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2005年11月29日 (火)

李強,高【旧字】坂健次・李為訳,2004,『中国の社会階層と貧富の格差』ハーベスト社.(=李強,2000,『社会分層与貧富差別』鷺江出版社.)

週末ぐうたらしたら、だいぶ復活した。ふう。

某学会誌(の請負い先の某出版社)からゲラが来たんだけど、金曜日に郵送されてきたものを「月曜までに返送してくれ」というのはちょっとムリなんじゃないでしょうか。何か手違いでもあったんでしょうか。まあいいんですけど。

ところで、私は中国の「体系的な専門家」とはとても言えない人間ですが、こちらの本は、中国のそこかしこで見聞したことの「点が線になる」ような感覚を味わえる、素晴らしい出来となっております。
これも情報量が多いのであんまり要約などできないんだが、私の興味あったのはたとえばこんな所。ちなみに「単位」というのは、職場であり生活共同体でもあるような、中国社会主義独特の制度。

 「中国が改革以前に実行していたのは、いわゆる「鉄飯碗」制度で、個人はいったん何がしかの単位に就職した後は、一般には解雇されることはない。さらにまた単位間を移動することもきわめて少なかった。したがって、個人が生涯に亘って一つの単位に就業する現象は、比較的一般的である。このように、単位は個人の終身活動の最も重要な場所となり、両者と関係は非常に密接である。さらに、中国都市就業者の住宅のほとんどは単位によって提供されており、単位の住居はまた地理的にみて相対的に集中している。このように、単位成員もまたさらに容易に緊密な集団を形成することになる。最後に、単位はその働き手に賃金を与えるだけではない。同時に医療、健康等の保険とサービスを、また比較的大きな組織のなかには食堂サービス、商業サービス、子女教育等をも提供している。このように、個人の社会的地位の如何さえも、つねに彼らが所属している単位の地位と関係している」(18)

中国の市場経済化というのは、こうした「単位制度」に漏れが生じる過程でもあった。
その際には以下のような特色があった。

 「1980年代のいくつかの調査によれば、当時にあっては、これ【都市における自営私営工商層】を構成する集団の多くは、退職者、都市の有閑者、待業中の青年、都市に入った農民等であった。甚だしいばあいには、一部の人は刑事犯罪で釈放された後、適当な仕事が見つからず工商業に従事した者もいた。したがって、この階層は最初から素質の低い集団として構成されたのである。当時、都市のなかの社会身分と素質地位は【ママ】比較的高い集団は主に国営企業・事業単位と政府機関で働いていたため、これらの単位では一般にみな安定した賃金収入、労働保全複利、公費医療、および住居、退職金等に恵まれていたため、当時では、このような単位を離脱して自営私営工商者に変身した人びとの割合は低かったのである」(24)。

そんな背景のもと、市場経済化が始まったばかりの80年代には、肉体労働者の方が知能労働者よりも高い賃金をもらうという、一種の逆転現象が広く生じていた(90年代には再逆転して知能労働者の方が高くなる)。それはなぜか。

「社会的地位の比較的低い集団が最も先に市場経済に入ったのに対し、社会地位が高い集団が市場経済に参入する速度はあきらかにそれより遅い。なぜかと言うと、第一に制度が変遷するなかで社会的地位が比較的高い集団(社会中心集団と呼ぶことができる)は通常、元の体制において多くの利益を享受している。もしも元の体制から離脱し、新しい体制に入れば元の体制で受けていた多くの利益を失うことになる。この種の利益の損得にばかりこだわる気持ちが、彼らが早い段階において市場経済に参入することをおしとどめたのである。一方、比較的社会的地位が低い集団(社会周辺集団と呼ぶことができる)は元の体制ではそもそも低い利益しか享受できていない。このため、制度的変遷が生じたとき、彼らは容易に元の体制を離脱し、新しい体制に入り、しかも迅速に新体制によってもたらされる利益を享受するとができるのである。しかしながら、制度の変遷が一定程度に達し、新たな体制によってもたらされる利益が明確になり、古い体制がますます維持しにくくなったとき、はじめて過去の社会中心集団は次第に新しい体制に入(67)ってくる」(68)

私の感覚だと、「単位」というのをどうしても「会社主義」とのアナロジーで捉えることになり、「現在」というのは「その崩壊過程」という問題系で考えることになる。その崩壊過程にはずいぶん違いがあったようだ。それは一言で言うと「日本の方がよっぽど堅固で成功した社会主義だった、中国はそれに比べて後進であり安定性も蓄積も絶対的に欠いていた」ということになるんでしょうが……むしろ前者が「桎梏」になってしまうような局面を、我々は嫌と言うほど毎日毎日見せつけられている訳で……。
その一端がこんな事情になるのかと。

 ミルズは、新→旧中間層の移行を被雇用者の増大としたが、中国では正反対。独立経営者などが新中間層であり、またその過程はアメリカよりはるかに早いスピードで起こった(81)
 新世代では、学歴と収入の相関が大きく、また40歳前後で収入のピークに達する(85)
 「これは主に市場競争による結果である。近年、高収入領域は三資企業、新興企業、たとえば、金融、証券、情報、ハイテクなどの領域に集中している。これらの業界はそれ自体、社会のなかで上昇地位にあり、いったん入ると市場の最頂点を占めることになる。若い人が学歴と新しい専門知識を有し、外国語を理解し、そのうえパソコンができるとなると競争力の職業に比較的就きやすい。一方、年齢の高い人はまずその年齢とすでに習得した技術や、知識の関係から新しい専門領域への適応は非常に困難である。年齢の高い人の属する国有企業と伝統的製造業はさまざまな原因で衰退期に入り、単位の地位が下降す(85)ればさらに中高年の社会的地位の下降を速める」(86)

という訳で、市場経済化で不利になったのは、むしろ国有企業で「福祉づけ」になっていた中高年層であり、都市部の教育のある若年層はその恩恵を受ける側であると。
しかしながら、著者によれば、こうして形成されつつある新中間層というのはいまだ大都市のみに限られた脆弱な社会集団であり、他の先進国に見られるように、近い将来は失業問題が若年層へ接近していくことが予想される。それは最大の社会不安定要因になるから、今のうちから対策を……と話が続いていく。

私が見るに、要するに中国は、一種の「後発性利益」(ガーシェンクロン)で、「一足飛びにアメリカになった」ということなんじゃないでしょうかね。しかしながら当の中国の若年層の多くは、その「ねじれを含みつつ進行するアメリカ化」に適応できているようにはまったく見えない。日本の我々はバカみたいに古い問題系といまだに対処し続けざるを得ない不幸を抱えているが、あちらはあちらでマジ大変なようです。はい。

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2005年11月27日 (日)

日韓Oi Festivalなど

こないだ頂いたお仕事は、何とか決着を見たようだ。ありがとうございますー。

あと、3つくらい並行して進めないといかん。たぶん1つか2つしか終わらなそうだけど……。終わらなくても自分が損するだけというタイプの仕事はどうしても後回しになるが、そっちの方が業界的には大事とされていたりする訳で……困ったもんです。本当に。

金曜日は例によって「結構激務な日」で、「帰路の電車内で寝込んでしまって乗り過ごす」のがもはやデフォルトになっている。この日しか使わない路線だから、体が慣れていないんだけど、だらしないですね。はい。

土曜は日韓Oi Festivalというのに行って来た。
http://sound.jp/gunyu/oifes.html
オールナイトだったんだが、「どう考えても朝まではムリ」なので、半分少し前くらいで退席。
でも旧知の人々にいろいろ会えて良かった。韓国でもんのすごくいろいろあったRUXのウォン・ジョンヒは、いつもながら疲れていたけども元気で、経営も続けられているらしい。RUXの前のギターのパク・コヌはやっぱり日本に来ていて、会場にもいたけど、来月初めには韓国に帰るらしい。

日本のこの界隈というのは、「本当に労働者階級になった人々」が、他に仕事を持ちながらやってる趣味空間なのがもう明らかなんだけども、韓国サイドの空気感はちょっと違う。でもどんどんこっちに近づいているのは確か。
当人たちがそれで良いなら良いんだけど、それにしてもRUXはもったいないことをした、と思わざるを得ない。おれなんかの仕事も、他人事じゃないけど……。
そんな「今に生きるあれこれ」を文章化しようとして、失敗し続けています。ちょっとダウナーな日曜日です。はい。

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2005年11月24日 (木)

ブルックス,デイビッド,2000=2002,『ボボズ――ニューリッチたちの優雅な生き方』光文社.

いや、もうおれダメかもしんない。
「ああ、もう足を洗いてえな」
「どこからッスカ?」
「まあ、人生から」
みたいなやりとりを、こないだSM君とした記憶がある。

あえて追加すれば、
「洗ってどこ行くんスカ?」
「いつか訪れた、チベットのセラ寺で禅問答をしながら暮らしたい」
みたいな、そんな心境になりかけている冬の夜更け。

そんな感じで本を読む時間がない。こないだようやく買ったこれも、あんま読み進んでない。
でも第1章だけでも面白かった。ボボズというのは「Bourgeois Bohemians」の略で、要は「WASP的価値観への対抗文化を通過した後に出現した、昔で言えばボヘミアンなライフスタイルなんだけど、経済的にはニューリッチ」な人々のこと。「経済的な成功を楽しみながら、同時に、自由な精神を持った反逆者の生き方を創り出そうとした」(53)とゆーことだ。

彼らの多くは「感覚を金に換える」職業についている。そして彼らこそが「リッチ」になったということは、旧来のヒエラルキーが消滅したということを意味する。しかし彼らの「リッチさ」は、昔のエリートと違い「名誉職的地位」に留まることができない、不安定なものである……みたいな主旨。

そんで面白いのは、ベビーブーム世代が60年代にやったのは、WASPのモラルの権威と秩序の破壊であった、とされていること。ここで生じた「革命」の延長上に、現在のボボズがあるのだ……と。
それをこっちの団塊と比べて「ハアアとため息をつきたくなる」のはやまやまなんだけども、「それは時間が解決してくれるよ、たぶん」ということで拘泥しても仕方ないでしょう。
たとえば「団塊世代が育んだ『やりたいこと志向』という青い鳥の弊害」とかいう話も最近結構あるけども、たぶん問題はそういうことじゃないでしょう。
「それ、育まないで、どうすんの?みんながずっと工場とか事務所とかで働けばいいの?むしろ途上国に逆戻りすれば解決すんの?」みたいな。

そういうことをすっぱり言える概念が、遠藤薫の開発した「オルトエリート」という概念くらいしかないことは、この際ここではっきりと言っておきたい。まあ今ここじゃなくても良いんですけども。

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2005年11月22日 (火)

SAPIO「世界の『上流社会』『下流社会』」

月曜の勤務先の某オヒスの健康診断結果が上がってきました。肝臓のガンマなんちゃら値が、通常よりやや高めなので「禁酒しろ」とのことです。
私は、毎日一人で寝酒を飲む習慣がある。酒飲む時の9割は一人である(笑)。しかしそうやってると酒がどんどん弱くなる。なぜなら、「飲む=もう後は寝るだけなので心を裸にして良い(爆)」というのがインプットされていて、たまに誰かと飲みに行くと「結構すぐ悪酔いしたりする」から。

今夜も、「あなたが、すきだから~」でおなじみのチャミスル(しかし韓国バージョンの緑小瓶)を飲みながら、もう寝る間際の午前1:30に更新したりしている。

関係ないが、そのオヒスで同室のM田女史へ、昼休みなどに書きかけの原稿を見せると「ケチョンケチョンにやり込められる」、いやもとい「本音の貴重なコメントが聞ける」というサブ効能がある。いつもありがとうございます。また次のもよろしくです。本当に。

そしてSAPIO今週号(もう先週号?)のこの特集。思いのほか面白い。やはり団塊と若年層の世代間対立とかいうのは、もう後景に引いているのかもしれない。他の先進国との比較に議論を開いていったりしないと、どうにもならないのだろう。

レーガン・サッチャーから20年遅れで、しかもそれらをはるかに凌ぐ冷酷さで進行していると「小泉改革」を断じる森永卓郎。年収の割に生活水準が低い(物価が高すぎる)ことこそ問題だとする大前研一。サッチャリズムとは実は「階級の壁を自由化によって壊した」ものでもあると論じる林信吾。あとドイツ、中国その他の「格差事情」の紹介。
そういう面白い記事が並んでいる中で、一人気を吐いているのが「例の彼」。題して「チンパンジーと酷似する『出あるき族』ほかケータイによる『日本人のサル化』はさらに進んだ」。なぜ「彼」に依頼が出てしまったのだろうか。そこにだけ悔いが残るこの特集。

それにしても……「足を乗せればすぐ消えるはしご」が満載のこの界隈。さあ一体どうする。どう考えても「時代的に違う」ことが「一緒に生じている」んだから、それもしょうがないんだよな、たぶん。ぬるい感じですが、もう寝ます。はい。

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2005年11月20日 (日)

まあどうでもいいんだけど

休日の土曜は<八王子ミニ中国>で、こないだの「満豚坊」に行ったりする。今回はいろいろ頼んだが、何食ってもうまい。酢豚とか青菜炒めとか鶏唐揚とか、その辺の中華料理屋と段違いのレベルを見せ付けてくれる。日式の「青菜挽肉炒めラーメン」も、中華街で変な麺食うよりよっぽどうまいぜ。
3人でしこたま食って、ビール飲んで、約7~8千円かしらね。多摩~八王子近辺に住んでたら、なぜ行かないのか理解ができない。もう一度紹介ページのリンク貼っとく。
http://www.geocities.jp/sayapie3838/mantonbou.html

そして某R君のお知り合いがやってる中国物産店にて「火鍋」の素を買う。これを湯にといて適当に具を入れれば、刀削M荘で一人頭4000円くらいかかる「火鍋」が格安・即効でできてしまう、予定。
鍋パーティでもしたい所だが、根っから「友達がいない」私に付き合ってくれる人が全然思い当たらない(笑)。なのでたぶんSM君あたりを呼び出し、強制で激辛の鍋を一緒に食わせる、予定。

さてマンガ「嫌韓流」というのをようやく読みました(遅い)。
それほど細かく書いてる時間がないのでアレなんだが、基本的には学園ドラマ風に、同級生同士の物語という体裁を取っている。そんで「日本の戦争責任がどうとかワアワア言う在日韓国人学生」と、「彼を逐一論破する賢い日本人の上級生&彼に導かれていろいろ学んでいく主人公たち」との討論形式として進行する。
そんではっきり言って「どっちももう時代遅れだし、どっちももう一般人の多くは相手にしてねえし、どうでもいいんじゃね」としか言いようのない「左右対立」が延々描かれる。
……大体、こんな「在日青年」は、いまどき「在日運動家のオヤジの頭の中」にしかいねえと思うけど、とか言うのは無粋でしょうか。

こういう形で戯画的な対立を演出する以外に、「政治的or社会的」な出版物やテレビ番組を売る術のなかった時代の、古臭いやり方をそのまま踏襲していると言えましょう。
今はもう「そんな手を使わなくても、みんながそれぞれ多様な話題を必要としている」時代になっている。それぞれの仕事に役立つ形での「政治的or社会的」な情報こそにニーズがある。当たり前のことだと思う。
そうなると、こういう古臭い手にダマされ続ける「客層」というのは、「社会の一定部分にゲットー化」されていくと思う。「もう人生あがりで、後は適当な本を読んで暮らしたい」とかいう「ゲットー」だったら、まあいい、というか仕方ない。でも「そういうあがり方が絶対不可能」な人々にとって、古臭いウソは「彼ら自身の損になる」。そこに右も左も変わりはない。

細かい歴史的な事実指摘は、基本的にそんなに間違っているとは思わない。だけれども「そんなこと韓国人だってまともな人はとっくに分かってる」ことが多い。
たとえば「日韓基本条約で日本が巨額の賠償金を払ったこと」に対し、「これを補償と呼ばないのなら韓国政府に訴えてください」といって相手方がオロオロする(笑)様子が描かれているけれども、今まさに韓国で進んでいる「親日派清算」というのがこの動き。
だったら、それを進めている今の廬武鉉の革新政権を、とりあえず支持するのがスジだと思うけど。単純に。だけどたぶんこの著者には、「親日派清算」というのも「ただの反日」としか見えないんだろう。
ほんで韓国の「保守」――つまりこの援助を受けることを決定した朴正熙を支持する側――は、まさに「韓国のナショナリスト」(「民族主義」ではない)であり、この著者はこちらの陣営も快く思わないだろう。じゃ、どうしたいのか。
要するに「韓国では『ナショナリズム』と『民族主義』とは対立関係にある」ということも知らない。これは知識の多寡の問題ではなく、韓国の国内だって一枚岩じゃなくて、内部に対立関係があるという当然の前提を持っているかどうかの問題である。
「そういうのを知らなくても良かった」時代の、国同士の対立という古い枠組みにすべてを落とし込もうとするから、いくら微細な歴史を勉強した所ですべてムダになってしまう。

私は、たとえ韓国のことを何も知らなくても(まあおれだってすんごい知ってる訳じゃありませんし)、「こんな話には意味がない」という皮膚感覚のようなものは、現在すでに多くの人々に広がってると思う。だから躍起になって反論したりする必要もないと思うなあ。
むしろ、そういう「意味ない感覚」がもたらす問題(まあちょっと前に書いた「ダンピーの大量生産」とかそういうことですが)という方が問題なのであって、すでにどうでも良くなっているものの「死体叩き」をしていても仕方ないと思います。そこでも右も左も関係ないと思います。はい。

また余計なことを言うと、右でも左でも「おれは既成秩序に反抗して真実を語ってるんダゼ」的な、よく分からない英雄意識、というか被害者意識みたいのって、何なんでしょうね。その割にどうでもいいことばっかりで。
もしおれが、現実動向抜きに、国を愛し「大東亜共栄圏」に賛同する「ナショナリスト」だったら、朝鮮・台湾・中国のかなりの部分、南洋諸島もすべて「日本」なのであり、「アメリカおよび連合国が原爆投下や東京大空襲という非道な手段で日本を降伏させ、正当な領土を手放させた」のであり、「ソ連の不当な侵略で消滅した満州国というのは、今すぐ正統な国家として復権せねばならない」と考えると思うけどなあ。
韓国や中国の「反日」に固執するのは、それぞれの「国家の正当性」を認めることであり、実は「反日という問題系すら存在しない」のであり、敵はアメリカと旧ソ連である、と考えるのが普通だと思うけどなあ。……と、余計なことを長々書いている時は、おれが欝な時か現実逃避している時です。

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2005年11月18日 (金)

がっかりですね

コメントがまったくつかないことで内輪では有名な(うそ)このブログ。
本日はただのグチ。某御大に「今○○を書いている」と言ったら、即答で「それは正規雇用されてからでいいんじゃないか」と言われた。

その「正規雇用」って何でしょうね。今の日本ではその観念がまだ厳然と残っている。だけれどもそんなのは世界中でたぶん日本だけ。積極的な行動で有名になった人が、高い年棒をもらうのが今の世界の常識であり、卵たちはそれを目指すのが普通である。これは「私の周囲の世界」に限ったことではまったくない。韓国だって中国だって、もうそうなんだけど。

今の日本では、「福祉」の享受という以外に、生き延びる術がないんだろうか。正確に言うと、かなりの程度「人為的に」そういう環境が作られている。それによって得をする人は、世代も糞も関係なく「ただの一人もいやしない」。みんなをゆっくり沈めていくだけだ。だけどそういう構図が厳然と残っている。誰もそれについて何も言わない。不思議で仕方がない。

自浄作用のない組織は、外から改革されるしかない。しかしそういう改革者は内部の論理に何も頓着しないので、「いきなりすべてあぼーん」方式になる。それよりは、痛みを伴うにしても、内部の論理で改革をした方がいいに決まっている。だけど誰も動かない。だったら、いずれ改革者がやってきて、すべてをぶっ壊すだろう。これは、韓国社会が総体として経験したことでもある。
私はそれによって得をする立場にない。しかし「ゆっくり沈んでいく」よりは、「少なくともあいつらだけが生き残るということのない」「いきなりあぼーん方式」の方がまだマシだ。こういう感情も「私の周囲の世界」に限ったことではまったくない。

外資がどうのとか、ファンドがどうのとか、都市型保守がどうのとか、ゴミみたいな御託を並べてる連中は、何一つこういう現代の心象風景をすくい上げられていない。
そういう心象は、多くの人々にとって「もう日本はダメだ」という言葉でしか表現ができない。それは語彙の欠如とかいう問題じゃなくて、そういう人々の直感の方がゴミ御託よりもよっぽど正当なのである。
なのに「新しい保守に回収されない日本語を開発せねばならない」とか言ってる、高村薫みたいなゴミ(私と直接関係ない人は実名:笑)とか、「ネオリベラリズムが席巻している」とかいうIHみたいなゴミとか、「まったりした日常を救済せねばならない」とか言ってるゴミとか、そういうのばかりがメディアに登場する。私を含め、人々の絶望は深まるばかりと言う他ない。どうにかならないんですかね、本当に。
だからこそ、おいお前ら、おれたちの出番なんだよ!

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2005年11月16日 (水)

最近出た、有名な対談本を読んで思ったこと

まだ全部読んでないけど。内容についてはあんまり書くことがない(爆)。思ったこといくつか。大学の世界と関係ない人には、興味ない話です。はい。

まず、こういう人々を「マスメディアに出ている」とかいう理由だけで批判するのは、品性下劣である。
そういう人に限って、くだらない微細な世界に閉じこもっている。そういう人を養っているのは、たいがいくだらない「福祉」であり、自分の享受する「福祉」の方が「マスメディア知識人」なんかよりよっぽど有害であり、いろいろな人の不利益の上に成立しているものであり、そして今現在日本の問題の根本とされているものであることに、まったく思い至らない。
今現在「福祉」を享受しておらず、たぶん将来も享受しないのに、こういう思考回路を引きずっている人は、残念だが一番救いようがない。自分の敵が見えていない。どう考えても敵である存在の肩を持つことにこだわっている。そういう人は今どこにでもいる。私には理解できないが、「人生それぞれ」なので、まあお互い勝手にしましょう。

その上で思ったこと。たぶん、ゲームのルールは変わっている。私はよく言うんだけど、音楽にたとえると(笑)、ある方向で「卓越化」していった先に、たとえば「デスメタル」というジャンルがあった。そういうことをやることに、説得力と経済効用のあった時代が、かつてあったのだろう。知らないけど。
でもゲームのルールは変わった。その「卓越化」の方向は、どうでもよくなった。というか他人をけなして「卓越化」するということ自体が、ルールから外れていっているのかもしれない。
ここ20年くらい、いろんなルールが出てきては消えていった。でも私が思うに、少なくとも短期的には、もう単一の方向に収束してきている。それがこっちにまだ波及してきてないだけだ。そして波及してくる過程で、「古いルールの大部分は、単なるどうでもいいことになって消えて行く」。残るのは、そこで成功した人たちの既得権益だけであり、充分な既得権益のある人たちは、その後何をしたって安泰なのである。

だが我々は、新しいルールで動かなければならない。その見立てが必要なのであって、古いルールをなつかしんだり、逆に粘着質に反発したりしても、何一つ益にはならない。ルールが見えていなかった、そもそもそういうことを考えていなかった、見立てが間違った、等々で失敗しても、それは「既得権益者のせいでも何でもなく、自分がバカだっただけ」である。そんなシビアさを実感できるという意味で、買って良かったと思う。そんで自分の原稿書かなきゃああああ(笑)

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2005年11月15日 (火)

また文革かよ

矢吹晋,1989,『文化大革命』講談社.
中島嶺雄,1981→2002,『北京烈烈』講談社.

いまごろこういう本を読んでいるのは我ながら非常に問題だと思う。そして途中から薄々気付いていたが、「文革とその後」というネタの鉱脈は思ったより浅い。というか方向的にそっちじゃないかも。でも「そっちじゃない方」を厳密に書いているときりがない。さらーりと済ませよう。そうしよう。

いよいよお尻に火がついている今日この頃、同僚のAM氏と一緒に過ごす時間が妙に多い。しかし最近ダウナー気味のAM氏。
まあ「欝になるなと言うのがムリ」な昨今のこの界隈、「焦らず妬まずダマされず」、しかし前のめりにつんのめって行きましょう。生ぬるいお湯を与えられて「頑張った つもりでいたら ゴミ人生」の先達とその予備軍を、妬む必要などないのだ。私はそう思って何とかやってます。はい。

先週末には、一応日本人だがすでに半分韓国人、というか永遠のマージナル・マンとも言うべきヒョンニムが、ソウルからやってきて一冊の本を手渡してくれた。これ通読するのは相当気合がいりますね。語学は近年ものすごい勢いでサボり気味だが、将来のこと(エクソダス系)とか考えても三面作戦で頑張らないといけないなと思いつつ、もんのすごく眠い初冬の午前1:30。

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2005年11月12日 (土)

石沢浩一,塩沢英一,和仁廉夫,小倉利丸『東アジア・交錯するナショナリズム』社会評論社.

ちょっと現実逃避更新。ごめんやっぱムリそう>業務連絡

それとは別口で、新しいお仕事を頂いた。うれしいな~。最初はどうなることかと思ったが、何とかなりそうな気がしてきた。しかし「気がしてきた」だけなので、まだまだ予断を許さない。

そして、日・韓・中・台・香をまたいでナショナリズムを考察するという、意欲的なこの本。なんだけど、ちょっと筆者によって文体がバラバラ過ぎるのが残念。あと、一部の人によるオレ自慢の嵐は勘弁して欲しい。

印象に乗ったのは、韓国のパート。
いつかちょっと書いた「抵抗民族主義の韓国国内における微妙な位置づけ」を指摘して、「あれは国内では抵抗なんだよ、単純なナショナリズムじゃないんだよ」と主張するという主旨になっている。
<そんなことすら知らない>あまりにもレベルの低い議論が多い中、そう言いたいのは分る。でも私が思うに、そういう言い方ではもう通じないんじゃないでしょうか。韓国国内においても「抵抗民族主義」が「道徳的に善だ」の一点張りで乗り切れる時代はもう終わってるだろう。そこに「付き合い過ぎる」のも、それはそれでおかしいような気がする。
というか、紹介するなら、党派的な対立から距離を取らないと、説得力を欠くことになると思う。最近、この手の「韓国政治はすげえ」という主旨の本がよくあるけど、意味不明の幻想と反感との、ともに不毛な反応を招く役にしか立たないだろう。というかもう招いていると思う。

小倉氏による日本のパートでは:
 戦後の親米ナショナリズム
→政治のイデオロギーから経済的なナショナリズムへの転化
→冷戦終結とともにその物質的な土台が揺らいだことによる「内破」
→ポスト戦後=反米ナショナリズムの発生
……という経緯が手際よくまとめられる。そして最新形としての「反米ナショナリズム」にも、「アメリカ流ライフスタイル」を払拭できるほどの内実はないとされる。
まったくその通りだと思う。だけれども、そういう「ナショナリズム」が「なぜいけないのか」がよく分からない。
たぶん「いけない」と言いやすかったのは、上で言う「経済的ナショナリズム」までだろう。そしてその「経済的ナショナリズム」が「内破」したことは、「今までナショナリズムと呼ばれていたものは、実はナショナリズムじゃなかった」ことが明らかになった過程でもある。
たとえば、日本の高度成長をもたらし、ナショナリズムの核とされていた「日本的経営」は、自国民を選択的に「移民労働者化」していた。その恩恵を受けている「かのように」思っていた人々も、実は「社畜」にされて競争力を削がれていただけだった。そういうナショナリズムが想定する「国民」とは、誰のことだったのか。要は、「ナショナリズムはいけない」ではなくて、「ナショナリズムではなかった」のであり、この上さらに「ナショナリズムはいけない」という言い方に固執する意図が私にはよく分からないのである。

「経済的ナショナリズム」が「いけなかった」理由はもう一つあって、当時はアジアの中心に日本があり、周囲からもそう思われていた。そういう厳然たる環境条件があった。だから、戦争責任という意味での「アジア」を賭け金にしながら、その「アジア」自体の主体性をまったく認めないで良かった。その内部で何が起きているのか、全然知らなくても良いし、都合の良い相手の声だけ輸入すれば良かった。
だけれどもそういう環境条件は、日本が反省するか否かと関係なく、崩壊したんじゃないか。今現在日本がアジアの唯一の中心だと思っている人は、よほどのバカだろうし、日本の外にはすでに一人もいないだろう。10年後だったらなおさらだ。なのにまだ旧来のやり口で「ナショナリズムはいけない」を繰り返していても、国外では空回りになるだけだ。
意地悪な言い方をすれば、たとえば「国境を超えた民衆の連帯」のために「複合的なアイデンティティ」を求める(結論部)、というようなことを中国で言っても、「空想的共産主義」の一言で、誰にも相手にされないだろう。
そんで国内からは「国益のためにならない」とかいう反応を招くだけだろう。たとえば「歴史問題の解決」のためにしても、何一つ役に立たないことは確かだ。

たぶん「ナショナリズム」という概念を狭く限定しないと、問題をぼやかすだけだと思う。たとえば石原慎太郎人気には確かに「ナショナリズム」が含まれているかもしれない。でも最近の日本語ラップとか『凶気の桜』とかを「ナショナリズム」と名指しして批判することに、いかほどの意味があるのか、よく分からない。というか全体の主旨から言うと「親米意識の相対化」として評価するべき事態なんじゃないかとも思う……けどどっちにしてもあんまり意味ないと思う。
……と、私とは考えがいろいろ違うけども、「日本のナショナリズムの来歴のまとめ」として<使える>論文だと思います。はい。

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2005年11月11日 (金)

ポルトガル人の知人と

いろいろ話していて思ったのだが、ここでつらつら書いているような問題は、驚くほど似た形でアチラでも生じているらしい。

しかし一番違うのは、やっぱり「移民」というファクターがあること。たとえば郊外開発。アチラでは移民に対する公的な住宅提供として、郊外に団地を建てた。80年代初頭くらいのハナシ。すると、住む家はできたが、そこにはロクな仕事場もなければ大した学校もなかった。
移民一世は、住む家ができた時点で満足した人が多い。だけれども二世は自分たちの相対的な貧困に対する不満を蓄積させていく。団地は老朽化していくが、自分たちで改装する金はない。そして彼らには「人生の選択肢」もものすごく限られている。
そんな経緯で、治安悪化の懸念対象となったりするのは大体二世の若者であり、それは彼ら自身の意志というより構造的な問題である。そして昨今のパリ暴動の背景をなしているのも、こういう「移民への福祉としての郊外ゲットー化」であることは言うまでもない。

今現在、ヨーロッパでは移民といえばまず東欧人であり、旧植民地から来た黒人の問題は後景に引いている(こういう「ゲットー」に追いやられたということかもしれない)。そして東欧人はまだ一世だからこういう問題があんまり生じていないが、彼らにも同じことが繰り返されている気もする……というような話。

『要塞都市LA』(社会学とか興味ある人には確実に全員必読の本)とか見てると、アメリカでも「住宅供給公社」の施策による、こういう「福祉としてのゲットー化」みたいなことがあったみたいですね。でもそれは郊外じゃなくて都心部=インナーシティの再開発が主であったようだ。

こういう話を、たとえば三浦展の『下流社会』と比較してみたらどうか。私は、「フリーター」というのは「欧米モデルでは移民がやっていた下層サービス業を、自国民の内部から調達したもの」だと思っているのだが、「郊外のファスト風土化」とかいうのも、より緻密に見てみると、というか他国と比較したりすれば、いろいろ面白いことが出てくると思う。
そして思うのだが、父子関係の比喩で理解されるような「世代間格差」というのは、たぶん「ほんとは移民とか人種みたいな、いろいろ深刻な政治的差異に貫かれるはずだった事態」が、日本では「世代くらいしか認識可能な差異がなかった」という所に呼び出された、まったくの疑似問題なんじゃないか。
「格差」の手がかりとして最初に必要だった話題ではあると思うが、これ以上世代問題に拘泥すると「疑似問題の上塗り」になってしまうような気がするな。韓国・中国を含め、こういう形で「世代」というのが広く話題になってるのは日本くらい、というのも何となく分る(いや韓国は多少似た話題があるか?)。いつもながら単なる思い付きですけど。

そんでまた余計なことを言えば、私が三浦展の本を割と好きなのは、「これまで日本では確かに語られなかったこと」を言っており、「今日的な問題に展開されていく可能性」を持っていると思うからであり、くだらないことの緻密な統計処理とか文献解読とか、あるいはいまだに「コミュニケーションがどうのこうの」とか言っている奴が彼の悪口を言うのは本当にどうかと思う。

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2005年11月 9日 (水)

森山茂徳,1998,『韓国現代政治』東京大学出版会

ちょっと前に、たまたま古書店で見かけて買った本。これが意外(失礼)な名著で読みごたえ満点。むちゃくちゃ参考になる。私は知らなかったが有名な本なんだろうか。

韓国現代史を、「分断体制」の生成~確立~変容、という太い軸で分析しようという主旨。
たとえばユン・コォンチャの『現代韓国の思想』が、ほぼすべて広義のマルクス主義の圏域にあると言える「韓国の(進歩派)思想」のみを追ったもの(まあそれはそれで非常に貴重な整理・紹介なんだが)なのに対し、こちらはたとえば富永健一みたいな文体で巨視的な枠組みを提示してくれる。
最近の私は後者の方が好き、というか前者の路線は「幸せな世代」がやっていた駄ボラに過ぎないのであり、若い世代がその路線を目指すのは「自殺行為」だと思っている。その点に日本も韓国も変わりはないんじゃないかな。
私自身の認識を言っているだけで、他人がそちらへ行くのを止める気は毛頭ないけども。あと前者の路線を「頭ごなしにバカにする」人に限って、無意識に駄ボラパラダイムを引きずってたりするのも往々目にする光景である。

情報量が多い本なので要約などできないんだが、私の関心から興味深かったのは、「抵抗民族主義」と高度成長との複雑な関係について。単純に「反日とか左傾化とかがどうのこうの」言っている人は真っ先に読んだ方が良い。

下敷きになっているのは、対日「抵抗民族主義」が、そもそも初めから「権威主義」との癒着を持っており、民衆と権力者という分裂の契機をはらんでいたこと。
そういう「抵抗民族主義」と、私の言葉でいい加減に言えば「経済的リアリズム」との乖離が、すなわち韓国戦後史における政治的対立構図の上で重要である。

まず李承晩政権は、反日という点では「抵抗民族主義」と親和性を持ちながらも、分断を前提とする「反共」イデオロギーで決定的に対立することになる。ここから、現代まで続く「韓国のナショナリズム」の困難さが派生する。
その後朴正熙の維新政権下で完成形を見る「分断体制」とは、民族統一を目指す「抵抗民族主義」の抑圧と、反共的権威主義体制の確立である。

ところが、他方で朴正熙体制は経済発展を至上目標とする開発体制でもあった。朴正熙は「内包的(=自立的)経済発展」を早くに放棄し、外資依存による「輸出工業化政策」の路線を打ち出す(ちなみに、自立発展に固執したために発展が遅れ、「20年の回り道」を経て90年代からこの路線を明確にしたのが中国である)。
この路線は国内の低賃金労働力を必要とするので、労働運動の抑圧をともなう「国家コーポラティズム体制」を必要とした。
加えて、この「輸出工業化」の文脈で、「西側諸国との連携強化」が必要となり、日韓基本条約締結やベトナム派兵が実行される。この二点で、労働運動および「抵抗民族主義」と政権側との軋轢が極大化していく。
加えて、財閥癒着・貧富格差拡大・地域不均衡などの問題をはらみながら、韓国の高度成長が進行する。

その延長にあった全斗煥政権下では、日米からの軍事・経済援助という形で、この体制に国際的な正統性が付与されたと認識され、それがまた国内の潜在的な反発を強める。
しかし続く高度成長の中で中間層が増大し、彼らの発言力増大と不満の蓄積が「6月民主化抗争」を生む。その後の盧泰愚~金泳三政権では、民主的改革を一定程度実現しながらも、政権のレームダック化が財閥改革を遅延させ、それが労働運動に油を注ぐことになる。この過程で明らかになっていくのが以下の事態である:

 「民主化運動勢力は「6・29宣言」で民主化が実現されると幻想を抱き、民主化を「分断体制」解体の方向に導くのではなく、外国勢力の介入および韓国の反共主義を非難するという路線をとり、安保・成長に関する新しい論理を打ち出すことはなかった。このような民主化勢力の分裂と路線採用とは、政府が安保・成長を国民的課題として打ち出す時(野党総裁である金大中も安保・経済を課題とした)、これに有効に対応できないばかり(138)か、国民を民主化勢力から切り離す結果をもたらした。しかも「6・29宣言」以来、社会運動は多様な階層の大衆運動へと分化、多様化し、民主化という課題が労働者、農民などの階層を動かすのではなく、これら階層の具体的利益と要求とに従って社会運動が発展するという状況を生み出した」(139)

以上のような過程は、「抵抗民族主義」としてのナショナリズムが、高度成長に課せられた条件下でいわば恒常的に「神話化」されることになっていった構図であり、「386世代」として象徴される韓国の「戦後史清算」・「反日反米親北路線」とはすなわちその顕現なのだと思う。
そして私が思うに不幸なのは、それが「経済的リアリズム」から構造的に「遊離していくようにできている」ことなんじゃないか。こうした「抵抗民族主義」としての「革新」と、「高度成長の恩恵を受けた人々」による「保守」という対立軸がある限り、「ポスト工業化」にともなう諸問題なんてのは議題に上りにくいんじゃないか。
逆に言うと、こういう擬似的な保守/革新枠組みは、「否応なく押し寄せるグローバル化」に対する脆弱性が極めて高いと思う。「結局、政治なんてのはどちらもウソ」ということになり、一足飛びに「拝金主義」とか「敗者の自己責任論」とかへ行くドライブを提供しているような感じもする。

その辺に私は日本との連続性を見出したいのだが、このエントリを書いていてたぶん無理だなと思った(爆)。ま、おれのブログなんだから、いいんだ、思いつきで。

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2005年11月 7日 (月)

金正【サンズイ廉】【キム・ジョンヨム】,1991,『韓国経済の発展――「漢江の奇跡」と朴大統領』サイマル出版会.

なぜか今日は久しぶりな人々といろいろ連絡を取った。皆様お元気なようで何よりだす。
きわめつけは、某所にイトコが入ってきてメッセージが来た。おーもう大学○年生か。出会った時は赤ちゃんだったのにな(当たり前だっつーの)。
おれも今、大学で授業とかしてるけど、まだ下っ端でバイトみたいなもんで、そのうちイッパシになるべく頑張っとる状態です。はい。お互い頑張ろうな。そして「今の世の中にはいろいろなウソがあふれているけど、だまされないように気をつけろよ」。今度飲みにでも行こう。

さて韓国のことが手薄なことに気付き、今さらネタを仕入れている最中に読んだこの本。著者は朴正熙政権下において重要役職を歴任した人物。たぶん韓国のイデオロギー布置において、知識人層からは「親日保守の権化」みたいにされかねない人なんだろうが、私はあんまりそういうのに興味がない。

なんかオレ自慢のどうでもいい話が多い本なんだけど、面白かったのは、「ニクソン・ショック」(=ここでは駐韓米軍削減の動き)をきっかけに、国産軍事産業発展のために「重化学工業化宣言」が出されるくだり。言われてみればそうだよなあ。
韓国における「石油危機」の経験はこういう形だった、と考えると、何とかおれの今までのハナシと接点が見出せないかなあ。それにはもうちょっとネタを仕入れないとなあ。みたいな感じで今週も暮れていってしまうのであります。はい。

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2005年11月 6日 (日)

堺屋太一,1976(→1980),『団塊の世代』文藝春秋.

本日はいくつかお誘いを頂いたのだが、家でないとできないことがいろいろ溜まっており、終日自宅作業。でもたいして進まねえのが、この手の仕事の因果と言うべきだろうか。

唐突ですが、最近こればっかり聴いてるManu Chaoのアルバム「Radio Bemba Sound System」。かっこいいなあ。基本的には「スカパンク」ということになるんだろうけど、土俗的な臭いがして、こっちで言う渋さ知らズとかソウルフラワーユニオンとかと近いことをやろうとしているんだと思う。
このメンバーでフジロックに来たことがあって、観たんだけど、当時私はこの人の存在をまったく知らず、たぶんグループ内でぜんぜん下っ端の黒人コーラス(こっちの方がずっと大柄で目立つ)をManu Chaoだと思っていた。
彼はフランスで有名になったスペイン人で、Mano Negraという、90年代フランスのインディーズで最も有名なバンドをやっていた。Mano Negraの「Casa Babylon」もすんごいかっこいい。マシンガ~ン~
DIY志向と反米志向の強い政治性でも有名らしい……んだが、私はヨーロッパのコンテクストがよく分からんし、率直な話「そういうのを真に受けてもいいことねえよ、たぶん」。だが単純にかっこええぜ。

それはともかく、つい先日、今さらながら初めて読んだこの本。
今では「勝ち逃げ世代」として非難ごうごうの「団塊世代」という言葉が、もともと「人数が多いからこそ過当競争にさらされる」というニュアンスで発案されたことがよく分る。

当然予想される就職難からは、高度成長により免れた。また彼らの相対的な低賃金は日本産業の発展にとっても有用だった。しかしすでに従業員年齢別構成はピラミッド型から中ぶくれに変化している。
「そして、毎年確実に上昇して来る人数の塊は、より高い賃金とより高い地位とを求めているのだ」(20)
「成長の止った企業にとって、増大する人件費を支払い、年を取って来る多数の社員に然るべきポストを与えることは、到底不可能である」(21)

この本は、1976年の時点で80年代のいつかを予測して書いた「近未来小説」であり、「この世代の賃金圧力上昇による問題がいろいろ起きる」という予想は当たっている。たぶんその意味で先駆的だったんだろう。
ところが、ここで分るのは、要は彼らの「過当競争の苦労」というのは「社内のポスト」をめぐるものであり、それ以上でも以下でもないことだ。

おそらくこの本の認識が下敷きとなって、その後「終身雇用・年功賃金と団塊世代」をめぐる問題は、「彼らにふさわしい地位が与えられない」という「ポスト不足」による「生きがいの喪失」、という恐ろしく卑近・表層的・かつ気楽な問題としか捉えられなかった。1980年前後にはそうした著作がたくさんある。そんなんが大真面目に政策的議題として取り上げられていたのだから、気楽なもんである、と今の時点からは言わざるを得ないだろう。

この小説も、全4話はすべて「社内のゴタゴタに巻き込まれて、ポストを諦めざるを得なくなった団塊世代の悲哀」を描いたもの。これが彼らの生きてきた地獄である。その悩みとは、個人の実存でもなければ、経済の投機性の高まりでもなければ、後進国の追い上げでもない。「社内的な人間関係」と「ポスト争奪」である。

現在では、経団連みずからが「会社人間から競争力のある個人の育成へ」と訴えるようになった。こういう「社内の権謀術数」なんてものはいらなくなった。
欧米ではこの過程は70年代に進んだ。会社組織を堅固に囲い込むことの経済効用がこの時期に急落し、労働者は「技能を持った個人として会社を渡り歩く」ことが普通になったからである。ところが、日本でそういうことが言われ始めたのは90年代に入ってから。
団塊世代とは、この狭間で「まったくどうでもいい苦労にほぼ一生を費やした」人々であると言って良いだろう。「おれもお前もだまされた」という訳だ。それは確かだけど、そういうの免罪符として使われるとたまらないんだよね。とはいえ、彼らの「人生のムダさ加減」をもすくい上げる形で論を組み立てないといけないのも確か。

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2005年11月 4日 (金)

ゴードン、デイヴィッド・M,佐藤良一・芳賀健一訳,『分断されるアメリカ――「ダウンサイジング」の神話』シュプリンガー・フェアラーク東京,1998

たぶん会社でバリバリ働いている人とか見ると「ケッ」という感じなんだろうが、私の主観としては最近「めちゃくちゃ忙しい」。金でもなく名声でもなく、どこへ向かって前のめり?

本日はある会合にて、去年まで学生さんだった人々と再会。みなさん立派に仕事をされていて感動。テンション低めですみませんでした。次回はぜひ痛飲しましょう。
そして若者の労働状態についてしばし思いを巡らす。私にとっても他人事ではない。目に見える敵はいろいろいる。でももうちょっと巨視的な所で敵を探さないといけないように思う。彼らは彼らの地獄を生きてきたのだろう(しかもまったく無駄な苦労として)。
そして、我々の苦労を「わかってくれ」とか言うのが甘えであり醜いのと同じ意味で、私は彼らの生きてきた地獄にはまったく興味がない。o本y夫とかは「若者より団塊の方が苦労してきた」とか言っているけど、そういう権利主張の仕方はどっちにしろどうでもいいものでしかない。もうちょっと違う枠組みが必要だ。たぶん。

ところでこちらの本は、80~90年代にアメリカで企業のダウンサイジングが進んで、中間管理職が大量にリストラされ、「フレクシブル労働」化した、という通説に異を唱えたもの。
実は、単に「他の従業員を監視する」という職務であり生産性がゼロに近い人々=「企業官僚」が、アメリカには大量に残っている。彼らは高賃金をもらっており、リストラされても別の企業で同じく「企業官僚」に再就職する可能性が極めて高い。
これと関連して、大多数の労働者に生じている「賃金圧縮」という問題が、労働への不安、ひいては家庭内トラブルや犯罪増加などの「コミュニティ問題」の真の問題であるとする。「グローバリゼーションによる製造業空洞化」も「オートメーション化による職業消失」も疑似問題でしかないのだ……みたいな主旨。

相変わらず詳しく書いている時間がないのだが、日本はこの「企業官僚」がアメリカよりはるかに少ない国、として登場する。でもそうかな。実感レベルでは「日本でも近いことが大いにありそうな仮説」だけど。
そして、「お前ら計量もできねえのかよ」とかおれなんかに文句言う人が多い中、「こういう骨太な仮説を立てる人が現在の日本で皆無に近いのはなぜ」とか、余計なことを言いたくなってしまうおれ。

もう一つ言うと、この本にも出てくるけど、90年代くらいに英語圏で登場した「ダンピー(dumpies)」という言葉がある。「下降移動する専門職downwardly mobile professionals」のこと。「一見専門職に見える」けど、実は「中産階級から下落する人々がやる」仕事のことだ。はっきり言えば下層のIT雇用とかが典型。
「実学志向」とか「理系偏重」とかいうのは、結局はこの「ダンピー」を大量生産することであり、後進国ではそれを積極的に推進せざるを得ない。今の日本のことであり今の中国のことだ。みんなだまされるな。大学の世界も例外じゃないけどね。

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2005年11月 2日 (水)

葛慧芬【カツ・スイフン】,1999,『文化大革命を生きた紅衛兵世代――その人生、人間形成と社会変動との関係を探る』明石書店.

火曜日も非常勤。その後また少々インタビューっぽいことをする。いろいろ参考になるなあ。
その後ある会合にお招きされる。ここで一言。「『将来どうするの』という問いの重さに、歴史もナショナリズムも関係ないのである」。とにかくKさんありがとう。

ところで、現在中国の「お荷物世代」とされがちな「文革世代」のライフコースを調査したこの本。サンプルは少ないが、質問紙調査とインタビュー調査の両面から、文革と個人のライフコースとの関わり合い方を探っている。

おれが思うに、どこの国でもある話だが、なぜ「お荷物」かというと「競争力がない」から。なぜ「競争力がない」人が出てくるかというと、ざっくり「福祉国家」といいますか、「頑張っても頑張らなくても収入にたいした差が出なかった時代」に社会化されたから。

「社会主義」というのはその最たるものであり、「文革世代」は社会混乱のおかげで教育も受けていない上に、「社会主義」の理想を重視している人が多い。なので、特に下の世代から見ると「仕事できない、やる気もない」ということになりがちらしい。

この本はどちらかというと、「そうは言っても彼らにもいろいろあったんだ」という趣向になっている。学業修了-就職-結婚-出産みたいな「標準的ライフコース」に対し、学業停止とか下放とかのせいで、順序が入り乱れた「非標準的ライフコース」が多い、というような主旨になっている。
それはそうなんだろうが、今現在「標準」というのを措定し、そこからの「逸脱度」を測る意味はあまりないような気もする。ライフコース論の専門書という形になっているから仕方ないんだろうが、どちらかというと彼らの世代体験を、改革・開放がどんどん進行した後のマクロな話とつなげて欲しかったな、という感想。でも資料としては分厚くてかなり参考になる。

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2005年11月 1日 (火)

中国映画「世界」@銀座テアトルシネマ

公式サイトはこちら。
http://www.bitters.co.jp/sekai/index.html

久々に映画というものを観に行った。姉貴の情報提供に感謝。おれから発信する情報があんまりなくてすみません。

あらすじなどは公式サイトに任せるが、重要なのは:
登場人物がほぼすべて、農村から北京に出稼ぎに来た農民であること。また、こうした下層サービス労働をやっているのが中国の都市では彼ら出稼ぎ者であり、彼らは、中国ではこれまで一種の「発展の不可抗力」であり「都市のアウトカースト」であったこと。その意味で「漠然とした将来不安」を抱いている日本の若年層とかの話とはかなりニュアンスが違うこと。その人たちも「実存的悩み」を感じているという「主体性」を描いた、「かなり政治的にラディカルな」映画であること。

映画の前情報およびパンフレットなどでは、こうした情報が一切伝えられない。ウォン・カーウァイとかと似たニュアンスで売ろうとしてるからかもしれない。その割にはコンテクストが分からないと(まあおれも全部分かってる訳じゃありませんが)、理解できない部分が多すぎるので、観客も「?」って感じだった。この売り方は完全に間違ってると思うし、パンフレットに載ってる前東大学長他、勘違いばっかりのコメントも見物のひとつ。

いかにも中国の映画っぽい、「政治性」のありかが明確に読み取れる映画。好き嫌いがはっきり分かれるかもしれませんね。おれはなかなか楽しめました。ただすんごい暗い気分になります。はい。

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