いまごろ読んだ。『パラサイト・シングルの時代』で展開された、若年層の下降移動とそれにともなう経済的悪影響を彼らの自己責任に帰する議論にまったく同意できなかったため、この本を少々敬遠していたのだ。
本書では、当事者の選択の間違いを指弾するというトーンは鳴りを潜めている。代わりに、「リスク化」と「二極化」という、近年の社会学で多用されるふたつの概念を束ねて、「希望の格差」という視点を導き出す。
これを切り口に、高度成長~バブル期の日本の来歴を、「リスク化」と「二極化」をともに(擬似的に)回避した「戦後安定社会」と規定する。
90年代からその地盤が急速に崩壊し、いわば「普通の」リスク社会化の地金が現出しつつあるという図式の上に、職業・家族・教育・犯罪増加など、近年の「不安感」を配列するという形で分析が進む。
『パラサイト・シングル』で指弾されていた若者たちの万能感やタカリ意識も、こうした戦後日本の状況と深く関係するとされる。
こうした図式の簡潔さ、明快さは類を見ないほどである。このことは、個別の事象を取り上げるという手法(ある意味「新書的」というか)ではなく、<ある切り口をもって広範な事象を整理する可能性を示す>という社会学的な関心と、一般的な読者層にも伝わる語りとが、両立されていることを示す。端的に面白くて優れた本だと思う。
この本の問題関心は、私や私の周辺の、著者より若い世代の研究者たちの問題意識と非常に近い。これを個別領域で(質的調査などという形で)縮小再生産するような研究が最近増えている、という言い方もできると思う。だから、この書物は、私や私の周辺で行われている研究の問題点を共有しており、それを自己認識させる書物でもある。
問題点はいろいろあるが、一番大きいのは、単に「戦後日本の悪平等主義への反省・批判」と取られてしまう可能性があることではないか。ざっくり言って、かつて日本の成功体験の核そのものであったはずの、会社主義をテコにした日本の総中流化というものが、90年代以後は逆に桎梏と化した、という認識は、何も改めて主張するまでもなく広く共有されている。単なる死体叩きと受け取られてしまう可能性がないではない。
しかし他方で、こうした認識が広く共有されているとは必ずしも言えないことを示す証拠に、事欠かないことも事実である。たとえば鈴木謙介が、現在の若者が持つ「認識における楽観と、客観的状況における被搾取とのギャップ」を<わざわざ主張せねばならない>のもそのためだろう。
社会学というか、より広く「評論」においても、山田の議論とは真っ向から対立するような、戦後日本の成功経験の護持をうたうものがむしろ「主流」であり、「大御所」であればあるほどそういうことを言う。蛇足だが、そういう人々の多くが、戦後日本の人文社会的知が犯した失敗のグロテスクな記録である「大平総理の政策研究会」に参加した過去を持つというのも興味深い所であったりもするし、なぜいまだにそういう人々が旺盛な発言の場を与えられているのか不可解だったりもする。
ここには、社会のアーキテクチャを設計しようという意志のある人々の間の「常識」と、それ以外の人々の認識――「若者」や「言論」――との乖離が示されている。若者問題よりも、後者の問題の方が深刻である。山田も本書の最終章で、日本における政治的布置としての「保守/革新」枠組みが、「不安定化する社会のコントロール」という先進国共通の課題から遊離していっていることを指摘している。
「不安定化する社会のコントロール」を念頭に置く限り、最も巨視的な対立軸が「新自由主義」-「福祉国家再建」となることを受け入れねばならないと思う。
しかし現在の日本では、保守・革新の双方に、「日本はグローバル化の外部に留まれるはずだ」という幻想が根強く残っている。そういう人々が「グローバル化」に対置させて考えているのは、しばしば「福祉国家」とはまったく異なるものであることが、軸をぼやかしてしまう。
また、この点に関して大きな話題になるのが、プロ野球チームやテレビ局という、「不安定化する社会」を論じるにはあまりに瑣末な現象でしかないことも、軸の不在を象徴しているように思う。
とりわけ、「リベラル派」に分類される人々が、「福祉国家再建」の具体的なビジョンを語る作業をずっと怠ったまま、文化・戦争責任・弱者保護などの問題に終始してきたことの責任は大きいと思う。現在でも、「新自由主義」「市場主義」を簡単に実体化して、それに反対することを自己目的としている人が多い。
その一方で、政治的対立軸の完全な外部に立てるはずだとする姿勢も目立つ。たぶん「ニューアカ」・「日本的ポストモダニズム」にその源を持つと思うんだが、「冷戦型左右対立への違和感」から、大雑把に言って「消費文化礼賛」の方向へ突っ走るのがその共通の特徴と言える。そこかしこの分野で大量発生している、ごく微細な事象・歴史をオタク的に細かく調べることを自己目的とした「疑似実証主義」もその一種だと思う。
おそらく、「農村/都市」、「階級・階層差」といったクラシカルな概念を、それにまったく関心を持たないことの多いメディア論や文化研究とつなげていくことが必要なんじゃないか、と、最後はありきたりな提言になってしまうが……。
ついでに付言すれば、「歴史問題」とは、国内におけるこうした(往々にして不毛な)対立構図の中で論じられているのであり、他国の内部事情をブラックボックスに入れて「のっぺりした保守化」と解釈してはならない。だからといってすべてを他国の内部事情のせいにするのも意味がない。たぶん、まずはこの議論の「不毛さ」の共通性を考えないといけないんだと思う。