内部労働市場とシリコンバレー
ものすごい私事で恐縮ですが、最近すごく疲れやすい。いろいろ、やることが溜まってるんだけどな……。
たぶん、肝臓がまずいんじゃないかと思う。大昔に、北東アジアから南アジアにかけて一度だけ大きな旅行をした際、軽度の肝炎にかかった時の感覚に似ている。お酒は控え目に。
ところで、最近漠然と考えていること……近頃、私より年下の世代から「とにかく流動化が(上の世代に)拡大すればそれで良い」という意見を聞く機会が増えている。私もこれまで、そちらに力点を置いて書き物をすることが多かったんだけど……そういう声があまりにも急速に増えているような気がする。
そうなると「そっちはそっちで何かおかしい」と感じざるを得ない。何かの話が、一言でまとめられるスローガンになった時は、大体どこかがおかしくなっているもので……。もうちょっと細かく、いろいろ腑分けしていかないといけないな、という感覚の方が強くなっている。
個別のご批判に答えるのはちょっとアレなのですが、私の『不安型ナショナリズムの時代』に寄せられたご批判のいくつかと、関係のあることだと思います。
最近、サンフォード・ジャコービィ(以下ジャコビー)の『雇用官僚制』という古典的な本をようやく読んだ(ノート取ったらもう一度ここにメモを書くと思うけど)。
この本は、会社に囲い込まれる形の「内部労働市場」というものの歴史的な登場をつぶさに追ったものなのだけど……
19世紀末のアメリカでは、有象無象の労働者の群れの中から、「職長」という立場の人々が、個人的なコネとかで駆り集める「駆り立て方式」が主だった。
手工業から工場労働への転換期、この方式の非合理性を指摘する、労働改良家みたいな人たちが出てくる。この人たちは、別にただの慈善家だった訳じゃなくて……「駆り立て方式」に対する異議申し立て、つまり組合運動が激化していくのを見て、組合の要求する賃金標準化とか出世ルートの整備とかを、会社の側が先取りしないといけない、というのが彼らの主張だった。
労働組合、大企業、そして外部の専門家たちの、いろいろな意図がこんがらかり、また第一次大戦による政府介入なども加わる中で、「内部労働市場」が形成されていく。
彼の論点は他にもいろいろあるんだけど、とりあえず置いといて……ジャコビーは、注意深く、この図式は主に「非耐久消費財の製造業」から導き出されたものだ、と留保をつけている。
一昔前の英米の労働研究者たちが、日本にとりわけ入れ込んでいたのは、こういう「資本と組合」という、あちらの伝統的対立項を止揚するものとして登場した「人事管理」の、一種の完成形がそこにあったからでしょう。
「内部労働市場」は、ただ単なる既得権益の温存じゃもちろんないし、それ以前の「駆り立て方式」に戻れば良いという話でもないということで(近年の人材派遣会社のやり口とかは、むしろこちらの危惧を強めるものだし)。
たぶん考えないといけないのは、団塊批判とかじゃなくて……現在だったら、当の「非耐久消費財の製造業」こそが中国との競争の舞台になったりしている状況、でしょうか。ジャコビーの描いた当時のアメリカでは、移民は流入してきても、製造業がどこかに流出して行くこととかはなかったんでしょうしね……。
また歴史的に見るんだったら、たとえば、ジャコビーの取り上げてる当時のアメリカみたいに、「資本と組合」のダイナミックなやり取りが、果たして日本であり得たのかどうか、みたいなこととか。昔の左翼が正しいとは思わないけど、それなしに日本の事例とジャコビーとかの議論を同列に見るのも、やっぱり違うでしょう。そういう研究あるのかなあ。「総力戦体制論」とかは視点がやや違うと思うし……大正期に詳しい人とかに教えて欲しい今日この頃。
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他方で、私が「創造性で稼げない若者の苦悩」という論考で考えたような、転職してキャリアアップしていくみたいな働き方は、明らかに……80年代以後のアメリカのシリコンバレーをモデルとするものでしょう。
これはジャコビーの「内部労働市場」みたいのとは、かなり異質な所から生まれた働き方で、基本的に別口で考えた方が良いものだと思う。
拙著で大々的に引用した、ピーター・キャペリの議論(『雇用の未来』)とか、あとロバート・ライシュ『勝利の代償』とか見るに、このモデルは狭義のIT産業とかだけじゃなく、かなり広く行き渡ったように思う。00年前後に『創造的階級』というのがよく論じられていたのも、その証拠なんだろうし。
こっちの方面で考えないといけないのは、こういう動きを担保していたのは、あちらのITバブルであって、それが日本では桁外れに小さい規模で、しかもだいぶ性質の違うものとして起きた(『ウェブ進化論』他)ということでしょう。
ITバブルが「結局バブルだったからITなんかダメだ」とか言ってても仕方ない。そこから「非耐久消費財の製造業」に戻れば済むはずもない。
80年代後半から90年代前半に、「何がどう間違いだったのか」を、「バブルに浮かれてた」とかじゃなくて(笑)細かく検証することは絶対に必要だと思う。個人的に今作業しているのは、この点。たぶん。
何が言いたいかというと、要するに、「内部労働市場」と「流動性」を直接の対立項として仕立てあげ、それぞれを弁護する党派を形成するんじゃなくて……
両者はもともと、時代性も、歴史的な成立の過程も全然異なるものなのであって、そもそもその両者がなぜ、今の日本で「混在」せざるを得ないでいるのか――みたいな所から話を始めないと、仕方ないような気がすると。
たとえば、コンテンツとかITとかで起きてる、最近の就職・労働事情のおかしさも、全然理念の違うものを、「製造業」の理念に押し込めようとしている、とか言えば整理できそうかな?いや、こう書くとつまんなそうなんですけどね……。
そして実は、この間に経済学ではない政治学的な主題もいろいろあるはずで……
たとえば、韓国の社会学に通底するモティーフは、当の「資本と組合のダイナミックなやり取り」が、「お話にならないくらい非対称的で、ダイナミックもクソもなかった」というものだと思いますが、要するに「民主化」みたいな要因がこの間に噛んでいるはずで(私は日本にも当てはまることだと思っているけど)……たぶんそちらも合わせて考えないと、社会学としては成立しない気がする。
いつもながら適当なので、今日の時点で考えていること、ということで……。
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