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2006年6月24日 (土)

韓東賢,2006,『チマ・チョゴリ制服の民族誌』双風舎.

ありがたいことに、また新しいお仕事がいくつか来た。かなり心配ですが、頑張ります。はい。

ところで、先ごろ出たこの本。著者の韓東賢(ハン・トンヒョン)は、私の姉貴分です。拙著『不安型ナショナリズムの時代』にも、いろいろコメントしてもらいました。なんだかんだ言って結構古い付き合いで、この本の元になった修士論文も、提出当時に読みましたね。

本書は4章構成になっていて、第一章が衣服・ジェンダーを軸にした「在日なるもの」の理論的考察、第二章はチマ・チョゴリを起点に見た「在日慨史」、第三章がチマ・チョゴリ制服に関わってきた人々のインタビュー集、第四章がそのインタビューの考察、となっている。

面白いのは、具体的な事例の記述が続く二章と三章。朝鮮学校の制服とか言う前に、在日というものについてどれだけ文脈情報が共有されているかというと、かなり心許ない現状がある訳で……不可避的にそこが厚くなるんだと思うんですが、多くの事例研究に言えることで、実はこの説明を丁寧にすることが生命線だったりする。

第三章は、文字通りインタビュー・データがそのまま載っているんだが、「在日」「総連」などに対して漠然と嫌悪感のようなものを持っている人こそ、こういうのを読んだ方がいいかもしれない。既存の回路で政治化された在日論には収まらない声が、いろいろ詰まっている。

著者の主な目的も、このインタビューを世に出すことにあったんだろう。学術的考察の第一章と第四章は、著者も「ここは飛ばして読んでも構わない」と言っているけど、サブ的な位置づけなのでしょう。しかし、枠組みが下手にきっちりしていないからこそ、生の事例のデータが活きていると言うこともできる。

生の事例のデータが活きていることが、なぜ貴重なのか。
例えば、現在の日本に生きる日本人男性の私の「生きにくさ」みたいなものについて考える時、その「生きにくさ」を先んじて経験してきた(と自負しておられるのだし私もそう思う)人々の手による、「フェミニズム」や「在日論」がある。
私が声を大にして言いたいのは、なのになぜ、「既存のフェミニズムや在日論には、私の参考になる点がほぼ皆無」なのかということです。
正直言って、被害者意識みたいのを根底に持つ語りには、常に限界があって、「被害者の自分から見えることを、どうやって一般化して、マジョリティにも関係のあることとして語れるか」が重要なのだと思う。今一部で非常に流行っている「反・若者バッシング」みたいの(私もその一員に数えられることもある訳ですが)も、そこに気を付けないと、余り意味のある議論は生まれないでしょう。

いろいろある自分の立場から「見えるもの」を「変数」として取り出すことを怠り、「男社会」とか「日本社会」とかいうマジックワードに逃げる議論には、個人的にまったく興味がない。
この本は、既存の枠組みに乗っていないので、マジックワードに逃げない。そこに乗る以外に語りようがなさそうな対象を取り上げて、何とか違う語り方を探そう、という意志に、私は強く共感する。
だけど、何か違う「変数」をはっきり取り出しているとは言えないと思う。その作業は、事例の紹介を通して、読み手の側に委ねられている。そういう意味で、「ナショナリティ」「衣服」「在日」などといった領域に関心のある方には、ぜひお勧めしたい一冊です。姉貴、これからも一緒に頑張りましょう……ってシメが私信ですみませんけども。

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