村上泰亮など
いろいろなお仕事が一段落して、多少燃え尽き感のある今日この頃。反応が楽しみだなあ。
ところで、いろいろな説明を飛ばしてざっくばらんに言うと、構造改革や雇用変動をめぐるいまの日本の議論は、「昔の分配システムの方が良かった」派と、「さらなる改革を求める」派に割れていると思う。
そしてこれは、旧来の日本の保守/革新という分類とは、あまり関係がない。戦争責任とか、女性やマイノリティ問題についてのことでありがちだった旧来の左右対立は、この軸で再編成されていくんだろう。そのこと自体は当然だと思う。
これは、いわゆる左翼(社会民主主義)/右翼(市場重視)という分類に近いけれども、いろいろずれる点もある。
まず明らかなのは、「安寧秩序に満ちた社会」(会社主義がそのテコだったことは過去にいろいろ書いた)というのが国の自画像になった日本では、市場主義=右翼ではまったくなくて、何かしら市場に異議を申し立てるのが「右」であること。要するに左右がまったく逆になっている訳だ。むしろ経済界の上層部など(まあそれにもいろいろいるけど)は「右」に対して批判的なことを言う人が多いと思う。つまり階級意識とかではまったく説明できないことが多い。
そしてこういう構図はほんとに旧共産圏と似ていると思う。当然と言えば当然だけど。
では日本の「左」というのが何を言っているかと言うと、「護憲」とか「マルチチュード」とか「NO WAR」とか、そういうこと。私は「マルチチュード」という言葉は、こっちの行政にとっくに先取りされている--低コストで調達できる実行部隊として市民の自発性が各所でもてはやされている--現状では、まったく無益というか、有害なんじゃないかとすら思っている。まあ別にいいんですけど。
その上で、たとえばフリーターの悲惨な現状について述べる、あるいはそれについて考えるブログやウェブサイトは、かなりの大きさのシーンを形成している。
しかしそういう思考が、ただの「事例収集」である限りは、残念だが大して意味はないと思う。何かしら、大きな枠組みに話を持っていく必要がある。それは制度的な側面(雇用法制とか)か、イデオロギーやレトリックの方面か、になると思うけど。
彼らの主張にもいろいろあると思うが……要するに、彼らの意図は巨視的には「昔の分配システムの方が良かった派への批判」なのであり、その点を明確に認識すべきだと思う。上下左右いろいろな人が言っている、「既得権益の崩壊の仕方の問題」とか、そういうことだ。その下部に位置する、微細ないろいろに拘泥していても仕方がないだろう。私が外から見ている限り。
同時に、今言った意味での「右」「左」というのも、当然もっと細かく腑分けされる必要があり、争点を整理する作業も必要になってくる。
私は制度的な側面については、まだ専門的な議論を展開できる実力がない。差し当たり、どちらかと言えばイデオロギー的な意味で、「昔の分配システムの良さ」を最も完成度の高い形で理論化したのが、村上泰亮『反古典の政治経済学』である。(さらにその背後には、ダニエル・ベル『脱工業化社会の到来』『資本主義の文化的矛盾』が透けて見える)
「昔の分配システムの良さ」を強調する--単純な伝統復古派とか嫌韓・嫌中とかのバカとは関係のない所で、経済学の立場から「右」を志向する--人々の言動の後ろには、常に村上泰亮の亡霊がいる。
その上で思うのは……私は村上の著作に大いに啓発された者の一人なので、あえて言うけど、「村上先生の言っていたのは、そんなことではない」ということだ。彼は、「開発主義」というのはいずれ役割を終えるもの、終えるべきものであり、それ自体が自己目的とされるべきではない、と書いてあの大部の書を閉じたのではなかったろうか。
「昔の分配モデル」とか「会社主義」を称揚する人々の議論を、どうも胡散臭い--それは私の日常実感だけじゃなくて、学問・理論として胡散臭い--と思うのも、そのためだ。
他方の、フリーターなどを「問題」として語る志向を持っている人々も、「マルチチュード」とかじゃなくて、まず村上を読むのが有用だと思う。私も、これまでの書き物ではあんまり消化できていないので……今後しばらくは村上を起点にいろいろ考えようかと思っている。よく分からない宣言(笑)で恐縮なんですけども。はい。
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