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2005年11月11日 (金)

ポルトガル人の知人と

いろいろ話していて思ったのだが、ここでつらつら書いているような問題は、驚くほど似た形でアチラでも生じているらしい。

しかし一番違うのは、やっぱり「移民」というファクターがあること。たとえば郊外開発。アチラでは移民に対する公的な住宅提供として、郊外に団地を建てた。80年代初頭くらいのハナシ。すると、住む家はできたが、そこにはロクな仕事場もなければ大した学校もなかった。
移民一世は、住む家ができた時点で満足した人が多い。だけれども二世は自分たちの相対的な貧困に対する不満を蓄積させていく。団地は老朽化していくが、自分たちで改装する金はない。そして彼らには「人生の選択肢」もものすごく限られている。
そんな経緯で、治安悪化の懸念対象となったりするのは大体二世の若者であり、それは彼ら自身の意志というより構造的な問題である。そして昨今のパリ暴動の背景をなしているのも、こういう「移民への福祉としての郊外ゲットー化」であることは言うまでもない。

今現在、ヨーロッパでは移民といえばまず東欧人であり、旧植民地から来た黒人の問題は後景に引いている(こういう「ゲットー」に追いやられたということかもしれない)。そして東欧人はまだ一世だからこういう問題があんまり生じていないが、彼らにも同じことが繰り返されている気もする……というような話。

『要塞都市LA』(社会学とか興味ある人には確実に全員必読の本)とか見てると、アメリカでも「住宅供給公社」の施策による、こういう「福祉としてのゲットー化」みたいなことがあったみたいですね。でもそれは郊外じゃなくて都心部=インナーシティの再開発が主であったようだ。

こういう話を、たとえば三浦展の『下流社会』と比較してみたらどうか。私は、「フリーター」というのは「欧米モデルでは移民がやっていた下層サービス業を、自国民の内部から調達したもの」だと思っているのだが、「郊外のファスト風土化」とかいうのも、より緻密に見てみると、というか他国と比較したりすれば、いろいろ面白いことが出てくると思う。
そして思うのだが、父子関係の比喩で理解されるような「世代間格差」というのは、たぶん「ほんとは移民とか人種みたいな、いろいろ深刻な政治的差異に貫かれるはずだった事態」が、日本では「世代くらいしか認識可能な差異がなかった」という所に呼び出された、まったくの疑似問題なんじゃないか。
「格差」の手がかりとして最初に必要だった話題ではあると思うが、これ以上世代問題に拘泥すると「疑似問題の上塗り」になってしまうような気がするな。韓国・中国を含め、こういう形で「世代」というのが広く話題になってるのは日本くらい、というのも何となく分る(いや韓国は多少似た話題があるか?)。いつもながら単なる思い付きですけど。

そんでまた余計なことを言えば、私が三浦展の本を割と好きなのは、「これまで日本では確かに語られなかったこと」を言っており、「今日的な問題に展開されていく可能性」を持っていると思うからであり、くだらないことの緻密な統計処理とか文献解読とか、あるいはいまだに「コミュニケーションがどうのこうの」とか言っている奴が彼の悪口を言うのは本当にどうかと思う。

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