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2006年2月27日 (月)

VOICE3月号「特集:下流社会ショック」

先日の案件は無事終了した。お疲れさまです~。
たぶんこれからまた、東アジアの開発主義という問題に戻ると思う。ここしばらく、いろいろな所で書いていた内容を、学術論文の形に翻案(?)していく作業をしないといけない。

ところで、某さんとの会話でも出てきた、この特集記事。宮台真司、本田由紀、大竹文雄、山田昌弘といった論者が、これまでの自分の主張をコンパクトにまとめた文を寄稿している。分かりやすくて便利。

しかし、それより何より、冒頭の渡部昇一&日下公人の対談がすごい。「二極化社会は悪くない」という題名。なんでも日本では、下流の人間のうち、世捨て人的な存在を「風流な文化人」と見なす文化があるそうだ。だから「二極化社会は悪くない」と。
そして……「風流の精神とは、誰にも頼らず、ダメになったら潔く死ぬというものです。下流でもそのような尊い精神をもっているなら構わない」と。そして、昔、施しを断って死んだ流浪僧を「ご立派です」と誉めたりしてるんだけど……。
単純に、この会話を活字にすることに何の意味があるのか、よく分からない。それをバカにするのは簡単だ。でもそういう人々が大きな発言権を手にし、財団の会長とか一流大学の名誉教授とかになっていることを、いまいちど思い起こせば、分る。笑って済む問題ではないのである。

ついでに、ニューズウィーク日本版3月1日号も、「下流パニック」という特集を組んでいる。認識の枠組みがなくて、いろいろな意見を並列しているだけだから、あんま面白くない。たぶん読むべきなのは「アメリカ式経営を誤訳した日本の罪」というコラム。
ついでに、昔の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という本の著者の息子も短文を寄せている。旧来の日本の雇用制度について、「悪い所も確かにあったが、良い所もあったことは忘れるな」という内容。そりゃそうだ。
しかし、「すべての国民が等しく教育を受けるチャンス」とか、「働く女性を支える」とか、「正社員と非正社員の待遇格差改善」とかいうのが、あたかも「日本の雇用制度」を改善するための、外部要因であるかのように論じられているのは、違うと思う。
それらの問題はすべて、「日本の雇用制度」の<内部矛盾>としてあるのであり、それを指摘しながら「旧来の日本の雇用制度の良さ」を強調するのは、語義矛盾である。私は、アメリカ(中国でもいい)の文脈に置いた時、その矛盾をすっ飛ばして「日本の雇用制度は良い」と言ってしまう感覚を、分からないでもない。しかし今の日本語圏でそれを言うと、発言者の意図と逆向きにしか解釈されないのが明らかだ。

この辺の話は、私の研究者(の卵)の同僚にも、いくら言っても分かってもらえない。彼らは、どう考えてもその<内部矛盾>を体現している存在であるにも関わらず。
別にどうでもいいんだけど、「マイノリティが蒙る不利益とは、直接的な差別ではなく、些細な問題をさも重大なように感じる<虚偽意識>を植え付けられることである」という、スピヴァックだか誰だかの発言を思い出して、「意外にポスコロも良いこと言ってたんだよなあ、受け手がアレだっただけで」とか思う冬の午前2時。

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2006年2月23日 (木)

続々ソフトウェア産業とかいろいろ

昨日、久々に外で酒を飲んだら、案の定眠くなってしまい散々だった。本当すみません兄貴。
そして私の兄貴分たちにまつわる、めでたいニュースが次々と。おいらも頑張ります。はい。

そしてこないだの修正が、とりあえず終了。まだごく一部手直しの必要ありか。
引き続き、その原稿のためにいろいろ読んだ本の一部を……(紙幅の関係もあり大部分は直接反映されていない)。多分これが最終回。

◆戸塚秀夫・中村圭介・梅澤隆,1990,『日本のソフトウェア産業――経営と技術者』東京大学出版会.
「日本的経営」が、ソフトウェアという新しい産業の登場により、どう変容を蒙っている/いないのか、という着眼のもと行われた調査の記録。

いろいろ興味深いですが、私的なポイントは:
・中小零細企業が多い。初期投資が少ないので参入障壁が少ない、新しい産業なので制度的条件がまだ固定されていない、などの要因により(16)
・成長基調で、消滅したデータ外のものを除けば、ほとんどの企業が成長を続けている(17)
・技術者は人手不足気味、その人数は急増中:1企業平均で22.7%増加
・新卒が主で、不足分を中途採用で補う例が多い(95)

ところが:
・離職率は、小規模の所ほど大きい。従業員9人以下は16.8%、100人以上だと6.2%(96)

しかしいずれにせよ:
・これはつまり、比較的若い、高学歴のソフトウェア技術者集団が大量に存在しているということ。年齢・学歴・勤続年数などによる管理が有効ではない。すべてが役職につけるとは限らない。
→モラール維持のための処遇上の仕組みが必要である。
→とはいえ能力主義をとるにしても、客観的な資料がない、評価できる考課者がいない、個人の実績評価は困難である、などの問題がある

→役職と離れた資格制度=「昇進と昇格の区別」が必要だと提言される。
「資格制度によりソフトウェア技術者のモラールを維持するには、少なくとも各資格等級と役職の対応が緩やかなものでなければならない。つまり管理職ポストが不足しているため職位上の昇進が可能ではなくとも、能力と適性があれば資格上の昇格は可能というのでなければ、ソフトウェア技術者のモラールの維持は図れない。もちろん昇進・昇格の際の人事考課、評価がいかに困難かは、すでに述べた。しかし資格、役職、賃金が一体となった資格制度の形態では、ソフトウェア技術者のモラールの維持は不可能である」(124)

という訳で、「社内のポストの配分」に話が収斂していく。堺屋太一『団塊の世代』の亡霊は、IT化の中でも生き残っていたのである、と、とりあえず読んでおく。

◆新井進,2003,『よくわかる情報システム&IT業界』日本実業出版.
なんか適当に買ったんだけど、そのスジでは評価の高い本らしく、いろんな所で推薦されているのを見かける。

「SE」という職に就いた人々の、あり得るキャリアステップなどが詳しく書いてある。いろいろ泥臭い話も書いてあって、特に:

・80年代を通し、日本の情報産業とは第一に、金融・物流・製造メーカーなど各種の既存産業のうち、社内の情報処理を担っていた部門がシンクタンクなどとして分社したもののことであり、第二に、コンピュータのハードメーカーから分社したソフト部門のことだった。
・企業内の情報部門と、ハード会社のソフト部門とを橋渡しするべく、80年代後半以後に急増したのが、独立系システム会社である。各種のコンサルティング会社など。
 その仕事は、クライアントの企業の活動のうち、コンピュータでフロー化可能な部分を見極め、既存業務を合理化することである。いわば日本におけるIT産業は、既存の大企業の活動の延長か、あるいは「企業向けサービス産業」のいずれかとして発展した。
・狭義のIT産業である後者の内部には、情報的な技術開発ではない、対企業サービス職に近い部門が多く含まれる。しかもその内部には「ゼネコン的下請け構造」があり、特にプログラミングなど、開発に近い仕事が下請けのものとなっている。

……みたいなことが重要かと。まあ似たようなことはどこでもあるんでしょうけどね……。
これからSEの労働に関する研究とか増えそうだけど、入門編として最適かもしれない。あと就職関連業務の参考にもなりそう。

◆畠山けんじ著、久保雅一企画・監修,2005,『踊るコンテンツ・ビジネスの未来』小学館.
・ジブリの鈴木敏夫さんのインタビュー:
(日本のコンテンツ産業の未来は明るいか暗いかという質問に対し)
「しばらくの間、暗いでしょうね。日本が不景気になれば、本当に貧乏になれば明るくなりますよ。豊かな時代に育った人たちは、残念ながら本当の意味での送り手にはなれないでしょう」

まあぶっちゃけ、後進を育てる気はない、ということですよね。おれは外部の人間だから、別にいいんですけどね。

・経済産業省・広美郁郎・商務情報制作局文化情報関連産業課長のインタビュー
非常に面白いし貴重な資料なんだが、単純に考えて、「昔の製造業がやったみたいに、業界団体を作って税金の受け皿を作る」という提言と、「やはり制作資金は独立系プロデューサーが投資家からお金を集めた方が良い」という提言とは、矛盾するような気がするんだけど……しないのかな。よく分からない。

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2006年2月19日 (日)

前回の続きでベンチャーとかいろいろ

いろいろ短中期的なことが収束に向かってきた。ふう。ここの更新も3日に一度ペースに戻したいなあ。

今、以前ここに「擬似問題としてのフリーター」として書いたことを、拡張した内容の原稿を書いている。コンテンツ産業云々の話も、そこに入れ込む形になっている。今まだいろいろ修正中。

そんで前回の続きで、最近読んだ本を適当にレビュー。

◆ヤング,ジェフリー・S,ウィリアム・L・サイモン,井口耕二訳,2005,『スティーブ・ジョブズ――偶像復活』東洋経済新報社.
私のいる周辺だと、「メディア論」という所で論じられることの多かったこの人、その分野にあんま興味のない私がよく知らなかったことがいろいろ書いてある。
こういう人がなんで日本に出てこない(orこなかった)んだろう、というのは、不思議だけど、ある意味当然な気もする。

◆日経ビジネス編,1984,『飛翔!ニューベンチャー』日本経済新聞社.
ジョブズとかゲイツとかがいろいろやってた当時、日本で「ベンチャー」というのがどう論じられていたか、垣間見える本。よく分からない研磨技術の研究所とか、「アート引越センター」とか、「ノエビア」とか、そういうのが代表選手とされている。編者による以下の記述が、我々にどこか痛々しく感じられるのはなぜだろうか。

「革命は、必ず、周辺から起こる。天守閣は依然そびえていても、冬の陣で濠を失くした大阪城は、あっけなくくずれた。大企業の輝きが失せる日も近い。なぜか。技術開発であれ経営管理であれ、およそイノベーションは、個人の創造力に依存する。柔軟、あるいは型破りの発想がバネとなる。それを、大企業は、官僚的な組織と硬直的な管理で圧殺しかけている。そして、それに気付かない。モラールがあがらないのは当然で、自己革新の油が切れかかっているといってもいい。
 だが、ベンチャーは、全く違う。彼等は、“日本的経営”さえも一新してしまう力を秘めている。組織をみれば、大企業のように事業部、部、課とタテにつらなってはいない。自由、平等、公正をモットーに、平べったい形をしている。ベストセラー『メガトレンド』の言を借りれば、ヒエラルキーからネットワークへの潮流を先取り、実践している。こういう組織に、大企業の窓際族、わけても満たされぬ想いの技術者が身を投じるのは、当然ではないか。
 もともと技術者には、起業の知名度や肩書きに固執するより、研究開発、製品開発で生き甲斐を果(15)たそうという志向がある。ベンチャーの台頭、技術者専門の転職斡旋誌の登場が、その志向に拍車をかけた」(16)

◆中小企業庁小規模企業部サービス業振興室編,1986,『ニューサービス業の現状』大蔵省印刷局.
上と同じような意図のもと、大学で借りてきたのだが、総覧的であんま参考にならない。というかいろいろリストアップされて、誉めそやされてる産業の、かなりの部分が「とっくに消滅」してるのが物悲しい一冊。

◆堺屋太一,2002,『日本の盛衰』PHP研究所.
この人の著作、『団塊の世代』しか読んだことなかったんだけど、自分が書いてることに似てるからびっくりした。50代くらいの人に「既視感がする」とよく言われるのはこのことか。当時の課題が先送りにされて今に至ってるんだから、仕方ねえんだと思いますけどね。はい。

最近忙しかったので、他にも読んでない本がたまっている。
ここで一言。ネットだのブログだのいろいろある今日、「事例」は余って腐るほどある。たぶん我々の仕事は、微細な事例をいちいち挙げつらうことではなく、それらを囲む認識枠を作ることでしょう。「事例」自体で勝負しようと思っても、ウェブ情報にかなう訳がないと思う。
読者はヨソでいろいろ「事例」情報にさらされると思うけど、そういう時にふと「ああ奴の言ってたのはこういうことか」とか思ってもらえるのが一番良いよな、と思う今日この頃。

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2006年2月12日 (日)

コンテンツ産業についてなど

いろいろ調べている。一筋縄ではいかないことが分かって苦心惨憺。前の原稿のノリを引きずっていてはいけないかもしれない。うむ。最近読んだ本を適当にレビュー。

◆小林雅一,2004,『コンテンツ消滅』光文社(ペーパーバックス)
音楽・アニメ・ゲームに渡って、現在のコンテンツ産業の問題を網羅的に論じた本。
音楽に関して……

「アメリカでiTunesのような新サービスが花開いたのは、ナプスターという悪魔がいたからだ」という見解は、もはや定説になっている。その莫大な海賊版被害に手を焼くと同時に、その豊かな将来性に魅せられたからこそ、米レコード会社は合法的インターネット配信サービスに大切なコンテンツを提供し始めた。
 翻って日本では、ウィニーにせよファイルローグにせよ、それがレコード産業にもたらした被害は、ナプスターやカザーに比べれば微々たるものであろう。これが逆に災いして、レコード業界に代表されるコンテンツ産業は過去のモデルへの未練が断ち(70)切れず、これまで次世代ビジネスへの取り組みが中途半端に終っているのだ。(71)

要するに、今でもCD物販を前提としている、再販制や著作権ホルダーたちの意識が、むしろ悪影響を及ぼすようになっていると。これは「零細の保護のつもりがあんまり保護になってない」小売規制みたいな話とつながるかもしれないし、よりレトリカルには「ものづくり神話」みたいな所と関係あるかもしれないなあ、などと。

ゲームに関しては、スティーブ・ジョブズ的な、一種のイノベーション経済みたいのが、日本で唯一(?)存在したのがこの業界の周辺だった(しかしそれが近年急速に頭打ちになっている)ことを、関係者のインタビューを交えながら活き活きと描いている。
ここでも、オンライン・ゲームへの移行が不可避だと論じるあたり、先の「ものづくり神話」が逆に桎梏と化してる、みたいなのと関係あるんでしょうね。

アニメに関しては、堅固な下請け構造の元、実際の作り手に利益が全然渡ってなくて、著作権ホルダーのテレビ局とか大手玩具メーカーとか広告代理店とかにばっかり金が回ってることが、これまた関係者へのインタビューから描き出される。

本格的な力作だと思うんですが、『コンテンツ消滅』というタイトルは、全然内容を反映していない。本のタイトル付けって難しいですね。だけどこれは、「キャッチーに、耳目を引くように」という(著者かどうか分からないけど)意図が、裏目に出ている例としか思えない。
あと光文社ペーパーバックスって、随所に単語の英訳が散りばめられてるんですけど、明らかに不要な気がするんですけどね……。これ、「日本語表現の未来形」なのかなあ……。

◆国民生活金融公庫総合研究所編,2001,『情報系マイクロビジネス――コンテンツ産業を担う中小企業の実像』中小企業リサーチセンター

そして、上記のような構図は、何もコンテンツに限ったことではない。
「情報化」は、これまでのように大企業の下請け先という形でしかない零細企業ではなく、「ネットワーク型分業構造」による、新しいビジネスチャンスを育んできたとされる。そこにこそ起業家精神の受け入れ先がある訳だ。

だけれども、「ネットワーク型分業」というのが、掛け声にのみ終わり、結局は単なる下請けになっている零細企業や「SOHO」が多数ある。日本の旧来の慣習が色濃く残っている中での、起業家精神や「新しい働き方」が持たざるを得ない両義性が、はからずも浮き彫りになっているのが、この本。
フリーターもそうだけど、日本で「自由な働き方」とかいう言葉が出てきた時は、とりあえず注意した方が良い。でもそこで注意するべきなのは、「自由な働き方」を求める<当人たちではなく>、その反照項としての旧来の仕事像が、なぜそこまで堅固に生き残っているのかということだ。
「自営業の復権」をうたう、玄田有史の『ジョブ・クリエイション』などと組み合わせると、いろいろ面白いことが言えそうな気がしてくる。実証が得意な人と共同研究がしたいです。はい。

◆橘木俊詔・森剛志,2005,『日本のお金持ち研究』日本経済新聞社.

そう考えると、以下のような現象はどういう位置づけになるんだろうか。

人生の勝ち組になる成功モデルは、大企(17)業の役員になることから、スモールビジネスの経営者・幹部になることへと変化している。(18)

日本では永らく、大企業の役員になることが人生の勝ち組と考えられてきた。つまり、「名門大学に行き」→「大企業で出世する」という成功モデルが、漠然とではあるが存在していた。しかし、近年こうした成功モデルは、もはや過去のものとなりつつある。東京都の納税額3000万円以上で企業経営者・幹部のうち、1984→2001で上場企業は28.8→19.2%へ減少、非上場企業は71.2%→80.8%へ上昇している(17)。

◆パーキンス,アンソニー・B,マイケル・C・パーキンス,斉藤精一郎監訳,2000,『インターネット・バブル』日本経済新聞社.

関係あるか分かりませんけども、「ものづくり」を離れた「IT」なるものに対して、それ自体を「虚業」と呼ぶような議論は、ITバブル批判をする、この本の中にすらない。あるのは、企業業績と関係なく株価が上昇することへの警鐘である。
「ヒルズ族批判」みたいのが跋扈してる近年こそ、アメリカとは逆の文脈で読む必要があるかもしれない。

「ヒルズ族」というIT新興起業家たちが、「株価」に走らざるを得ないとすれば、どう考えても批判するべきなのは「IT知財そのものをビジネスにする可能性の欠如」であり、考えるべきなのは「なぜ日本ではITそのもので金を儲けることができなくなってしまったのか」ということじゃないか?「ものづくりへ回帰せよ」とか、「弱者を思いやる日本の心の喪失」とかいう、ゴミみたいな話ばかりがマスメディアを賑わせている現状は、この転換を決定的に失敗した日本の失敗の上塗りにしかならない。

あと、
◆労働政策研究・研修機構「コンテンツ産業の雇用と人材育成」

コンテンツ産業は、「文化装着型産業」が主流にならざるを得ない現代において、必然的に着目に価すると。
実地調査の結果は大いに参考になる。しかし、「文化装着型産業」だからコンテンツに着目する、という、他でも広く見られる論法には、余り同意できない。

本当は、この報告書にも大々的に引用されている、ロバート・ライシュの言うような変革が、すべての産業において生じないといけなかったはずなのだ。その他の部門を旧来の日本式のままにしておいて、コンテンツ産業にその変革の失敗の<ツケを払わせよう>としても、過大な期待なのが明らかじゃないか。それが下請けの低賃金労働を生んでいるのも、後続の人材育成がうまくいかないのも、そう考えれば当然なんだと思う。

要するに、アメリカでも中国でも韓国でも、「就職」というのは年限つきの「契約社員」なのがもはや当たり前なのであり、大企業に勤めれば安泰だとか考えている人は一人もいないし(それは「自分個人の職歴」としてのみ意味がある)、「自分の働きに応じて年俸を交渉する」こと、「納得行かなければ、辞めて自分でもっと給料の良い勤め先を探す」のが当然の前提である。
それが「文化装着型産業化」の社会を生きることの、必然的な帰結である。イノベーションというのも、そういう構図の上で初めて生じるものであるというのが、「情報化」以後の世界の常識だと思う。
なのに、下請けで動画描いてるような人たちだけに流動性が限定され、著作権で大儲けしてるような所では「日本型正社員モデル」が生き残ってるのはなぜなのか、問わないといけないのはそういうことだと思う。おかしいのは、フリーターでも、「夢を追う下流社会の若者」でも、アニメーター志望の貧乏人でもなく、「普通の日本人」である。「正社員雇用を増やさないといけない」とかいう提言は、「正社員」という言葉の日本独特の意味への反省意識がないと、逆効果にしかならなくなってしまう。
コンテンツ産業振興というのは、そのおかしさに対する批判が、日本では不可能になってしまったことの、一種のスケープゴートとして呼び出されたものに、思えてならない。そういうことを何とかうまく言いたいんだけど、もはや「一体どこから説明すればいいのか」分からないのである。

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