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2005年12月18日 (日)

ノーブレイン

ちょっとノーブレインについて書かないといけない案件がある。その文章を見た人&自分を主な対象に、注釈というか、覚書みたいのを書いておく。

ノーブレインは、こっちで言う「青春パンク」みたいな位置づけにあって、そんなにバカ売れしてる訳じゃないけど、若い人なら大体とりあえず名前を知ってるぐらいに有名な、韓国のロックバンドである。
あちらではパンクの第一世代に当たっていて、要するに「韓国のブルーハーツ」であると言えばそんなに間違いはないと思う。
そのボーカルはイ・ソンウと言って、私の唯一無二の親友であり、義兄弟の仲である(向こうはそうでもなかったりして笑)。ノーブレインは青春を歌うバンドであるが、ノーブレインはすなわち私の青春でもある。

彼との出会いは98年に遡る。当時のソウルは「インディーズ・ブーム」(こっちで言う昔のバンドブームみたいなもの)に沸いていて、ノーブレインのソンウはその中心人物の一人だった。
当時の彼はまだ、突如として自分が置かれることになった立場に慣れておらず、まだ弱々しい雰囲気を持っていた。しかしその後数年経つ中で、彼は自分の立場を引き受けることを学び、堂々したロック・スターの風格を漂わせるようになっていった。

そして2002年か3年かそこら。当時私は、仕事も私生活も、すべてがうまくいっておらず(まあ今でもそんなにうまくいってないけど)、誰の目にもあからさまな欝状態にあった。
どうして良いか分からなかった私は、現実逃避として何度目かのソウル行きを決めた。以前から、ソウルでの宿は彼の家(というか彼の義弟分チョン・ミンジュンとの共同部屋)だったので、ほぼチケット代しかかからなかった。

彼は仕事の合間を縫って、私を飲みに連れて行ったり、クラブに連れて行ったりしてくれたが、私はあんまり楽しめないでいた。ハタ目にも分かるみたいで、「顔色が冴えないね」とよく言われたりした。
そんなある深夜、彼は「歌を作るから一緒に来い」と言って、アコースティック・ギターを持って近所の公園に私を連れ出した。彼は自分の作った歌を歌い、「どうだ」と聞いた。私は「いいね」とか何とか、あいまいな返事をした。
すると彼はギターを置いて言った。

「モト君、おれはお前よりも少しだけ世の中のことを知っているつもりだ。そのおれが見るに、お前はいつか必ず、みんなに恐がられるような存在になるよ。おれには分るんだ。
なのにお前は何だ。いつも怯えてばかりいる。誰かに『やられる』ことばっかり考えてる。そうじゃないだろう。お前がみんなを『やっちまう』んだよ。お前はそのための方法だけ、考えていればいいんだ。落ち込んでるヒマがどこにあるっていうんだ」

まったく恥ずかしい話だが、これを聞いた私は、肩を震わせて泣いた。その肩を彼は抱いてくれた。そして「モト君、人生は一度だけなんだよ」と言った。
これまであまり人に話したことはないけれども、私の中ではこの瞬間が一つの「転機」だったのかもなあ、と振り返って思う。

もちろんこれは、たぶん誰でも2つや3つは持っている、小さな「転機」のエピソードに過ぎない。私にとってそういう「転機」のいくつかは、ソウルのホンデという街でもたらされた。私は、韓国に住んだこともないし専門家でもないけど、「私の存在の何割かはソウルで社会化されたものである」と自信を持って言える。

そして私が、東アジア、とりわけ日韓関係について何か考える時には、「彼と私をつないできたものとは何か」という関心がいつもベースになっている。それは「親日とか反日とか」いうのとはまったく関係ないし、日韓文化交流でもないし、単純に音楽の好みとも思えない。かといって「ココロの友情」とかいうのに還元してしまうのは、もったいない。

いろいろ文脈化してみることはできる。一例を挙げれば、97年以後数年のこの間、韓国では現在の日本の「小泉改革」に比すべき、しかしもっとあからさまな形で「金大中改革」の嵐が吹き荒れていた。中以上の階層の出身者の多いサブカルチャーの世界だけを見ても、それは明らかだった。
たとえばイ・ソンウのお父さんは、慶尚南道のマサン(馬山)で、中規模の会社の社長さんだった。しかし「改革」の中で会社は潰れてしまい、お父さんはタクシー運転手になった。
彼の義弟分のチョン・ミンジュン(いろいろ紆余曲折あって、ノーブレインの現ギタリストでもある)の場合は、もっとはっきりしている。彼のお父さんは、大手銀行の支店長だった。しかし銀行の統廃合の中でリストラされ、一家はそれなりに蓄積していた資産を使い、アメリカで心機一転テリヤキ・ショップを開店する道を選んだ。
しかし若きミンジュンは移住を嫌がった。ご両親はそれを理解し、資産の中から彼にワンルーム・マンションの頭金を残し、アメリカへ去った。その後ミンジュンは、独りアパートの中で、ソンウと出会うまで長い憂鬱に沈んでいくことになる。
サブカルチャーのシーンに、行き場のない大学生が大量に流入してきたり、かつては「どこかに卒業」していったであろう年長層がどんどん溜まっていったりし始めたのも、この時期だった。

こんな話、というかもっと悲惨な話はもちろんいくらでもある。そういう空気の中で、ソンウやミンジュンは、職業ミュージシャンとしての自覚に目覚め、要するに「文化的アントレプレナーシップ」みたいなものの必要性を肌で感じるようになっていった。
当時私は意識していなかったけども、私は自分の「欝」と彼らの姿とを、照らし合わせていたのだと思う。もちろん私は今、美しい側面ばかりを書いている。その裏には激烈な地獄があった。私はそれも知っているつもり。第一ノーブレインだって今はそこそこ食えているけども、いつまで持つかまったく分からない。彼らもそれを知っている。
だけれども、こういう流れを避けることはできないし、避けようとすればむしろ「欝」しか待っていない。そんな感覚を、私はソウルで、ソンウたちを通して身に付けたんだと思う。

もう一つ付け加えれば、ソンウやミンジュンが「自分は両親とずっと仲が悪く、音楽をやることにも反対されていたけども、お互い苦しい時代になって、初めて理解し合えるようになった」とよく言っていたのも思い出す。
そして私は、日本のオヤジが「世代」を語り出す時とか、Jラップが「オヤジはすげえぜ」と言い始める時とかに、「ハアアとため息をつきたくなる」のである。まあ別にいいけど。
他方、自分が(まだペエペエペエですが)たまに教壇に立つようになってよく感じるのは、若い奴らに、「こいつは既得権益にあぐらをかこうとしているのか、それとも個として戦おうとしているのか」、「見られている」ということだ。
「韓国のあの空気」は、すでに日本にも訪れている。まだ局所的かもしれないけれど。それは「良いとか悪いとか」じゃなくて「当然」のことだと思う。たぶん「良い」と言っても「悪い」と言ってもウソになる。で、その次に来るのは何か。それを確かめに、私はまたソウルや北京に足を運ぼうと思うのである。

昨今の違法建築の問題とかもそうだけど、「日本の今の問題」はすでに「中韓で10年くらい前に起きたこと」とまずアタリをつけて良いくらい、昔の「段階論」というのは逆倒しになっている。それはなぜか。みたいなことをもう一つの案件に書こうと思っているけど……ふううう

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