朴裕河【パク・ユハ】,2006,『和解のために――教科書・慰安婦・靖国・独島』平凡社.
韓国に来てから少々だらけムードだったが、たまに日本に帰って知人たちの活躍を見ると、「いかんな」という焦りがつのる。反省して頑張ります。
そんな中、往来時のデータ持ち運びに使っていた外付けHDDがぶっ壊れ……突然電源が入らなくなったので、HDD自体じゃなくてケース周りの故障かと思ったのだが、修理に持って行ったら「ケースを換えてもHDD自体に電源が入らない」そうで。基盤損傷ってやつですか。わあ勉強になるなー(棒読み)
そんなのは序の口で、おおっぴらに書けないようなこともものすごくいろいろ発生し……友人たちから「お前はいろいろ経験できて良いなあ」(笑)とか皮肉られる日々です。
それはともかく、この本。慰安婦・竹島(独島)・靖国その他、こちらでは絶対的なタブーというか、ある決まった回答以外を考える人がいないし、いたとしてもそういうことを公に発言すると学者生命・政治家生命・ジャーナリスト生命その他がすぐに終わってしまいかねない問題について、勇気ある発言がいろいろ書いてある。
以前書いたけど、最近は、多くの敵を作ることを承知で「日本の植民地統治をもっと評価すべき」と言う「ニューライト」とかも出てきている(とはいえそれほど感心もできない)のだが、その彼らですら、これらの問題については何も言及していない。たぶん。これらの問題は、日本の天皇制を上回るくらいの、絶対的なタブーだから。
この本の記述は、日本と韓国それぞれに問題があり、自分の国に都合の良いデータだけを持って来て物語を作っていること、またいずれの国にせよ良心に基づくはずの活動が副作用を伴うこともあることなど、極めて真っ当な指摘となっている。あまりにも真っ当すぎて、ある種の退屈さを覚えるくらいだ。恐ろしいイデオロギー争いの只中にあるこれらの話題において、その退屈さは、貴重である。
しかし漏れ伝え聞くに、こちらの人文社会系の学界周辺では、彼女も「親日派」のレッテルを貼られて、「まともな議論に値しない論者」として切り捨てられているようだ。本文を見るに、彼女自身、そうならないように細心の注意を払っていたようだけど……。
これも前に書いたけど、この手の切り捨ては、国内問題でもひどくて、当たり前だけど若い研究者の自由な研究活動とかいう点で言えば、明らかな妨害になっている。
「日本のいわゆる「良心的知識人」と韓国との連帯は、共通の価値をめざしているかのようにみえながら、韓国からの批判が民族(221)主義にもとづく本質主義的なものであり、日本の側はみずからの問題を問おうとする脱民族主義的批判であった点では、アイロニーに満ちた連帯であった」(222)
という指摘は、日本でももっと省みられて然るべきだと思う。自分たちが味方しようと思ってる連中ないしイデオロギーが、こっちでどういう存在なんだか、やはり考えないと……。と聞いて喜んでるような人々には「お前の同類がこっちにも死ぬほどいるってことなんだよ」と言いたいソウルの深夜。
情報流入が活発化して、そういうのを知る人が増えてくると、どんどん全否定の方向に流れていってしまうでしょう。もうちょっとバランス感覚を取り戻すためには、何かしら違うことを言わないといけない。その方が、日本ローカルのポリティカル・コレクトネスにこだわり続けるより、よほど生産的だと思うんだけど……。
私個人の感触としては、こうした問題「そのもの」をいくら探求しても、バランス感覚にはつながらないと思う。もともと、日本でも韓国でも、何でこの手の問題に熱狂して、恐ろしくマニアックに情報収集したりする人々がいるのか、それで一体何の充実感が得られるのか、よく理解ができなかったんだけど……韓国に来てから「そのやり方じゃ無理」という感触がさらに強くなりつつある。この論者をめぐる伝聞もその一因。
本書はものすごくいろいろ書かれていて、日本の動向を批判的に取り上げた部分も多い。どっち側にせよ、味方してると勘違いされたりするのも鬱陶しいので、具体的な内容は書かないことにしようかと。
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