
「ま、頑張りが裏目に出たんですよねおれたち。あの年頃ってそういうのありがちですよね」と言いたかった午後9時の郊外住宅地。

そんな帰り道、キオスクで購入したこの雑誌。最近私が考えていることに割と近いのだが、「メディアのフレームアップ」にすべてを還元するのはちょっと違うんじゃないか。韓国でも中国でも「漠然とした反日ムード」があるのは厳然たる事実だし。「反日/非反日」とかじゃなくて、違う変数を入れ込まないとたぶんダメなんだよな、と思うが、すんごい眠いのでまた追い追いにしよう。そうしよう。

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2005年10月28日 (金)

上海料理 満豚坊 (八王子)

先週書いた、上海出身R君の「親類の友人」である料理人さんが、アチラの国有企業から独立して日本で開業した店。国道16号線から「大横町」交差点を曲がってすぐ。黄色字に黒の看板が目印。
http://www.geocities.jp/sayapie3838/mantonbou.html

おれの知る限り、日本で「中国の普通の食堂」に一番近い料理を出してくれる店かもしれん。「中華街」とか「紅虎」とか「老辺餃子」とかとは、「本場度」で比べ物にならない。そして値段は、それらの店のざっと半分から3分の1くらい。
豊富なメニューもコックの腕の確かさを示している。やっぱ湯麺類より、皿料理頼んだ方がいいだろうなあ。

だが残念ながら、立地がものすごい悪い(八王子駅から徒歩20分くらい)。おかげで全然流行っていない。ついでに店の作りは、「二年前まで『どさん子ラーメン』だった」ような場末感で一杯。マスターや奥さんの温かさと一生懸命さが救い。……なんだが二人ともあんまり日本語がうまくない。

味はかなりポイント高いが、その他の点でネックだらけで、かつネックがいちいちかなり根源的(笑)なのが「人生の機微」を感じさせる「満豚坊」。おれんちの近所にあったら毎日行くのになあ。八王子方面で宴会とか開くことがもしあったら「ぜひここにしましょう」。ご近所の方はぜひ一度どーぞ。

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2005年10月27日 (木)

金振松【キム・ジンソン】,川村湊訳,2005(=1999)『ソウルにダンスホールを――1930年代朝鮮の文化』,法政大学出版局.

この本との出会いは二年前あたり。ソウルへ行った時、姉貴に買い物を頼まれたため。
当時韓国語をまったく解さなかった(今でもたいしたことねえけど)私は、「紀伊国屋というよりタワレコ」みたいな内装の巨大書店「教保文庫」に向かった。
メールで聞いていたのは、著者名と書名の日本語訳。「相当なベストセラーらしいからすぐ分るだろう」とのこと。カウンターの店員の姉さんに聞くことにする。

私  「キムジンソン、ダンスホール、オディエヨ」
姉さん「(何やら韓国語)」
私  「えーと、ダンスホール」
姉さん「(ものすごい怪訝な顔)」
私  「あ……あの……ダンスホール(ボソリ)」

そして姉さんは不機嫌かつ足早にフロアへと消え、この本を持って来てくれた。この程度の情報で相手が認識するぐらい有名な本。
このたび、めでたく日本語訳が出版された。原書は「ポップアカデミズム」みたいな感じで出版されたらしく、デザインも凝った感じだったが、訳書は完全に「学術書」然としている。

ここでいきなり話が固くなるが、現在でも韓国の社会学というのはものすごい「観念的」な所があり、「近代的人間形成と主体性従属化の理論」(あくまでたとえば)とかいうのが論文とか本とかになって、引用文献がアリストテレスとかカントとかそういうのばっかりだったりする。ノリで言うと、マルクーゼ読んでた団塊世代とかに近いのかなあ。
私が見る限り、こちらに来た留学生の何割かは当初「それが当然」と思っており、「こちらではそれを社会学とは呼ばない」ことに気付いてびっくりする。そこで自分の専門を形成しようとするが、やはり韓国独特の、やや漠然とした「民主化パラダイム」が抜け切らなくて、話がおかしくなる人が多い。
あるいは逆に、「イデオロギーばっかりの議論」に嫌気が差して、真逆の「統計・計量一本槍」になる例も多い。どちらも気持ちは分るが、やはりどうかと思う。そして、そんな留学生を見て「あーだーこーだ」言ってる日本人たちの側にも、ほぼ同じような構図が存在していることは火を見るより明らか。

この、原題『ソウルにダンスホールを許せ』は、韓国の文脈では「そんなこれまでの社会理論」に対し、「より細かく歴史資料を読み込んで行こう」という主旨を隠し持っている(それがすなわち韓国のカルチュラル・スタディーズなんだろう)。「読むべき文献資料」という形で、植民地時代の新聞や雑誌資料が大量に転載されている(それが全体の半分くらいを占める)のもそのため。

大筋としては、「新しいモノの流入」としての「近代」を、植民地時代の朝鮮に見るという枠組みになっている。つまりメインテーマは「西洋との出会い」で、「日本」の話題はどちらかというとサブ。
韓国における「近代」が、政治史的な事件性に回収されたり、また知識人が被植民地の悲憤慷慨と自己苦悩にばかり拘泥してきたために:

「その当然の結果として、近代を生きる人々における近代性の体験は、教科書に登場する図式的な生活と、日常の実際的な暮らしに対する肯定と否定、本物と偽物の間をどこまでも滑り落ちながら、そのどこかの場所をさまよっている」(7)

と述べられているのも、「漠然とした民主化パラダイム」によって「被植民地近代の跛行性とかいうのを哲学的に述べればそれで良し」的な旧来の傾向に対するアンチテーゼであり、「日常社会意識」(?)というカルチュラル・スタディーズとの接点をそこに見ようとしているのである。

しかし、しかしながら、当時の「流行と大衆文化」を扱った章の冒頭で:

「意志や信念ではなく、欲望の情緒や感情が噴き出している植民地時代の流行歌や映画が、民族や歴史や独立を叫んでいたという想像は、当然ながら、しないほうがいい。大衆文化は歴史の産物だが、歴史を語るわけではないからだ。ここでは大衆の対抗や反発の歴史は消えてなくなったかのように見える。
 今や植民地というくびきの中で、大衆はもう一つの束縛を受けるようになった。それは現実から直接要求される闘(155)争からしだいに遠ざかり、そのような世相に流されるしかない存在になったということだ。したがって、現代が始まる植民地時代の朝鮮での大衆文化の本質は、悲劇的、外来依存的、無抵抗的、感覚的、退廃的だといえる」(156)

と述べている部分に象徴的なように、「明らかにこれはカルチュラル・スタディーズではない」。本書でいろいろ分析されるすべてが、結局「日本の植民地統治のせいで近代化に頓挫した」という「未完の近代への永遠の希求」で終わっているのも偶然ではない。要するに旧来のパラダイムから抜けていない。

詳しく書いてる時間がないのでアレなんだが、韓国における「理論」というものの限界を示している本なんだと思う。
私は、日本においては「みんな豊かになれる/なれた幻想」と、それを背景にした「漠然とした贖罪感・良心」みたいのがその「限界」を形成していると思っているんだが、韓国において「未完の近代への永遠の希求」(おれの適当な造語)はそれと同じ機能を果たしてしまっていると思う。どちらも、ぶっちゃけ「分析者としてそれしか思いつかないんだろうか、身近にこんだけ問題山積してるっていうのに」という感が否めないのである。

日本でも韓国でも、こういう「パラダイム」がどんどん瓦解し、「グローバル化」の中に投げ込まれていく。それが、「要は結局シゴトとオカネ」ということかもしれん。はっきりいって、こういうことは社会の実態がどうというより「アカデミックあるいは出版マーケット」の如何によるものなので、「日本/韓国ではそれで良い」ということなのかもしれない。でもそれは「ウソをつく」ことなんだと私は思うし、そのウソは投票行動を通して現実政治に還流していく。その結果「いろいろなものが議題がこぼれ落ち、変なことばっかりが争点になる」。とりわけ「リベラル派」が人々に訴えるべき議題がぼやかされてしまう。そういうことが日本でも韓国でも(中国でも)起きていると思うし、「アジア外交問題」というのはそういう構図の中にはめこまれているという「不幸」があると思う。

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2005年10月26日 (水)

西倉一喜,1983,『中国・グラスルーツ』めこん.

火曜日は某大学にての勤務日。3コマ連続なのでかなり疲れる。今期は学生さんたちがやる気あって、いい感じ。しかし肝心のおれの授業は一部で大失敗。

本日は、加えて「直接おれの知り合いの人々には大体おなじみの某案件」ミーティング。久々にEK先生にお会いして一安心。頑張ろうという気になった麻布十番の午後9時半。我々は、どこに出しても恥ずかしくない「職能集団」なのである。そんな感慨を久々に抱いた。

脈絡ないが、非常勤先でお世話になっている先生にお借りしたこの本。文革直後の混乱が日本に伝わってきた時期の本ということのようだ。
当時、2~3000万人と言われる「待業青年」(若年失業者)が出現していた。その雇用拡大を目的のひとつとして、サービス産業振興に政府は力を要れ、茶館(喫茶店)が多く出現。待業青年や臨時工のたまり場となっていた。

「無気力でシラケきった彼らの表情には、文革時代に報じられた『目を輝かせて中国の未来を語る若者たち』のかけらもうかがうことはできない」。
「『社会主義国に失業者は存在しないことになっている。だから失業保険はない。30歳になってもまだ親のスネをかじっているオレに彼女ができるはずもない』とある待業青年は度の強い合成酒をあおり、うさを晴らす」(14)

あるいは:
解放前に大工をしていて引退し年金生活の父親と、待業青年の息子の家へ招かれる。外国人にひどい扱いをされなくなったし餓死もなくなったと革命・解放を回想する父親に対し、息子はナンセンスと言いたげな表情をする。社会主義に満足しない「革命第二世代」。この時点で革命を知らない世代が10億のうち3分の2近くを占めていた。
両親が寝室に消えた後、息子が語る。
「もう両親とは議論する気もなくなったが、オレたち解放後に生まれた者は。解放前と比較されてもピンとこないんだ。まじめにやれと言うが、最近共産党がまたやり始めた“雷鋒(模範的な解放軍兵士の実名)に学べ”というわけか。新中国成立後、30数年もなって、外国と比べ中国がこんなみじめな状態にあるのは没有頭脳【メイヨウトウナオ】(独立志向ができないことを皮肉る表現)な雷鋒式の人間が多すぎたからだ。もう父親の時代とは違うのだ」(99)

ここで語られている青年たちの一部が、旧来の社会主義的なセーフティネットから外れてしまったことを逆手に取って、零細自営業を開業、そこで成功した者が「ニューリッチ」化していく。
他方、「旧来のセーフティネットになんとかすべり込んだ」人々は、今は農村からの出稼ぎに次ぐ「お荷物人口」としてレイオフの標的になっているという皮肉。それは「中国の過ち」を示すのではなく、「日本が忘却し無視してきた何か」を先んじて示していたと言えるのである。おそらく。たぶん。

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2005年10月25日 (火)

クープランド,ダグラス,黒丸尚訳,1995(=1991),『ジェネレーションX――加速された文化のための物語たち』角川文庫

月曜は某所でオヒスワークがあり、夕方勤務明け後、研究室に深夜までこもるのが通例。

私はあんまり年下の友人というのがいない。根っから弟分(でも時々暴走)というか。かといって年上の友人がたくさんいるかというとそうでもない。要は、単に「人付き合いベタ」もしくは「友達がいない」(笑)だけ。

私の携帯(つーかPHS)は、もう思い出せないくらい昔に0円で買ったモデルで、ウェブ見られないどころか、カメラもなければゲームもない。
「なんで機種変しないんッスカ」とかよく聞かれるんだが、昨今重要なやり取りというのはメールですることが多く、電話はプライベートな友人とのやりとり用が主になりつつあると思われ、「そうなると月に一辺くらいしか使わないものに金をかける気がしないから」。

今日は数少ない後輩のSM君に会った。SM君もいろいろあるらしかった。SM君は昨日買った黒のジャケットをほめてくれた。おいSM見てるか。

今日はこの小説(※ネタバレあるかも)。こちらも、「アチラではかなり前から論じられていた流動化」シリーズの一環。ドロップアウトした、もしくはそれ以外に選択肢のなかった、低賃金サービス職種に就く男女3人が、一緒に砂漠に旅して身の上を語り合うというような筋。

今の日本に通じるかというのは、たとえばベビーブーマー世代のかつての会社の上司に、主人公の一人が言うこんな言葉とか。
「あんたの真新しい百万ドルのお屋敷の話を聞かされて楽しいと、本気で思ってるのかね。こっちは小汚くて狭苦しい小部屋でクラフト・ディナー・サンドウィッチを食うのがやっとで、30歳も間近なんだぜ。付け加えさせてもらえれば、あんたが遺伝子宝クジで勝った【ママ】家でしかない。単に歴史上うまい時期に生まれただけのこと。あんたが今ごろ、ぼくの歳でいたら、十分間ともたないぜ、マーティン。しかも、ぼくは今後一生、あんたみたいなノータリンが上で腐っていくのに耐えなくちゃならない。そっちはいつだって、いちばんおいしいところを取って、残ったところのまわりには、有刺鉄線のフェンスを張りめぐらしちゃうじゃないか。ほんと、あんたにゃ気分が悪くなるよ」(40)

あと、文化的な「クール」にこだわる主人公たちが持つ、同世代の「ヤッピー・ワナビー」に対する違和感とか。女の主人公は、そういう男と恋仲に落ちそうになるが、男は「君の崇高な理想には付いていけない、僕には現世利益の方が大事なんだ」というようなことを語って去って行く。でも彼にしたって、X世代の絶望を別の形で生きているだけなのだ……と。

なんか、ジェイムソンを読んでそのまま書いたようなフレーズが散りばめられてたり、ラストとかもあんまりな気がしなくもなかったりするんだが、とりあえず「読みようによってはちょっと面白い」一冊。
関係ないが、文庫本解説の勘違いっぷりも見物のひとつ。訳者(RIP)が自分で書けば良かったのに。

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2005年10月24日 (月)

大平健,1990,『豊かさの精神病理』岩波書店.

服装に興味の大半を失ってから久しい。ヤング(死)に混じるのが面倒くさく、かといって「ちょい悪オヤジ」をめざすには金がまったく足りないため、服の買い物はたまにヤフオクでするぐらいだった。
だが最近、落札後「実物に出会うと同時に、ケースの奥底にそっとお引き取り願う」事例が頻発。ヤフオクで学んだ通販生活の鉄則は「トップスなら多少の誤差はなんとかなるが、パンツ類は試着しないと即廃棄決定」ということ。とはいえ、もう一度チベットにでも行く機会があれば(絶対ねえけど)、着て行って捨てて来ようと思い、一応保管はしてある。

そのため、今日はすんごい久々に服を買いに出かけた。黒のジャケット他数点を買ってみたのだが、帰ってから手持ちの物と合わせてみると、全然合わない(笑)。これだから面倒くせえんだよな。ま、下北沢という場所柄そんなに高くなかったし、楽しかったからいっか。
(……なんか文体が「連邦」みたいになってきたな)

そんな夕暮れに思い出したのがこの本。人間関係、他者イメージ、そして自己認識のすべてがモノに仮託されるという「モノ語り」が、近年(つっても1990年当時)の「従来の精神病と違う、悩み相談みたいな受診」の背景によく見られる、という主旨。

たとえば、職場の先輩との人間関係悪化から不眠になった、と訴える若い女性は、その先輩のことをこう語る。
「そのオバサン、若ぶっちゃって、LLビーンのトートバッグか何かで会社に来るんですよ。靴もオイルド・モカシンで会社でパンプスに履きかえるの。なに気どってんのって皆で笑ってますよ。若い娘のまねしてリーボックならまだ可愛いいですけどね。私はあんたたちより格が上だって態度がイヤ。単なるオバサンなのにね」(9)

これら「モノ語り」の「精神病なき患者」に共通して見られるのは、「リッチ」や「ランクアップ」に対する飽くなき欲望であり、それをモノの購入としてしか認識できないことが、家族や同僚に対する不信感や落胆、あるいは自分のアイデンティティ喪失を招くとする。究極的に「リッチ」なものなどないため、常に相対的な欠乏感を覚えることになるからである。

一読して、語りを引用される人々の「リッチ」に対する飽くなき欲望に、驚きを感じる。そんな時代もあったんだなあ。
この本を、数日前に紹介した「Landscapes of Poverty」と読み比べてみると、なかなか面白い。部分的には共通する所に目をつけている。でも、「みんながみんなリッチになれる訳じゃないんですよ」と言い「そう言えば済む」とするか、「新しい貧困層が現れている」とするかではずいぶん違う。
なんでそういう違いが出るのか。当時のイギリスと日本の実体的な状況の違いもあるんだろうが、それよりもやっぱり「工業化-ポスト工業化」とかいう枠組みを持ってたかどうかだと思うんだよな。
現代の日本を覆う不安感が、「貧困化」ではなく「中間層からこぼれ落ちそうだ」というだけである点は、「豊かさの精神病理」をワンランク下げた形で再現している、のだろうか。そういう言い方だとそうなるかもしれない。でも、その不安を個人の「精神病理」に帰すことに何の益もないのは明らかだ。

そういえば、ばったりおれの姉貴分に会った。久々だったのでうれしかった。ここの読者は多くて二人なのだが、もう一人加わって三人くらいであることが分かった(笑)。私信ですが「近いうちまた一杯やりましょう」。

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2005年10月23日 (日)

三浦展,2005,『下流社会――新たな階層集団の出現』光文社.

こないだぼやいたのとは別件で昨晩は徹夜。最近ぐったり。

それはともかく、ものすごい勢いで本を出している三浦展。この本では、独自に行った質問紙調査を元に、階層意識と消費行動の関係を云々している。
サンプル数が少ないとか、分析がいい加減だとか言う声もある。確かに、どう考えても緻密な調査・分析とはいえない。でも個人的には、「すっげえ方法論にこだわりながら、すっげえつまんないことの証明ばっかり、やたら綿密にやってる人」を見る機会の方が多いので、「それよりはこっちの方がマシ」という感想が先に来る。

とはいっても、前半部分、消費行動による若者のカテゴリー区分の話は、正直よく分からない。「かまやつ女」って何のことだ?まあそれを単体で扱った本もあるらしいので、そっちも読めということなんだろうけど。

メインは後半部分で、ファッションでも職業選択でも「自分の個性を大切にする」という「自分らしさ」志向と、「社会を上流・中流・下流で分けると自分はどこにいるか」という「階層帰属意識」とが反比例する、という議論が展開される。要するに、「自分らしく生きたい」と強く思っている人は、自分で「あんまり豊かでない」と思っている、ということを統計的に証明したということだ。まあこれだけだったら『金魂巻』と変わらないんだが、さすがにそうはならない。

趣味などに関する質問を参照するに、こういう人の典型は、男性では「パソコンの前に座ってポテトチップスを食べながらゲームやインターネットをしている人」、女性では「歌ったり踊ったりしている人」らしい。
その背景にあるのは「構造改革路線」であり、国富を稼ぎ出す少数のエリートと、適当にゲームしたり歌ったり踊ったりして内需を拡大してくれる大衆を作り出そうということ。それを要請したのは80年代後半のアメリカ(日米構造協議)である。ということは、不可避的に階層の固定化が進むということであり、それが「自分らしさ志向」をテコにして進むんじゃないか……という危惧が表明される。
証明方法はともかく、言っていることは間違っていない。問題なのは、「で、どうするの」という話が何もない所だ。

「で、どうするの」に関して、現在の文化をめぐる議論は、大きく3つある。
1)近年の世界経済の動向を見るに、そういう構図はもう前提になっているのだから、「文化で金を稼ぐ」方法を整備・確立しないといけない。
2)文化それ自体の価値を賞揚し、階層とか経済とかの問題抜きに文化を考えるしかない。
3)こういう文化と階層をめぐる構図に各個人が「早く気付ける」ように、警鐘をならさないといけない。

こういう立ち位置の違いは、往々にして、実際の社会がどうなっているかという問題というより、こういう議論をしてメシを食っている人たちの「サバイバル」に関係する問題である。
そんで個人的には、1か3かしかないと思う。2の論理は、「一周回ってニューアカに戻った」だけの話じゃないか?私は、浅田彰~日本のカルチュラル・スタディーズ~少し前までの宮台真司には、「政治・経済から独立した領域としての文化」をやたらと希求し褒め称えるという共通点があると思っていて、言っていることが同じなのになんで相互に悪口ばっかり言っているのかよくわからないんだが、いまさらそれを自分で繰り返す気はしない。

1の路線の問題は、「文化で金儲けなんてほとんど失敗する場合が多い」こと。3の路線の問題は、つまんない啓蒙発言者に見られてしまう危険性があること。というか、「そういうことをわざわざ言わないといけない」というのはかなり日本の特殊事情によることであって、おれの知る限りアメリカでも中国でも「そんなことは当たり前」であり、あと数年のうちに、遅ればせながら日本でもそうなるだろう。私自身の立ち位置は、それまでの間の「時限つき3」あたりにあるようだ。

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2005年10月21日 (金)

留学生とのインタビュー

今日は、非常勤で出講している某大学の中国人留学生、R君にインタビューを行った。中国における若者の希望と悩みみたいなこと(?)をいろいろ語ってくれた。ここでインタビュー内容を公開する訳にはいかないが、さっそく仕事にいろいろ使わせてもらおうと思う。

……というか、本当に前向きでいいなあと思った。「個人化が前提になった社会」を生きる未来の若年は、「福祉国家の幻想にすがるばかり」の老年や「不安感に打ちひしがれて逃避志向の強い」その子世代を、ともに競争力で圧倒していくだろう、というのは同僚の某AM氏がよく言っていることだが、R君と話していて私は自分自身にその危機意識を感じた。北京に行った時にも、そういう感慨を持つことがままある。
そして「もっと実学的な専門を持った方がいい」(笑)という彼の忠告を、複雑な思いで聞くのである。正直それに反論することは難しい。

でも僕は、中国人の多くが、ポスト工業化の欝加減みたいのを、逆に知らなさ過ぎると思う。なにせ、政策立案の過程でも「流動雇用の増加」は「国営企業からのレイオフ者と農村からの流入人口を吸収する、雇用創出の妙案」とされているくらい。「若年貧困者の出現」みたいな問題系そのものがほとんど存在しない、というか議論はされているけど前提条件が全然違っている。

そして、急成長が続く中でデフレが起きているような現在の中国では、そういう解釈が「まったく正しい」ことも事実である。中国の国営企業からのレイオフ者というのは、主に文革中に子供時代を過ごし、ロクな教育も訓練も受けておらず、技能も何もない世代のこと。また都市の下層サービス業は、100%農村からの出稼ぎ者がやっており、都市民は「自分がそんな仕事をする」なんてのは想像の埒外にある。
この二種類の人々は、現在我々が中国の経済成長と聞いてイメージするものを、何も共有していない。「マックジョブでもないよりマシ」なのはよく分る。

日本の場合、初めから明確に「時代の産物としてのお荷物人口」と「移民」を問題にしている中国のケースと違い、「中間層の内部」でありその継承を期待されていた層が「マックジョブ」をやっている。だからどことなく悲惨なイメージがつきまとう。でもそういう権利意識みたいのを抜きにして、マクロな構造として見れば実は同型のはずなのである。
いま日本では「希望の復活」とかいうのがよく論じられているけど、こういう「救いようのなさ」みたいのは確かに中国の議論から学んだ方がいいかもしれん。そしてこういう勘違いは、おしなべて「<階級>という問題が完全に忘却され、総中間層化の夢ばかりが語られてきたこと」に由来するのだが、その「階級差」の問題を、現在も社会主義を原則放棄してはいない中国から学ぶのは、本当に皮肉である。

他方、中国だってR君みたいな子たちばかりが生まれている訳ではない。「アルバイトで自活する」という観念がないため、いったん職探しに挫折すると、即親元に引きこもるしかなくなる。そういう人は普通にたくさんいるらしい。
それに、人々が渇望してやまない郊外の核家族用巨大マンションだって、10年もすれば陰鬱な牢獄みたいになってしまうことは、日本のポスト・バブルを生きている我々が見てきたことだ。北京郊外に乱立を続けるマンションの中には、確実に「僕たち」が育まれている。
しかしそういうのをすくい上げて論じる必要が、果たしてあるのか。そういう議論に市場価値があった時代は、日本でも欧米でも短かったんじゃないか。という問題は別口で考えないといけないんだろうな。まあ短期的には意味があると確信しているけど、長期的には。

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2005年10月20日 (木)

だから反日デモなんてもうないって

結局、神は光臨しないまま世は更ける。もう限界だ寝よう。

その前に……中国の都市部で、さらなる反日デモが起きることは絶対にない。もう「ブーム」は終わったんだし、だいいち、当局が引き締め体制を明確にした今になって反日デモが起きるとすれば、それは反日感情云々とかをはるかに超えた「やばい事態」である。体制の根本的変革か、あるいはほとんど「断交」レベルの対日政策転換か。
もちろん小規模な数十人単位のものはあるでしょう。どこの国でもいろんな人がいますから。でも大衆運動として巨大化することは絶対にない。この靖国参拝をきっかけにした反日デモが、もし一万人を集めたら、おれは坊主にします。
と、世界に向かって閉じられたブログで宣言してみた午前X時。明日もあるのになあ。バタリ

しかし、漠然とした「愛国・反日ムード」がずっと続いているのは事実。というかこれはもう完全に定着したものだから、短期的にはなくならない。今回の一件で、個別の嫌がらせ事件とかは起きるかもしれませんね。次に訪中した日本の有名人が卵投げられるか何かして、それがやたら大きく報道される、というのに一票入れます。はい。

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2005年10月19日 (水)

Seabrook, Jeremy, 1985, Landscapes of Poverty, Basil Blackwell.

どう考えても不可能なスケジュール。おれの当初の計画が悪いし、その後の進め方も悪い。徹夜一回二回じゃどーにもならんな。今夜半あたり神の光臨を待つしかない29歳の秋。

それはともかく、「豊かさの副作用」としての「新しい貧困」を執拗に描くこの本。割といろいろな所に引用されているので、たぶん有名。「弱者」ではなく、豊かさを享受する層の中にこそ貧困を生むのがサービス産業化であるとする。

とくに若年の事例が多く引かれる。16歳で髪を染め、鼻ピアスをし、ストリートに飛び出して、18歳でシングルマザーになって実家に帰ったミシェル。いま彼女は、流行おくれのポップスターのポスターが貼ってある部屋で、無気力にたたずむのみである(このくだりは渋谷望『魂の労働』に引用されている)。
また地方からロンドンに出てきて、ファッション店で働いているシャロン。「モデルみたい」な同僚たちと、音楽の流れる職場で、うれしそうに仕事をしている。でも彼女は朝の7時半から夜の7時半まで働いて、わずか20ポンドしか受け取っていないのだ。

昨今の日本のフリーター論とかの「元ネタ」かもしれない。でも、英語圏でこれが出たのが1985年であるという「20年のタイムラグ」には本当に目の眩む思いがする。一体何なんでしょうね。

大枠としては、「労働者階級の変容」というカルチュラル・スタディーズのモティーフを採っている。親世代は工場労働者で、エンゲルスが描いたような機械労働の悲惨の中を生きてきた。彼らから見て、工場じゃなくオフィスや店で、ドロにまみれたりしないサービス労働は、当初「解放」と見られた。
また労働者も文化商品を手に入れることが可能になったし、経済構造としてそれが求められるようになった。消費も「解放」だった。でもこれらは両方でも「罠」だった、というお話。

もともとカルチュラル・スタディーズというのは<まさにこのこと>を論じようとしていたものだと思うのだが、90年代に日本へ流入したきた時には<見間違えることすらできないほど完全な別物>になって今に至っている。
というか英語圏でも、ある時期以後のカルスタは、「文化」に変な期待をかける方向に突っ走っていくしかなかったみたいだなあ。

黒人ゲットーの調査をしている社会学者のウィルソンは、60年代的な「ブラックパワー運動」が、ある時期以後は、経済的再分配という真の問題から目を逸らす役割しか果たさなくなっていて、今となってはかえって有害だみたいなことをよく指摘している。
この手の、「正当的」「公共的」とか、あるいは「道徳的」「内面的」「伝統的」とかのもろもろが、おしなべて<結局シゴトとオカネ>に回収されていくのが今の世界。それはたしかに気持ちが悪い。
でもそれを批判しようとすれば、どこかで「そうじゃないもの」を措定せざるを得ない。特に今の日本では「そうじゃないもの」が<やたらめったら満ちあふれている>けど、それは絶対に、新種のミシェルやシャロンをどんどん生んでいく役にしか立たない。「あなたはシゴトとオカネの話をしているけど、それではシゴトもオカネも生まれませんよ」という形でしかもう論を立てられないことを、とりあえず認める必要がある、ということなんだと思う。

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靖国の話から飛躍して

非常勤先の仕事が終わった後、ややへばったので仮眠を取り、靖国関係のネット資料収集をやっている。

こういう問題が起きるたび、「歴史問題にありがちな、微細すぎるディティールに拘泥するのってほんと意味ないよな」という無力感と、「といっても、何か言うなら最低限のデータはないといけないよな」という義務感とのバランスに、しばし思い惑うことが多い。

それはとにかく、この問題をそのまま論じても仕方ないだろう、という感覚はやはり拭えない。遺族会とのつながりとか政党人脈的な話とかも、重要なんだろうけど私はやや門外漢だし、「そういう場所の話ですべてをカバーできたフェイズはもう過ぎたんじゃないか」的な感覚も強い。

何かざっくり言うと、「経済的リアリティのシビアさ」に「気付く」ことが「社会格差」の重要な一側面として立ち現れているとすれば、この手の「ナショナリズム」が、明らかにその「気付き」の妨害となっていることが重要な気がする。
特に日本では、それが残酷なほど明確に現れていると思う。中年以上と若年とでは、その「気付かなさ」の毛色がだいぶ違うけど。

韓国でも似た構図はある。特に若年の間で。でも386世代とかはちょっと違って、「経済的リアリティ」と「政治的熱さ」みたいのが、まだ完全には乖離してない感じ。
といっても、「経済的リアリティ」を、「民主化の建国神話」に意識的に対置する層も、着実に出現している。というか、この二項の分極化がすなわち近年の「386世代」であるような気もする。
日本では、そのどっちかだけ取り上げて「非-反日化の期待」と「反日の激化」のどちらかの兆候とする話が、ぼちぼち出回っている。どうでもいいと思うんだけどなあ。

中国では、やっぱり成長の形態&時代背景からして、「気付き」と「ナショナリズム」という形で問題が立てにくいという事情があるような気がする。都市中間層が、そのものとして社会全体では上層に近く位置づけられ、その内部の格差意識に対するバッファになってるというのもありそう。
でも中間層の若年の割と上層部の内部(三里屯で遊んでるような子たち)に話を限れば、同形の構図があるような気がする。もちろん彼らは上層なんだから、「経済的リアリティからの乖離」とは呼びづらいんだけど、でもやはり。あと数年したらもっと顕在化するのかもしれないと思ったり。

やっぱり「経済的リアリティ」とか「気付き」とかいうより、「流動化/個人化への適応」と言った方がいいかもしれないなあ。何かおれ、同じ所をぐるぐる回ってる気がするけど。

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2005年10月15日 (土)

山田昌弘,2004,『希望格差社会』筑摩書房.

いまごろ読んだ。『パラサイト・シングルの時代』で展開された、若年層の下降移動とそれにともなう経済的悪影響を彼らの自己責任に帰する議論にまったく同意できなかったため、この本を少々敬遠していたのだ。

本書では、当事者の選択の間違いを指弾するというトーンは鳴りを潜めている。代わりに、「リスク化」と「二極化」という、近年の社会学で多用されるふたつの概念を束ねて、「希望の格差」という視点を導き出す。

これを切り口に、高度成長~バブル期の日本の来歴を、「リスク化」と「二極化」をともに(擬似的に)回避した「戦後安定社会」と規定する。

90年代からその地盤が急速に崩壊し、いわば「普通の」リスク社会化の地金が現出しつつあるという図式の上に、職業・家族・教育・犯罪増加など、近年の「不安感」を配列するという形で分析が進む。

『パラサイト・シングル』で指弾されていた若者たちの万能感やタカリ意識も、こうした戦後日本の状況と深く関係するとされる。

こうした図式の簡潔さ、明快さは類を見ないほどである。このことは、個別の事象を取り上げるという手法(ある意味「新書的」というか)ではなく、<ある切り口をもって広範な事象を整理する可能性を示す>という社会学的な関心と、一般的な読者層にも伝わる語りとが、両立されていることを示す。端的に面白くて優れた本だと思う。

この本の問題関心は、私や私の周辺の、著者より若い世代の研究者たちの問題意識と非常に近い。これを個別領域で(質的調査などという形で)縮小再生産するような研究が最近増えている、という言い方もできると思う。だから、この書物は、私や私の周辺で行われている研究の問題点を共有しており、それを自己認識させる書物でもある。

問題点はいろいろあるが、一番大きいのは、単に「戦後日本の悪平等主義への反省・批判」と取られてしまう可能性があることではないか。ざっくり言って、かつて日本の成功体験の核そのものであったはずの、会社主義をテコにした日本の総中流化というものが、90年代以後は逆に桎梏と化した、という認識は、何も改めて主張するまでもなく広く共有されている。単なる死体叩きと受け取られてしまう可能性がないではない。

しかし他方で、こうした認識が広く共有されているとは必ずしも言えないことを示す証拠に、事欠かないことも事実である。たとえば鈴木謙介が、現在の若者が持つ「認識における楽観と、客観的状況における被搾取とのギャップ」を<わざわざ主張せねばならない>のもそのためだろう。

社会学というか、より広く「評論」においても、山田の議論とは真っ向から対立するような、戦後日本の成功経験の護持をうたうものがむしろ「主流」であり、「大御所」であればあるほどそういうことを言う。蛇足だが、そういう人々の多くが、戦後日本の人文社会的知が犯した失敗のグロテスクな記録である「大平総理の政策研究会」に参加した過去を持つというのも興味深い所であったりもするし、なぜいまだにそういう人々が旺盛な発言の場を与えられているのか不可解だったりもする。

ここには、社会のアーキテクチャを設計しようという意志のある人々の間の「常識」と、それ以外の人々の認識――「若者」や「言論」――との乖離が示されている。若者問題よりも、後者の問題の方が深刻である。山田も本書の最終章で、日本における政治的布置としての「保守/革新」枠組みが、「不安定化する社会のコントロール」という先進国共通の課題から遊離していっていることを指摘している。

「不安定化する社会のコントロール」を念頭に置く限り、最も巨視的な対立軸が「新自由主義」-「福祉国家再建」となることを受け入れねばならないと思う。
しかし現在の日本では、保守・革新の双方に、「日本はグローバル化の外部に留まれるはずだ」という幻想が根強く残っている。そういう人々が「グローバル化」に対置させて考えているのは、しばしば「福祉国家」とはまったく異なるものであることが、軸をぼやかしてしまう。
また、この点に関して大きな話題になるのが、プロ野球チームやテレビ局という、「不安定化する社会」を論じるにはあまりに瑣末な現象でしかないことも、軸の不在を象徴しているように思う。

とりわけ、「リベラル派」に分類される人々が、「福祉国家再建」の具体的なビジョンを語る作業をずっと怠ったまま、文化・戦争責任・弱者保護などの問題に終始してきたことの責任は大きいと思う。現在でも、「新自由主義」「市場主義」を簡単に実体化して、それに反対することを自己目的としている人が多い。

その一方で、政治的対立軸の完全な外部に立てるはずだとする姿勢も目立つ。たぶん「ニューアカ」・「日本的ポストモダニズム」にその源を持つと思うんだが、「冷戦型左右対立への違和感」から、大雑把に言って「消費文化礼賛」の方向へ突っ走るのがその共通の特徴と言える。そこかしこの分野で大量発生している、ごく微細な事象・歴史をオタク的に細かく調べることを自己目的とした「疑似実証主義」もその一種だと思う。

おそらく、「農村/都市」、「階級・階層差」といったクラシカルな概念を、それにまったく関心を持たないことの多いメディア論や文化研究とつなげていくことが必要なんじゃないか、と、最後はありきたりな提言になってしまうが……。

ついでに付言すれば、「歴史問題」とは、国内におけるこうした(往々にして不毛な)対立構図の中で論じられているのであり、他国の内部事情をブラックボックスに入れて「のっぺりした保守化」と解釈してはならない。だからといってすべてを他国の内部事情のせいにするのも意味がない。たぶん、まずはこの議論の「不毛さ」の共通性を考えないといけないんだと思う。

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2005年10月11日 (火)

はじめまして

高原基彰といいます。社会学と東アジア研究をやっております。

テスト投稿をかねてご挨拶申し上げます。

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