松原隆一郎,2005,『分断される経済』日本放送出版協会.
先日、とある会合にお呼ばれしました。その時、またもや酔って、うつらうつらとかしてしまいました。薄暗い店だといけないみたいだ……気をつけよう。もしご覧でしたら……すみません。でも楽しかったので、またぜひご一緒させてください~。
時に、某KSJ御大が出演していたNHK-BSの番組を、見逃してしまいました。どなたか録画した方がいらっしゃいましたら、ぜひご一報くださいませんか。よろしくお願いします。
ところで、某所での同僚にもお弟子さんがいる、松原隆一郎氏の最近著。……実は、先月末の毎日新聞で、中央公論に発表した論文を取り上げて頂きました。
彼の関心は、私や同世代の同僚たちとすごく近い。だがこの本をめぐっては、私の周辺でも議論の分かれている点がいくつかある。これは議論が分かれているのか、それとも結局は同じことを言っているのか、自分でもよく分からない。いろんな対立軸を整理していく、というのが大事な作業だと個人的に思うので、いつもながら完全に自分用のメモを書いておくことにする。
*「構造改革批判」というのが、最も基本的な主旨となっている。構造改革が「分断」をもたらしていると。
・小泉改革において、「公」が「小さな政府」という理屈で仕事を放棄している。必要な「公」は創出するべき(14)
・「リストラが一巡し、収益を回復した大企業の従業員などはみずからを「勝ち組」とみなすにいたった。二極化は、期待ではなく実態にも及んだのだ。ここの人々にとって将来に向けての最大の不確実性が、終身雇用制の崩壊がもたらした「リストラされるか否か」にとどまらず、この断層線のどちら側に属するかになりつつある」(13)
*ここで「トリクル・ダウン」という言葉が出てくる。よく言う「格差拡大」とか「行政のスリム化」とかが問題なんじゃなくて、何かしらのルートで「上」から「下」に利益が降りていく構図が必要なのだと。
「構造改革」が持つ真の問題は、この「トリクル・ダウン」の回路を断ち切り、何も降りてこない「下」を「分断」してしまったことだ、と。
・二極化が正当化され得るのは、優位→劣位に利益が及ぶ「トリクル・ダウン」が機能するか否かによる(13)。「公」の極端な削除は、政治がその構築を放棄すること(14)
・「大きな政府」であること自体に善悪はなく、トリクル・ダウンの有無が問題(43)。
*そして「トリクル・ダウン」が機能していた「構造改革前」のことが概観してあるのだが……前回の「大平総理」の中で書いたけど、この「かつての日本」の論理は「中心を保護するため、周辺をバッファにする」というのを主眼にしていたのであって、それを「上から下に利益を降ろしていった」ものと評価して良いものなのかどうか、というのが、個人的には多少疑問に思う。
たぶん「実証的」に言えば「どちらの側面もあった」ということで、後は価値判断の違い、としか言いようがなくなるような気がするけど……
・下請け構造などの撤廃はトリクル・ダウン構造の破壊であった。
「問題は、株主と従業員、大企業と中小企業、都市と地方、正社員と非正社員の間で、関係がなだらかに続いているか否かだろう。もし「格差」と呼べるものが大きくなく従来通りに前者と後者が結びついているのであれば、景気回復の第一段階では大企業や都市・正社員だけが恩恵を受けるのだとしても、次第にその影響は中小企業や地方、非正社員に波及していくはずだ。それが「トリクル・ダウン」現象である。【中略】
だが、中国などとの経済関係の濃密化すなわちグローバリゼーションによって、企業間の取引とりわけ大企業が行う対企業取引は、地方や中小企業よりも海外に向けられている。中小企業や地方経済は、大企業や都市の下請け的な立場や長期的な取引を行うという慣行を維持できておらず、それゆえ大企業で輸出が増えても効果は波及していない。そのうえ、公共投資は減っている」(35)
・「構造改革は、理想としては「機会の均等」と「トリクル・ダウン」によって万人に好景気の恩恵を施すかのように唱えている。けれども現実には、景気回復は大企業や都会、正社員に都合よく果実をもたらし、それは中小企業や地方、非正社員の全域には及びそうもない。経済は、「分断」されたのである」(36)
*たぶん松原氏は、理念としての「構造改革」というより、その現段階での実行のされ方と、現実的な結果への批判に主眼を置いているのだと思う。その意味では納得できるし、私などの実感とも非常に近い。
だけれども、その時に「それ以前」を批判の土台に置いて、「その崩壊こそが悪だ」という論理にすると、「それ以前」にもいろいろあった問題が全部覆い隠されてしまうような気がする。
私は、現在の「分断」の萌芽は、みんなが浮かれていた「それ以前」の状況に内在してあったのであり、「市場主義」とかいうのが外からやってきて「分断」を形成しつつある訳ではないと思っている。
というか、そういう風に書かないと、今の日本ではすぐ「昔の方が良かった」とか「昔ながらの正社員システムがあれば良いんだ」とかいう風に、「誤読」されてしまうような気がするのです……。私が学生とかとばっかり会ってるからかもしれないですが。
*だから、たとえば……今、地方の都市とかに、かつて「トリクル・ダウンを受け取っていれば大丈夫」だった企業がいっぱいあり、それが大丈夫じゃなくなって、中国とかにどんどん奪われていると。
その上でいろいろ対策が取られているようだけども、たとえば(同僚のAM君がよく言っているように)「大手メーカーのコールセンターを誘致しよう」とかいう形で、実質的にはただの使い捨て労働力を地元で量産しているだけなのに、「トリクル・ダウンを取り戻せた気になってしまう」ような心性の方が、個人的にはよほど気持ちが悪い。
また別の例を出せば、東京を経由しないでアジアにつながる回路を探す動きの、かなりの部分が「アジア交流」とかいう話になって、「文化」でいろいろやろうとして、全然うまくいってない(ように見える)のはなぜか。私の価値観で言えば、そういう時に「文化」が出てくると大抵、というか当然、ダメになると思うけど……。
要するに、まさに松原氏が書いているような背景事情が熟慮されないままに、「よく分からない擬似解決策」ばっかり動きがちなのはなぜだろうか。よく考えれば、別のやり方がいくらでもあるんじゃないか。そしてその別のやり方を思いついている人がたぶん既にいっぱいいるとすれば、その実現を阻害しているものは何なのか。……とかいうことを考える方が、「東京の構造改革」を批判するより先なんじゃないか、という疑念が拭えないのである。
*別に地方の話だけじゃなくて、同じことは正社員とそれ以外の差とかにも言えることで……。今の話の延長上で、行政が「若者自立塾」とか作って「何かした気になっている」のはたぶん逆効果しか生まないと私は思うし、「そういう公的支援がもっと欲しい」と思っている当事者がいればその人は間違っていると思う。立岩真也氏が主眼に置く障害者とかは別なのかもしれないけども……。
なのでたとえば以下のような事実認識は(私が詳しく知らないこともいっぱいあるけど)実感として私も納得できることばかり。
・貯蓄率の低下=高齢化が原因などと言われるが、勤務先企業の規模の差が大きく影響している。高額消費や住宅を購入しているのは大企業の従業員で、それ以下の企業の従業員は消費を減らしてもまだ家計予算が不足している(40)
・97~03の急激な構造改革は、深刻な不況をもたらした。97の消費税率引き上げ・社会保険の負担増→消費意欲の減退・金融危機(62)。つまり「不確実性の増大」が、消費や投資の減退をもたらした。終身雇用の時は、将来の予測可能性があったにも関わらず、それが失われたから(62-3)
*……なんだけど、たぶん「不確実性の増大」に「かつての予測可能性」を対置する時、どうしても「後者の方がマシだったのだ」と読めてしまうのが、私の感じる違和感なんだと思う。
私は、いろんな所で進んでいるおかしなことの根本に、「予測可能性をどうしようもなく追い求めてしまう我々の心性」みたいなのがあって、それが「もっとマシ」なことを生みそうな動きを、どんどん歪めていっているように感じている。まず批判するべきなのは、「不確実性の増大」より、「副作用を伴う予測可能性希求」の方なんじゃないんだろうか、と……。
どうせおれ、「心性」の話くらいしかできないしな……などと、独りで勝手に暗い気分になっている春の深夜。次回も引き続きこの本と対話を試みる(大げさ)。
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