いろいろ調べている。一筋縄ではいかないことが分かって苦心惨憺。前の原稿のノリを引きずっていてはいけないかもしれない。うむ。最近読んだ本を適当にレビュー。
◆小林雅一,2004,『コンテンツ消滅』光文社(ペーパーバックス)
音楽・アニメ・ゲームに渡って、現在のコンテンツ産業の問題を網羅的に論じた本。
音楽に関して……
「アメリカでiTunesのような新サービスが花開いたのは、ナプスターという悪魔がいたからだ」という見解は、もはや定説になっている。その莫大な海賊版被害に手を焼くと同時に、その豊かな将来性に魅せられたからこそ、米レコード会社は合法的インターネット配信サービスに大切なコンテンツを提供し始めた。
翻って日本では、ウィニーにせよファイルローグにせよ、それがレコード産業にもたらした被害は、ナプスターやカザーに比べれば微々たるものであろう。これが逆に災いして、レコード業界に代表されるコンテンツ産業は過去のモデルへの未練が断ち(70)切れず、これまで次世代ビジネスへの取り組みが中途半端に終っているのだ。(71)
要するに、今でもCD物販を前提としている、再販制や著作権ホルダーたちの意識が、むしろ悪影響を及ぼすようになっていると。これは「零細の保護のつもりがあんまり保護になってない」小売規制みたいな話とつながるかもしれないし、よりレトリカルには「ものづくり神話」みたいな所と関係あるかもしれないなあ、などと。
ゲームに関しては、スティーブ・ジョブズ的な、一種のイノベーション経済みたいのが、日本で唯一(?)存在したのがこの業界の周辺だった(しかしそれが近年急速に頭打ちになっている)ことを、関係者のインタビューを交えながら活き活きと描いている。
ここでも、オンライン・ゲームへの移行が不可避だと論じるあたり、先の「ものづくり神話」が逆に桎梏と化してる、みたいなのと関係あるんでしょうね。
アニメに関しては、堅固な下請け構造の元、実際の作り手に利益が全然渡ってなくて、著作権ホルダーのテレビ局とか大手玩具メーカーとか広告代理店とかにばっかり金が回ってることが、これまた関係者へのインタビューから描き出される。
本格的な力作だと思うんですが、『コンテンツ消滅』というタイトルは、全然内容を反映していない。本のタイトル付けって難しいですね。だけどこれは、「キャッチーに、耳目を引くように」という(著者かどうか分からないけど)意図が、裏目に出ている例としか思えない。
あと光文社ペーパーバックスって、随所に単語の英訳が散りばめられてるんですけど、明らかに不要な気がするんですけどね……。これ、「日本語表現の未来形」なのかなあ……。
◆国民生活金融公庫総合研究所編,2001,『情報系マイクロビジネス――コンテンツ産業を担う中小企業の実像』中小企業リサーチセンター
そして、上記のような構図は、何もコンテンツに限ったことではない。
「情報化」は、これまでのように大企業の下請け先という形でしかない零細企業ではなく、「ネットワーク型分業構造」による、新しいビジネスチャンスを育んできたとされる。そこにこそ起業家精神の受け入れ先がある訳だ。
だけれども、「ネットワーク型分業」というのが、掛け声にのみ終わり、結局は単なる下請けになっている零細企業や「SOHO」が多数ある。日本の旧来の慣習が色濃く残っている中での、起業家精神や「新しい働き方」が持たざるを得ない両義性が、はからずも浮き彫りになっているのが、この本。
フリーターもそうだけど、日本で「自由な働き方」とかいう言葉が出てきた時は、とりあえず注意した方が良い。でもそこで注意するべきなのは、「自由な働き方」を求める<当人たちではなく>、その反照項としての旧来の仕事像が、なぜそこまで堅固に生き残っているのかということだ。
「自営業の復権」をうたう、玄田有史の『ジョブ・クリエイション』などと組み合わせると、いろいろ面白いことが言えそうな気がしてくる。実証が得意な人と共同研究がしたいです。はい。
◆橘木俊詔・森剛志,2005,『日本のお金持ち研究』日本経済新聞社.
そう考えると、以下のような現象はどういう位置づけになるんだろうか。
人生の勝ち組になる成功モデルは、大企(17)業の役員になることから、スモールビジネスの経営者・幹部になることへと変化している。(18)
日本では永らく、大企業の役員になることが人生の勝ち組と考えられてきた。つまり、「名門大学に行き」→「大企業で出世する」という成功モデルが、漠然とではあるが存在していた。しかし、近年こうした成功モデルは、もはや過去のものとなりつつある。東京都の納税額3000万円以上で企業経営者・幹部のうち、1984→2001で上場企業は28.8→19.2%へ減少、非上場企業は71.2%→80.8%へ上昇している(17)。
◆パーキンス,アンソニー・B,マイケル・C・パーキンス,斉藤精一郎監訳,2000,『インターネット・バブル』日本経済新聞社.
関係あるか分かりませんけども、「ものづくり」を離れた「IT」なるものに対して、それ自体を「虚業」と呼ぶような議論は、ITバブル批判をする、この本の中にすらない。あるのは、企業業績と関係なく株価が上昇することへの警鐘である。
「ヒルズ族批判」みたいのが跋扈してる近年こそ、アメリカとは逆の文脈で読む必要があるかもしれない。
「ヒルズ族」というIT新興起業家たちが、「株価」に走らざるを得ないとすれば、どう考えても批判するべきなのは「IT知財そのものをビジネスにする可能性の欠如」であり、考えるべきなのは「なぜ日本ではITそのもので金を儲けることができなくなってしまったのか」ということじゃないか?「ものづくりへ回帰せよ」とか、「弱者を思いやる日本の心の喪失」とかいう、ゴミみたいな話ばかりがマスメディアを賑わせている現状は、この転換を決定的に失敗した日本の失敗の上塗りにしかならない。
あと、
◆労働政策研究・研修機構「コンテンツ産業の雇用と人材育成」
コンテンツ産業は、「文化装着型産業」が主流にならざるを得ない現代において、必然的に着目に価すると。
実地調査の結果は大いに参考になる。しかし、「文化装着型産業」だからコンテンツに着目する、という、他でも広く見られる論法には、余り同意できない。
本当は、この報告書にも大々的に引用されている、ロバート・ライシュの言うような変革が、すべての産業において生じないといけなかったはずなのだ。その他の部門を旧来の日本式のままにしておいて、コンテンツ産業にその変革の失敗の<ツケを払わせよう>としても、過大な期待なのが明らかじゃないか。それが下請けの低賃金労働を生んでいるのも、後続の人材育成がうまくいかないのも、そう考えれば当然なんだと思う。
要するに、アメリカでも中国でも韓国でも、「就職」というのは年限つきの「契約社員」なのがもはや当たり前なのであり、大企業に勤めれば安泰だとか考えている人は一人もいないし(それは「自分個人の職歴」としてのみ意味がある)、「自分の働きに応じて年俸を交渉する」こと、「納得行かなければ、辞めて自分でもっと給料の良い勤め先を探す」のが当然の前提である。
それが「文化装着型産業化」の社会を生きることの、必然的な帰結である。イノベーションというのも、そういう構図の上で初めて生じるものであるというのが、「情報化」以後の世界の常識だと思う。
なのに、下請けで動画描いてるような人たちだけに流動性が限定され、著作権で大儲けしてるような所では「日本型正社員モデル」が生き残ってるのはなぜなのか、問わないといけないのはそういうことだと思う。おかしいのは、フリーターでも、「夢を追う下流社会の若者」でも、アニメーター志望の貧乏人でもなく、「普通の日本人」である。「正社員雇用を増やさないといけない」とかいう提言は、「正社員」という言葉の日本独特の意味への反省意識がないと、逆効果にしかならなくなってしまう。
コンテンツ産業振興というのは、そのおかしさに対する批判が、日本では不可能になってしまったことの、一種のスケープゴートとして呼び出されたものに、思えてならない。そういうことを何とかうまく言いたいんだけど、もはや「一体どこから説明すればいいのか」分からないのである。