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2006年5月29日 (月)

コイル,ダイアン,室田泰弘,矢野裕子,伊藤恵子訳,2001(=1997),『脱物質化社会』東洋経済新報社.

 週末だらだらしたら、だいぶ回復した。ふう。
 どうでもいい話だが、私は身近に人望がまったくない。たまに用があって出身大学院などに立ち寄っても、ただの一人も話しかけてくれない。ほとんど不審者扱いである(笑)。
 最近よく出入りしているのは、出身とは違う研究室。そこに「マサヒロ」という、私を先輩っぽく慕って、いろいろ手伝ったりしてくれる、ほぼ唯一の弟分がいる。
 先週はやたらと疲れ気味だったので、彼にものすごい勢いで八つ当たりしていた。すまんマサヒロ。しかし来週以後もなんかいろいろある。また八つ当たりすることもあると思うんだが(笑)、おごるから許せ。

 それはさておき、この本。この間書いたような、「流動性の偏り」にまつわる「最近の若者が感じがちな不満」と、かなりシンクロする本だと思う。というか、今の日本でよく似た議論を聞く機会が非常に多い。私を含めて(笑)。この本は拙著の脱稿後に読んだんですけども。
 これが1997年に書かれた本で、今現在の日本で同じようなことが論じられている意味とは、何か。そんなことを考える時に有用な本、だと思う。

*「脱物質社会」=「重量なき世界weight-less world」というタイトルのコンセプトは、要するに製品小型化・知識集約・情報産業化などを示したもので、それほど大きな意味はない。
 でも、その帰結をいろいろ論じていて:

・ウェイト-レス化の帰結:
-技術進歩による産業再編→失業・不平等。衰退産業に失業者が増大する反面、先進産業に新規の職が生まれる訳でもない。
-福祉国家の危機
-資本の自由な移動
 これらは、無力感・不安・ポピュリズムへとつながる。

・その対策として挙げられるのが:
1)「教育内容の改善と教育を受ける機会の均等化」(xviii)
 「ウェイト-レス時代の根源的な資源は、人々の創造性と知性である」からこそ、教育機会の平等が重要だと。
2)「創造性や熱意を呼びさますこと」=「文化的変革」
 「政府は、経済分野で人的資源を開発するだけでなく、人々がより柔軟な対応ができるよう、法律や税制の柔軟性を高めなかればならない。たとえば、終身雇用が望めなくなり、職を渡り歩いたり、失業したり、自営業に転じたり、はては外国に移住せざるをえなくなると分かっているのなら、税当局は、それによって不利な扱いを受ける人が出ないようにすべきである。また地位や場所が変わっても年金や社会保障の受給資格が不利にならない仕組みが必要である」(xix)

・こういうことの対策として、「かつての製造業」モデルを持ち出す形の議論に対して……
 「彼らがひどく嫌う、法律・金融サービス・コンサルティングは、現代脱工業社会の一大成長部門である。こうした職業の人気がこれほど高いのに、社会的に有用ではないと見るのはなぜなのか、理解に苦しむ。要するに彼らは、働き手は皆、工場でモノを作るべきであるとか看護婦や教員になるべきだ、という古臭い考えを持っている。これは単なるロマンティシズムにすぎない」(158)
 ……と手厳しい。

*不毛な議論が続く背景には、「左右対立」の両極分解があると。
・「現代の政治哲学には、経済的進歩を嫌う潮流がある。(xxix)【中略】こうした反進歩主義は、単純思考の経済的エリートによって武器を与えられた。少し極端な言い方をすれば、テクノクラート的考え方には二つの選択肢しかない。一つは極端な市場自由主義のリベラリズムであり、変化を肯定する。もう一つは愚かな時代遅れのコーポラティズムで、変化に抵抗する。この二文法によって伝統的な右翼と左翼の区別がなくなってしまった。だから一方では極端な環境保護主義者が妄想狂の極右私兵組織と手を組み、他方では中道左派がむき出しの資本主義を受け入れるといったことが生じる」
 →「ラディカルな中道の確立の道」が必要。経済的進歩・より多くの人の生活水準保障の両立(xxx)

*で、「ラディカルな中道」の担い手になれるかもしれないのが、公でも民でもない「第三の領域」と呼ばれるもので、総じて「コミュニティ」に関わるものであると。
・小型化・新素材・ファッション化などで物的財は軽量化。またサービス部門の比重が高まっている。ということで成長の可能性がある分野は:
1)「コミュニティ・社会・個人サービス」(理容・清掃・子守り・教職・看護・政府サービスなど)
2)「高付加価値サービス分野」(通貨取引・金融派生商品(デリバティブ)の考案・ソフト開発・遺伝子研究・衛星テレビ用プログラムの作成など)(3)

・その中で、先進国での雇用の伸び、とくに低熟練労働のそれが期待できるのは「コミュニティ・社会・個人サービス」部門である。対個人サービスと、「第三の領域【サード・セクター】」あるいは「社会的経済」と呼ばれるものの二種。
・「第三の領域」=多様な活動の集合体=「慈善活動、労働組合からシンクタンク、ロビー団体にいたるボランタリー団体、政府部門と部分的に重なり合う独立公共機関を含む非政府組織、非営利企業、教会、学校、住宅協会、美術館、共済組合や協同組合」など(88)
・「これらに共通するのは、利潤最大化を目的とせず、サービス自体の提供を目的とする人間集約的なサービスである、という点である」(88)。
・英仏の事例を引きつつ、「官僚が考案するのではなく失業者自身が発案し動機付けする」のが効果的であると(91)
・ちなみに、「社会的経済」というのは、「これまで「世界的反体制運動」とし描かれてきたものの経済的表現」であり、それが職の創出という経済的課題に関わって、転換してきたものとされる(101)

*このような施策を実現するためには、大きな政府(福祉国家)/小さな政府(夜警国家)という二元論ではなく、「教師国家【ティーチャー・ステート】」とでも呼ぶべき第三項を構想する必要がある、という。

・「税金と規制をどのような形にすれば、人々に柔軟性と機会を与えることができるのだろうか。【中略】福祉国家【ナニー・ステート】は被保護者に対し判断を下し、彼らが何をすべきかを命令する。教師国家【ティーチャー・ステート】は生徒に自分で考えさせる。そこでは、国家は安定的な枠組みを提供し、その枠組みのなかで人々が自分の判断と決定に責任を持てるようにするのである」(292)

*……私は、見ようによっては、これに近い事態が、すでに日本でも進行中だと思っている。
 だけど、たとえば、「団塊の世代を取り込むマーケティング」とかいう話の中で提唱されがちな「趣味的コミュニティ」とか、「セイブ・ザ・何とか」とか言われる時の「コミュニティ」とかは、「国家が安定的な枠組みを提供し、その枠組みのなかで人々が自分の判断と決定に責任を持てるようにする」構図の形成に、有用だろうか。
 あるいは、「コミュニティ・社会・個人サービス」による低賃金労働の創出は、「ケアワーカー育成」とかいう形で、部分的にはすでに実施されている。この動きは、上の意味でいう「第三の領域」の創出につながっているのだろうか。そんなことを考えないといけないんじゃないかと思っている、今日この頃。

*ところで最後に……以下のような記述も、我々の実感と非常に近いものがあるんじゃないだろうか。
 いつもながらオチのないエントリで恐縮ですけども。はい。

・「ウェイト-レス化の進展によって生じるリスクの程度は多様で、個人ごとに対応能力も異なる。筆者もその一人だが、高度の教育を受け、エコノミスト兼ジャーナリストとして高級を取り、ある程度の企業家精神を持つ人間にとって、英国労働市場に最近もたらされたフレキシビリティはすばらしい機会を提供する。【中略】しかし、資質や家庭的支援や十分な蓄えのない人にとって、フレキシビリティは結局、悪辣な、あるいはみずからも経済的に厳しい立場にある雇用主による搾取をもたらすだけだ。こうした人々は、世紀末資本主義の特徴であるいまわしい社会的ダーウィン主義の犠牲者である。
 筆者自身、ウェイト-レス世界ではフレキシビリティが必要不可欠だという確信と、それがもたらす不平等と不幸への嫌悪の間で揺れている。中道左派を自認する多くの人々が、同様なジレンマに悩(125)んでいるのではないだろうか」(126)

・「フレキシビリティは不可避であり、むしろその便益を受け入れるべきである。市場反対論は「自由市場経済学が政治的ハイジャックにあったことを批判すべきなのに、競争や規制緩和自体を批判している」(137)
(ちなみに、この意味での失敗の典型例として、日本が挙げられている)

・「グローバル市場に抵抗する」と言うカルスタ的?議論に対し:
 「しかし抵抗するには遅すぎる。それに、抵抗は特定集団の特権を他の集団の犠牲によって擁護することにほかならない。つまり、雇用形態が固まっていない若者や女性を犠牲にして、既存産業でフルタ(197)イムの仕事を持つ中年男性の擁護し、移民を犠牲にして定住者を擁護し、第三世界を犠牲にして先進国を擁護することになる」。
 「同質で固定的な人口に対する福祉の増進」という、工業化された国民国家の目的に執着することにより「左翼は保護主義と移民規制の支持に回る」(198)

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