« 山田昌弘,2004,『希望格差社会』筑摩書房. | トップページ | Seabrook, Jeremy, 1985, Landscapes of Poverty, Basil Blackwell. »

2005年10月19日 (水)

靖国の話から飛躍して

非常勤先の仕事が終わった後、ややへばったので仮眠を取り、靖国関係のネット資料収集をやっている。

こういう問題が起きるたび、「歴史問題にありがちな、微細すぎるディティールに拘泥するのってほんと意味ないよな」という無力感と、「といっても、何か言うなら最低限のデータはないといけないよな」という義務感とのバランスに、しばし思い惑うことが多い。

それはとにかく、この問題をそのまま論じても仕方ないだろう、という感覚はやはり拭えない。遺族会とのつながりとか政党人脈的な話とかも、重要なんだろうけど私はやや門外漢だし、「そういう場所の話ですべてをカバーできたフェイズはもう過ぎたんじゃないか」的な感覚も強い。

何かざっくり言うと、「経済的リアリティのシビアさ」に「気付く」ことが「社会格差」の重要な一側面として立ち現れているとすれば、この手の「ナショナリズム」が、明らかにその「気付き」の妨害となっていることが重要な気がする。
特に日本では、それが残酷なほど明確に現れていると思う。中年以上と若年とでは、その「気付かなさ」の毛色がだいぶ違うけど。

韓国でも似た構図はある。特に若年の間で。でも386世代とかはちょっと違って、「経済的リアリティ」と「政治的熱さ」みたいのが、まだ完全には乖離してない感じ。
といっても、「経済的リアリティ」を、「民主化の建国神話」に意識的に対置する層も、着実に出現している。というか、この二項の分極化がすなわち近年の「386世代」であるような気もする。
日本では、そのどっちかだけ取り上げて「非-反日化の期待」と「反日の激化」のどちらかの兆候とする話が、ぼちぼち出回っている。どうでもいいと思うんだけどなあ。

中国では、やっぱり成長の形態&時代背景からして、「気付き」と「ナショナリズム」という形で問題が立てにくいという事情があるような気がする。都市中間層が、そのものとして社会全体では上層に近く位置づけられ、その内部の格差意識に対するバッファになってるというのもありそう。
でも中間層の若年の割と上層部の内部(三里屯で遊んでるような子たち)に話を限れば、同形の構図があるような気がする。もちろん彼らは上層なんだから、「経済的リアリティからの乖離」とは呼びづらいんだけど、でもやはり。あと数年したらもっと顕在化するのかもしれないと思ったり。

やっぱり「経済的リアリティ」とか「気付き」とかいうより、「流動化/個人化への適応」と言った方がいいかもしれないなあ。何かおれ、同じ所をぐるぐる回ってる気がするけど。

|