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2007年7月11日 (水)

「ホンデ前クラブ街10年史実録」Bling(23号= 2007年1月), 34-45

私はソウルの地下鉄二号線沿い、弘大入口(ホンデイプク:略してホンデ)という街に住んでいる。いくつかの場所でもう書いたことだけど、ホンデは、90年代半ばのグローバルなサブカルチャーの流入に伴って、若者文化の中心地となった街。

このホンデについて、改めていろいろ調べているんだけど、まあ手始めにこれ。基本的なことしか書いてないけど……。Blingというのは、ホンデとかアプクジョンとかのオサレなカヘとかクラブとかに行くと置いてある、「バウンス」状のフリーペーパー。内容は音楽・ファッション中心。

初期に、韓国における開発独裁と文化規制の歴史とのつながりで「文化を通した自由」がナイーブに存在していたフェイズは、2002~3年くらいにかけて多少変質し、文化政策みたいのと関わりを強くしていくようだ。確かに私の個人的記憶でも、2002年くらいから、ここは街路整備とかの動きが目立つようになった。
そして現在のホンデはといえば、ヒップでちょっと敷居の高い街、サブカルチャーの危険なオーラと快楽の両面を持つ街、みたいなかつての特徴がほとんどなくなって、酒飲む店ばっかりが増えて、明洞(ミョンドン)と変わらないくらいに混雑するようになった。90年代末には、人なんて全然いなかったのに。

そうなった背景には、政府がここを文化政策の一環としてテコ入れしてきたことが明らかにある。文化政策の強いお国柄なので……。その動きは今でも続いていて、つい最近には外国人(主に日本人ね)向けの観光案内所ができた。何ちゃらというTVドラマの舞台だったからだそうで。

そんで、仁寺洞(インサドン)とか、そういう公的テコ入れの決定した地区の多くに共通することだけど:
→地価が上昇する
→文化地域指定の理由になっていたもともとの文化の担い手が、地価を払えなくなる
→大衆化に成功したいくつかの文化施設以外は消えていく
  同時に、酒飲みの多い韓国で高い地代を払える数少ない業種である、酒飲み屋ばっかりが増えていく

という、笑えないパターンがある。「韓流」と日本の中高年女性の主体性がどうしたこうしたという話とは、まったく別次元の問題がいろいろある。ホンデも中高年女性の巡回経路の中に組み込まれているみたいですけどね。

現在のホンデでは、古参の住人(この記事書いてる人々もそう)が、こうした「大衆化」を、やや文化エリート的に嘆きつつ、現実にはかなり非情な利潤の論理に貫徹される街になりつつある。
私は、行き場のない人々が単に集まって逃避所的共同体を形成するだけの「サブカルチャー」には、全然興味がない。ちょっとだけ吉祥寺に引き付けて書いたことだけど。
90年代末のホンデには、今考えれば本当にしょうもないこの手の「サブカルチャー」が蔓延していたことも確かで、それにノスタルジーを感じてても有害なだけだと思う。あと、今に至ってもまだ「文化を通した自由」みたいのにノスタルジー感じてるのも、あんまり良く理解できない。
それは、こっちの文化評論家とかがしばしば陥るパターンで、この記事もそう。実際にシビアなお金の論理で活動してるミュージシャンとかの実践者と、文化評論家や雑誌記者は、こっちでは仲の悪いことが多い。

でも、本当にただこっちのバカ大学生が酒飲んでゲロ吐くだけみたいな店が増えて、残る文化施設は大手資本とつながってる所だけ、みたいな状態になるのも、どうなんかなあと思う。そういう所からは、『グローバリゼーションと文化変容』所収の論文に書いたような動き――「創造性」を元手にした新しいライフコース・モデルっていうの?――も、今後は一切出てこないことになるだろう。それは逃避所的共同体よりタチが悪いけど、現実の動きはこちらに近いと思う。

じゃ、どうなん?日本と比べたらどうなん?みたいのが、短中期的テーマその一。

##
-年表:
・1992年:「作業室の形態を取るバー“発電所”が登場する
 バーで音楽を聞きながら自由に踊るこの場所は、ダンスクラブの母胎となった。DJサンシャインはここの出身。現存する最高齢のクラブである“スカ”も1992年にオープン」

*どうでもいいけど、この「スカ」というクラブは、たぶんつい最近潰れた。結局一回も行かなかったなあ。「発電所」からは、今でも大手クラブでやってるようなDJ第一世代の何人かが輩出されたそうだ。

・1994年:「音楽専用鑑賞室ドラッグが、“インディ”、“アンダーグラウンド”(の理念)を掲げてホンデ前に登場する。ジャジャーン!
 1990年代初頭、シンチョンの大学街を中心に発生していたロックカフェは、政府の集中取り締まりと、ライブ公演の不法化に直面した。ロック音楽の演奏者たちの活動舞台は、シンチョンから消え去り始めた。シンチョンから追い出された音楽空間が、荷物をまとめて真っ直ぐ向かったのがホンデ前!シンチョンに近接していたのはもちろん、(今とは異なり)家賃が安くて、用途転換の容易な“準住宅地”だったためだ。ライブクラブ“ドラッグ”がホンデ前に巣を作ったのがまさに1994年7月のことだ」(34)

・1997年:「<子犬文化芸術>、<インディ>などのインディレーベルと、インディ音楽専門誌<ファンジン コン>登場
 “コーダ”、“マスタープラン”、“スラッガー”などのライブクラブも続々と発生。この時登場したマスタープランは、ヒップホップのライブクラブで、アンダーグラウンド・ヒップホップ・ミュージシャン養成の中心地となり、音盤製作作業にまで関わって、“ジュソク”のようなミュージシャンを大衆の知る所としつつ、現在韓国ヒップホップシーンの重要レーベルの位置にある」

・1999年:「圧迫されてきたライブクラブが遂に合法化!そして……
 ホンデ前文化の先頭走者であるライブクラブは、ことごとく不法業所取扱に当たっていた。“一般飲食店では二人以上の演奏団が常時公演することができない”という食品衛生法施行令のため。合法的に公演をしようとすれば、クラブは遊興接客業として登録しなければならないが、そうすると途方もない税金と取り締まりという不利益を甘受せねばならなかった。ゆえにライブクラブは連帯を組んで闘争を繰り広げることとなった。ついに1999年、ライブクラブが合法化されても、相変わらず不合理な点は多かった。曖昧模糊な基準によって、公演を見たり踊ったり酒を飲んだりする行為は、今でも不法と見なされている」(34)

・2000年:「500~1000名の参加するパーティが登場する。パーティシーンの本格化の始まり
 Sickboy Promotionが海外の有名DJを招請するパーティを開催しながら、パーティの規模が大きくなり始めた。“クラブ入場料”の概念も、この時発生した。入場料がなく、自由に出入りすることのできたクラブは、当時5000Wの入場料を出せば1 free drinkと交換できた。パーティプロモーターの登場で、外国のクラブのように、入り口でチケットを切る“入場料システム”が出来始めたこと。
 2000年1月、テクノクラブだったnbinbが、ヒップホップクラブnbへ換わったが、クラブを開いた“ソテジワ・アイドゥル”のヤン・ヒョンソク社長【YGエンターテイメント代表】の名声により、多くの人々がクラブを探し始めて、ダンス・クラブ・シーンで本格的にヒップホップクラブが注目を集めるようになった」(34)

*このnbっていうクラブ、週末は本当にクラブ全体が満員電車みたいに混雑している。何が楽しいのかよく分からない。

・2001年:クラブデイ開始(35)
・2002年:「クラブ連帯」発足、ワールドカップ路上公園の成功、ホンデの路上フリーマーケット開始
・2003年:「クラブ文化協会」発足
・2004年:サウンドデイ開始
      Bling創刊

*「クラブデイ」というのは、月に一回、一軒分の入場料を払えばホンデ内のクラブほぼすべてが行き来自由になるというイベントで、すっかり有名になり、今となってはこの日になるとホンデの街全体が満員電車並みに混雑する。うざい(笑)。「サウンドデイ」はそのライブハウス版で、「クラブデイ」ほどはメジャーじゃない。

・2005年:「B-Boying, デザイン、グラフィティ、VJingなどを青少年に教えるクラブ文化教育プロジェクト実施、B-Boy Parkとソウル・ワウブック【?】フェスティバルが開始、ケーブルTVのダンスクラブ関連プログラム登場」

・2006年:「サウンドデイ2周年を迎えて、インディレーベルが総集合する
 2006年11月に2周年を迎えた第32回サウンドデイは、韓国文化コンテンツ振興会の2006年インディレーベル育成支援製作社に選定された20のレーベルが、一緒にやった。初期にライブクラブを不法とし、圧迫を加えていた政府が、今やこれらを積極的に支援するようになったこと。システムが定着した初期であり、いまだ目に見える効果が現れてはいない状況ではあるが、ホンデ前ライブクラブが認められるための10年の努力が、次第に陽の目を見つつあるということは、大きな意義を認めることができる」(35)

・2006年:「ホンデ前クラブに関心が集中しつつ、さらに多くの人々が集まったが、特定のクラブに集中するという奇妙な現象が発生する。クラブの大型化は多様性が共存していたホンデ前クラブシーンにおいて、小さくても個性のあるクラブが力を失って消える結果を招いている」(35)

-インタビュー
・Bling編集長、イ・ドンミ
 96年末に初めてクラブに行った。「大学を卒業する時まで、ナイトクラブ文化にのみ接してきた私は、他人の視線を意識しないで、踊りたければ踊り、まるで麻薬に酔ったように音楽に心酔する人々の姿に何よりショックを受けたようだった。当時は私が外国の都市にほとんど行く事が出来なかったのだが、“たぶん外国のクラブはこんな雰囲気なんだろうな”という想像を、ホンデ前のクラブを通してすることができた。
 ホンデ前のクラブに初めて出入りした人たちは、外国で勉強して帰ってきた留学生や、その人たちと一緒に来た外国人、ファッションデザイナーなどの専門職従事者が多かった。その人々が先導していたホンデ前クラブの雰囲気は、とても閉鎖的のようでありながらも、開放的だった」(40)

・「メタル兄さんたちは行き場を失いました」ある元メタルバンドのメンバー
 1990年代初頭、「ライブクラブという言葉すらなかった当時、演奏者が舞台へ上がることのできる場所と言えば、チョンノを中心に、年に2・3回開かれていたフェスティバル性の大規模公園がすべてだった」。その当時はその舞台に向けて必死に練習し、実力のある者しか上がれないものだった。しかし96年頃からホンデ前のクラブが出現してからは、上がる舞台が増え、基準がなくなり誰でも舞台に上がれるようになった(38)

-その他の記事
・「ライブクラブシーンの変化、その問題点」
 ホンデから出世していくバンドが増え、それまでマニアたちのものだった音楽を大衆の知る所とした。しかし現在は、オーバーグラウンドを目指すバンドが多く、面白くなくなった。かつてのようなスターもいなくなり、アンダーグラウンドで個性あるバンドは居場所を失い、ライブクラブシーンはこれからどこまで続くことができるか分からない(39)

・「ホンデ前が恋しい日に…」中、「芸術劇場:帰ってきたシアターゼロ、しかし…」
 2004年、ソウル市のホンデ前「文化地区選定」発言で、「不動産市税が、狂った子馬みたいに駆け上った。その上、時代遅れで安いせいで、貧乏な芸術人の作業室となっていたホンデ前の、悪徳建物主たちは、非正常的に値上がった家賃を要求した。約8倍に達した家賃に耐えることができず、ホンデ前の芸術界を守ってきた芸術人や音楽人たちは、違う場所を探して出て行くしかなかった。国内の唯一無二の実験芸術劇場“シアターゼロ”もやはり、産業資本の流入で廃館の危機にあった芸術空間の一つだ」。現在は取り壊されて醜い建物が建っている。その地下にシアターゼロが再入居する予定だが、今となっては実験劇場がその高い家賃を払うことができるかどうかが問題だ(42)

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