Seabrook, Jeremy, 1985, Landscapes of Poverty, Basil Blackwell.
どう考えても不可能なスケジュール。おれの当初の計画が悪いし、その後の進め方も悪い。徹夜一回二回じゃどーにもならんな。今夜半あたり神の光臨を待つしかない29歳の秋。
それはともかく、「豊かさの副作用」としての「新しい貧困」を執拗に描くこの本。割といろいろな所に引用されているので、たぶん有名。「弱者」ではなく、豊かさを享受する層の中にこそ貧困を生むのがサービス産業化であるとする。
とくに若年の事例が多く引かれる。16歳で髪を染め、鼻ピアスをし、ストリートに飛び出して、18歳でシングルマザーになって実家に帰ったミシェル。いま彼女は、流行おくれのポップスターのポスターが貼ってある部屋で、無気力にたたずむのみである(このくだりは渋谷望『魂の労働』に引用されている)。
また地方からロンドンに出てきて、ファッション店で働いているシャロン。「モデルみたい」な同僚たちと、音楽の流れる職場で、うれしそうに仕事をしている。でも彼女は朝の7時半から夜の7時半まで働いて、わずか20ポンドしか受け取っていないのだ。
昨今の日本のフリーター論とかの「元ネタ」かもしれない。でも、英語圏でこれが出たのが1985年であるという「20年のタイムラグ」には本当に目の眩む思いがする。一体何なんでしょうね。
大枠としては、「労働者階級の変容」というカルチュラル・スタディーズのモティーフを採っている。親世代は工場労働者で、エンゲルスが描いたような機械労働の悲惨の中を生きてきた。彼らから見て、工場じゃなくオフィスや店で、ドロにまみれたりしないサービス労働は、当初「解放」と見られた。
また労働者も文化商品を手に入れることが可能になったし、経済構造としてそれが求められるようになった。消費も「解放」だった。でもこれらは両方でも「罠」だった、というお話。
もともとカルチュラル・スタディーズというのは<まさにこのこと>を論じようとしていたものだと思うのだが、90年代に日本へ流入したきた時には<見間違えることすらできないほど完全な別物>になって今に至っている。
というか英語圏でも、ある時期以後のカルスタは、「文化」に変な期待をかける方向に突っ走っていくしかなかったみたいだなあ。
黒人ゲットーの調査をしている社会学者のウィルソンは、60年代的な「ブラックパワー運動」が、ある時期以後は、経済的再分配という真の問題から目を逸らす役割しか果たさなくなっていて、今となってはかえって有害だみたいなことをよく指摘している。
この手の、「正当的」「公共的」とか、あるいは「道徳的」「内面的」「伝統的」とかのもろもろが、おしなべて<結局シゴトとオカネ>に回収されていくのが今の世界。それはたしかに気持ちが悪い。
でもそれを批判しようとすれば、どこかで「そうじゃないもの」を措定せざるを得ない。特に今の日本では「そうじゃないもの」が<やたらめったら満ちあふれている>けど、それは絶対に、新種のミシェルやシャロンをどんどん生んでいく役にしか立たない。「あなたはシゴトとオカネの話をしているけど、それではシゴトもオカネも生まれませんよ」という形でしかもう論を立てられないことを、とりあえず認める必要がある、ということなんだと思う。
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