疑似問題としてのフリーター
金曜日はまたしても「たぶんどこ出しても恥ずかしくない激務」で、帰ったらすぐに寝てそれから10時間ほど起きなかった。まあ後半は、激務とか関係ない「単なる寝坊」。ま、土曜だからいいんじゃね。
ビデオを貸してもらったN先生は、ご多忙らしくお話できなかった。
そして今日は……もちろん家で書き物・調べ物。遊びに行きてえなあ。時間は作ろうと思えばまああるのだが、遊ぶような「友達がいない」から、結局「家で作業すんべ」に落ち着く週末がすっかり定着した最近の私。すいませんどうでもいい話で。
ところで、こないだの内輪の会合でもちらりと出たこの話題。最近の学生さんを見ていると、フリーターに対する妙な「上から目線」を感じる。「あいつらはバカだ」と。そして彼らの発想が向くのは「正社員」である。「おれは正社員になるからあいつらみたいにはならない」と。それがごく普通の若者の心情となりつつあるように思う。
そして「正社員」になるために「スキル」を磨くことになる。教育機関にもそれを欲する。「すぐ就職に役立つスキルを」という話になる。
個人的には、これはすごく危ないと思う。このブログですでに何度も使った「ダンピー」という言葉があるけども、「すぐに役立つスキル」で就職できる先というのは「専門職」である。これは一見聞こえがいいが、特にITを中心とした近年の「専門職」というのは、「熟練労働」のイメージのあった昔のそれではない。「使い捨て労働力」以外何物でもない職種も多い。こうした「専門職の下降移動」というのは、世界中どこでも起きてきたことである。
「フリーターか正社員か」というのは、実は根本的な差異ではない。後者だって、名前はそうなっていても、福利厚生を削って、解雇が容易だったら何もフリーターと変わらない。
「フリーターはどうも危ないらしい」という情報が一通り行き渡った後、その代案がいまだに「正社員」しか思いつかれないこと。こちらの方がよほど問題だと思う。
最近「就職が良くなっている」という。確かにそうらしい。しかし私が見聞する所では、「正社員」というのも昔のそれではないのが明らかである。月収15万などというのはザラである。
そしてたぶん、会社を移らないなら何歳になっても給料そのままだろう。私の同年代でも、「給料が上がらない」とボヤいている人が多い。率直に言えば、上がる訳がないのである。ただ同じ会社にいるだけで、年が経つに連れ給料の上がっていった時代が「異常」だったのであり、「異常」と言って悪ければ「社会主義」だったのである。
村上泰亮が言うように、それは「追いつき型産業化」というのが「国民的な合意」であり、その一点を雇用者も被雇用者も共有していた時代、かつ冷戦体制の恩恵のもとで「追いつき型産業化」が「実現可能」だったという、戦後日本独特の時代背景の産物である。
そのどちらの条件も既にない。その上で、「そのままでもたぶん辞めない」と分かっている従業員に対し、特に何のインセンティヴもないのに「給料を上げる」雇用者がどこにいるのだろうか。なぜそういう期待を持つ人がこれほど多くいるのか。そちらの方が理解できない。今雇用者が「給料を上げる」のは、「成果を上げた時」なんかではまったくなく、会社という枠でない形の労働市場がある場合、その中で「これ以上払わないと他社に引き抜かれてしまう」時だけであり、だからこそ個々の労働者はそれを前提に「より給料の高い会社を目指して頑張る」のが、当たり前だと思うのだが。
なぜ、これだけ「サヨク」が叩かれている今(笑)、古臭い日本型労組モデルが人々の頭の中に残っているのだろうか。たぶん、もうそれはフリーターの排除云々以前に、すべての労働者の機会を奪うものだとしか思えないのだが。
また、なぜ「大学新卒で即正社員モデル」というのが、いまだに「標準」たり得ると、堅固に信じられているのか。「新卒の正社員就職率」というのに、なぜこれほどすべての関係者が固執しているのか。言い換えれば、なぜとっくに消滅した再分配システムに対する信頼が揺らがないのか。
私は、今の日本で生じていることというのは、旧東欧圏で起きたこととかと比較されるべきことなのだと思う。確かに誰もそれを「社会主義」とは呼ばなかったし、別にそう呼ぶ必要もないのかもしれない。だが、たぶん70年代半ばくらいを境に「明らかに日本は他の資本主義国と違う道をたどった」。
そのまま30年近く経ってしまった現在、たぶん事態はかつての旧東欧圏とか中国とかより、ひどい。旧体制が「社会主義」などという形で「名指し」されていないからである。それならその崩壊を認識することができる。しかし少なくともマスなレベルでは、何とも名指されていない。だからフリーターなどという特定集団ばかりが名指され、疑似問題ばかりが提供されていく。「何かおかしい」けど「あいつらさえまともになれば何とかなる」という訳だ。しかしその「まとも」というのが既に実現不可能であることを、誰も言わない。
毛沢東とか金日成とか韓国民族主義とかの虚像を暴いて(そういう話の大部分は「まともな人なら誰でも知っていたこと」を、さも今大発見されたかのように言い立てているだけなのだが)溜飲を下げている場合ではない。私は今の日本の方が「よほど怖い」。
ところで、話が変わるが、その中国では「社会主義」が終わったことは誰の目にも明らかになっている。誰もがおおっぴらに口にしている。そしてどうなったか。
現在の中国の若者に「政治」という単語を出したら、ほぼ100%「ああ政治には興味ありませんから」と言われる。普通選挙もない中国では、「政治」というのはすなわち「共産党周辺」のこと(日本の中国ウォッチャーが好きなもの)であり、幹部でもない限りそこに参加することはできない。共産党が打倒されることも近未来にはないだろう。だから「政治には興味がない」。
そこで彼らの向かう先は、これまた「スキル」である。国有企業などすでに社会主義の遺物である。大事なのはスキルを得て金を稼ぐこと。その金で会社を起こすこと。これが社会に広くコンセンサスとして成立している点で、私は「日本よりマシ」だと思う。
しかしその近視眼的な「スキル」というのは、ほとんどの場合自分を「下降移動する専門職」にする以外の役には立たない。会社を立てて成功するために必要なのは、必ずしもプログラミングの知識でも語学力でもネットワーク構築技術でもない。そして現在では、いったん成功しても「名誉職」などというものに「殿堂入り」できる訳ではなく、絶え間ない流動性に適応できなければならない。「スキル」志向がそういう人間を作り出すだろうか。私はそうは思わない。
中国の若者は「経済成長の躁」と「政治的・社会的無力感の欝」に引き裂かれる存在になっていると思うけど、「スキル」信仰はその裂け目の中から生じている。政治的に無力だから、経済成長に乗る形で自己防衛しないといけないと考えている。それは間違っていない。だが、ごく一部を除けば「あんまり自己防衛になっていない」、というか、たまたまうまい職歴ルートに乗っかるかどうかという運の問題になりつつある。
「政治的無力感の欝」は、日本にも共通する問題で、この事態は基本的に日本でも相似形で進行中だと思う。違うのは、もう「経済成長」に誰も期待していないから、「今までの稼ぎを奪い合う」ことに意識が向いていることだけだ。
ちなみに私の余り話せない方の師匠(笑)は、日本でも中国でも韓国でも、[『近代化』にともなう時間的差異が横倒しになって」おり、具体的には「農本主義」というのが共通パターンとして取り出せるのであり、「政治的無力感」の背後にこれを見出そう、と最近考えているらしかった。
確かに、日本の国会議員のうち「なぜこの人が当選したのだろう」→「どうせバカばっかり当選するんだから選挙なんか行かない」というのは、長らくごく普通の風景になっている。また中国共産党の使う、内実のよく分からない、だから外国のウォッチャーにはバカにされる言語の多くは「農村幹部」を説得する目的で編み出されているものであり、そうした論理で推移する「政治」に都市民は関心を失っている。そこには、「中国は非民主国だ」とかいう、バカの一つ覚えみたいな「他山の石」論(日本はかつてこれを欧米相手にやって大失敗して今に至っているのだが)には決して見えない共通性がある。
「農本主義」とか言い出すとあまりに面倒なので私はタッチしたくないんだけども、一つだけ確実なのは、「旧来の制度が内部からはよく改革されないことが明らかになった時、その時点での既得権益層と、その他の層の利害が極端に分裂していく。そしてその他の層には、旧来の制度を保持する利益がもう得られないと認識されるので、欧米などよりもよほど激烈な個人化が進行していく」ということである。
で、どうするか。私には分からない。というか今書いてること事態まったくただの思いつきで、まったく適当に書いてるので、来週には変わってるかもしれない(爆)。何度も言うけど、いいんだ、おれのブログだから。
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