2007年11月21日 (水)

鈴木謙介他,2007,『文化系トークラジオLife』本の雑誌社.

今さらこんな所で紹介しなくても、皆様もうご存知と思うんですが……鈴木charlie謙介がメインパーソナリティの「文化系トークラジオLife」(TBSラジオ)の書籍版です。
私も参加者の末席に名を連ねさせて頂いております。
http://www.amazon.co.jp/%E6%96%87%E5%8C%96%E7%B3%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AALife-%E6%B4%A5%E7%94%B0%E5%A4%A7%E4%BB%8B/dp/4860110773

番組HP↓
http://www.tbsradio.jp/life/

毎回「身近なんだけどよく考えると深い」テーマを選んでいて、テーマ選定の妙がこの番組の最大の魅力なんじゃないかと、私は一リスナーとして思っていて。正直「放送しっぱなしじゃもったいないなあ」と思う所もあったから、本の形にまとまったのを見るとなんかうれしいですね。
再構成してあるとはいえ、ジャズのアルバムみたいなもんで、基本的には即興の記録。ここで無造作にぶちまけられている素材の一つ一つを、今から何か作ろうっていう読者が、それぞれのやり方で拾い上げるんだと思うんですよね。そういう「これから」のワクワク感みたいのが詰まった本だと思います。うん。

私は昔っから、集団で行動したりしゃべったりするのが本当に苦手で……ゲストに呼んで頂いた際も全然食い込めず、史上最もしゃべらない「ゲスト」になってしまいました。すっすみません。
今回の書籍版でも、文字にすると数百字しか載っていませんが(汗:ちなみに第10章「Jの時代」)、割と気合を入れて語彙解説など書きました。あと第12章「ロストジェネレーション」に、私が番組に送ったメールを収録して頂きました。
まあ私のことはともかく……身近の同業者界隈でも「番組の存在は知ってるけど聴いたことがない」という人が多かったりするんだけど、これを機会にぜひぜひ。ソウルで、この番組からなんとなく日本の空気感みたいのを感じ取っていた日々から、毎回欠かさず聴いているおれです。

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2007年7月 9日 (月)

金城模【キム・ソンモ】,2007,『嫌日流――アジアの妄想家日本に告ぐ』晋遊舎.(=2006,自由区域)

どうでもいい話だが、こないだ、カンヌ映画祭で主演女優賞を取ったことでこちらでも大変評判だった「ミリャン(密陽)」を観た。あまりのつまらなさに、久々に映画観て腹立った。
「不幸続きの女性が、田舎に引っ越してきて、さらに不幸に見舞われ、精神異常になっていく」という映画(これで全部ネタバレです、ごめんなさい)で、精神異常っぷりをひたすらねちっこく描く二時間弱。テーマもなければオチもない。
ねちっこい女優の演技は確かにすごいんだけど、それだけ長々見せられてもねえ……。韓国映画でも、他に面白いのいろいろありますから。これはちょ(以下略)

つまらないもののことは別に書く必要もないんだけど。
表題のマンガも、同じくらいどうでもいいんだが、まあ、「動き」を把捉させるようなものがないと他国認識はこうなっちゃう、みたいな前回の話とのつながりで(笑)

日本のマンガ「嫌韓流」に対する、直接の返答として書かれたものらしい。その内容は、要するに「日本は社会運動がないから、政府やマスコミに騙されている」、「バカな国民」であると。それに対して韓国は「輝かしい運動の歴史があるから、バカな国民ではない」というもの。

そんで日本政府は、国民がバカなのをいいことに、一直線に「軍事大国化」への道を進んでいる。日本という国家は、原初以来常に、アジアにおける軍事大国化を考えてきた。現在でもそうである。日本政府は、「北朝鮮危機」を、バカな国民の目をくらますために過大評価し、アメリカの機嫌を取りながら着々と軍事大国化している。
「嫌韓」とは、こうした日本政府の国民への目くらましであり、日本国民は、そんな嘘にだまされずに、目覚めて軍事大国化を阻止しないといけないんだ、みたいな内容。

『不安型ナショナリズムの時代』でも書いたけど、日本政府が原初以来現在まで一貫して「アジアの軍事大国化」を至上課題として行動してきたのであり、日本人が全員「その陰謀に騙されてきた」という主張に納得する人は、およそ日本にはいないだろう。
作中では、そういう台詞の後に、相手の日本人が「ハッ」とかいって汗をたらしながら説得されるんだけど(笑)。そういうバカらしさは「嫌韓流」と同類。

そんで、これは明らかに、韓国における「左翼・革新派」の立場からなされている発言である。
ここまで極端なことは、さすがにまともな人は言わないけど、でも「日本では『市民社会』の影響力が低下しつつある。中国ではいまだ『市民社会』が成立していない。わが国の優れた『市民社会』を、アジアにどんどん輸出しなければならない」みたいな物言いは、研究者界隈でも比較的よく聞く物言いである。
「市民社会」って輸出とかできるものなのか?直接聞いてみたこともあるけど、「日本人にはなかなか分からないでしょう」とか言われるだけという(笑)。とりあえず、この手の人々の思考回路を戯画的に描いたものとして、まあ一読の価値がないでもないのかな。

こういう時の「市民社会」というのが何なのか、議会制民主主義のことなのか、市民運動のことなのか、アナーキズム的な新しい(または新しい・新しい)社会運動のことなのか、なんてことを、突き詰めて考える人は皆無に等しい。中心的な論者たちの多くは、学生運動の直接的な参加者だった世代で、その運動へのノスタルジーでしゃべっているだけだから。

韓国では、彼らはまだ40代で、社会の中枢にいるので、過去の運動の反省とかが本格化するのは、まだまだかなり先のことだと思う。語れないタブーとかもたくさんあるんでしょうしね……。
そんでそういう思考に、韓国でも、後続世代の多くが幻滅しているのは、あまりにも当然である。こういう思考は韓国で一時期ものすごい正統性を付与されて<いた>のだが、現在は草の根レベルの支持を失いつつあるものであって、これを「韓国伝統の反日感情が云々」などと解釈するのは、まったく間違いである。
逆に、こういう思考に「日本は確かにそう」とか言って納得するのも、こっちで失笑を買うことになりかねないので、やめた方がいいと思う。ちなみにこの作品も(著者はそこそこ有名らしいが)全然有名じゃないし、大して売れてもないはずです。はい。

ついでにもうひとつだけ言うと、基本的にこの人たちは「親北・反米・反日」で、戦後日本は、現在まで一貫して「米国の威を借りてアジアの覇権を狙っている」ということになるんだけど……日本の文脈では、「対米追従」と「軍備拡張」とは、確かに重なる部分もあるが、全然相容れない点も数多くある。
「米国の威を借りないで、自主防衛する」という議論も紛々出てきている現在では、なおさら日本の文脈では意味のない議論だし、アメリカとの関係について議論百出だった戦後日本の言論について、この人たちは何ひとつ知らないのである。まあ、お互い意味のないことを言い合っているのは不幸なのでですね……はい。

そんで最近では、金大中~盧武鉉の間に「抵抗者」から「執政者」に変わったこういう「革新」イデオロギーに対するアンチとして、「親北」(=民族主義)をテコにしない形のナショナリズム、というか愛国主義、が相対的に影響力を増しているような気がする。でもその人たちは、逆に「反共」へのノスタルジーが強くて、それはそれで現代的な意味・課題みたいのを見出しにくいタイプの考え方だったりして。

日本では参院選も近いのに、浮世離れしたこと書いてて恥ずかしいなあ。すみません(誰に?)。まあ、自分用のメモで適当に書いているだけなので、勘弁してください。

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2007年7月 3日 (火)

角田房子,1993(=1988),『閔妃暗殺――朝鮮王朝末期の国母』新潮文庫. & 河信基,2004,『朴正熙――韓国を強国に変えた男』光人社NF文庫.

私信なんですが、5月に日本で買ってきたPCに、メール配信の不調があるようです。ランダムに?届かないメールがあるらしく……。先日少しだけ再度一時帰国した際、知人たちから聞いて判明しました。半々くらいで届いてるみたいだからタチが悪い……。

もし返信不行き届けなどございましたら、大変お手数なのですが再度ご連絡を頂ければありがたいです。受信の方は問題ないようですので……。
しかしそれ以外でも、家を空けることが多く、こちらでは研究室もないため、どうしても返信が遅れがちになりまして……すみません。

ところで。
前回書き忘れたのだけど、たとえば韓国について、「歴史の動き」みたいのに対する想像力を働かせる本というと、この二冊が思い浮かぶ。
形式的にはノンフィクションで、微細な誤りや論争点をあげつらうような批判も多い本だけど、そういう問題じゃなくて巨視的な「動き」をガッと把捉させることに真骨頂のある本、というか。どこかでまた講義とかやらせてもらえるなら、こういう本を読ませたいなと思う。

翻って例えばここ韓国で、日本の、特に戦後の「動き」を把捉させるのに読ませたら良さそうな本というのが……全然思い浮かばない。知り合いの先生とかに聞かれても、返答に困る。ミクロな領域についてならいろいろありますけども……。
それは、当たり前なんだけど、ぶっちゃけ日本が韓国よりはるかに先んじて先進国だったのであり、複雑な過程を経てきたということでもあるでしょうけども……。でもそれ以外にも、当該国にローカルな、外部から見れば「まったくどうでもいい」問題――でもそこにはいろいろなタブーが介在する問題――を、ある程度度外視して書くには、外国語圏じゃないとできないのかな、と思ったり思わなかったり。

『<民主>と<愛国>』が稀有な例外なのだけど、翻訳版があったとしても、ちょっとハードルが高そうな感じがしなくもない。
拙著『不安型ナショナリズムの時代』も、書いた当時の本人の意志としては、そういう本になれば良いなという関心があるにはあったのですが……まあ今では反省点もいろいろあったりして。次作がそうなることを祈ろう。いや祈ってる場合じゃなくてどんどん書かなきゃ(爆)

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2007年7月 1日 (日)

朴裕河【パク・ユハ】,2006,『和解のために――教科書・慰安婦・靖国・独島』平凡社.

 韓国に来てから少々だらけムードだったが、たまに日本に帰って知人たちの活躍を見ると、「いかんな」という焦りがつのる。反省して頑張ります。

 そんな中、往来時のデータ持ち運びに使っていた外付けHDDがぶっ壊れ……突然電源が入らなくなったので、HDD自体じゃなくてケース周りの故障かと思ったのだが、修理に持って行ったら「ケースを換えてもHDD自体に電源が入らない」そうで。基盤損傷ってやつですか。わあ勉強になるなー(棒読み)
 そんなのは序の口で、おおっぴらに書けないようなこともものすごくいろいろ発生し……友人たちから「お前はいろいろ経験できて良いなあ」(笑)とか皮肉られる日々です。

 それはともかく、この本。慰安婦・竹島(独島)・靖国その他、こちらでは絶対的なタブーというか、ある決まった回答以外を考える人がいないし、いたとしてもそういうことを公に発言すると学者生命・政治家生命・ジャーナリスト生命その他がすぐに終わってしまいかねない問題について、勇気ある発言がいろいろ書いてある。
 以前書いたけど、最近は、多くの敵を作ることを承知で「日本の植民地統治をもっと評価すべき」と言う「ニューライト」とかも出てきている(とはいえそれほど感心もできない)のだが、その彼らですら、これらの問題については何も言及していない。たぶん。これらの問題は、日本の天皇制を上回るくらいの、絶対的なタブーだから。

 この本の記述は、日本と韓国それぞれに問題があり、自分の国に都合の良いデータだけを持って来て物語を作っていること、またいずれの国にせよ良心に基づくはずの活動が副作用を伴うこともあることなど、極めて真っ当な指摘となっている。あまりにも真っ当すぎて、ある種の退屈さを覚えるくらいだ。恐ろしいイデオロギー争いの只中にあるこれらの話題において、その退屈さは、貴重である。

 しかし漏れ伝え聞くに、こちらの人文社会系の学界周辺では、彼女も「親日派」のレッテルを貼られて、「まともな議論に値しない論者」として切り捨てられているようだ。本文を見るに、彼女自身、そうならないように細心の注意を払っていたようだけど……。
 これも前に書いたけど、この手の切り捨ては、国内問題でもひどくて、当たり前だけど若い研究者の自由な研究活動とかいう点で言えば、明らかな妨害になっている。

「日本のいわゆる「良心的知識人」と韓国との連帯は、共通の価値をめざしているかのようにみえながら、韓国からの批判が民族(221)主義にもとづく本質主義的なものであり、日本の側はみずからの問題を問おうとする脱民族主義的批判であった点では、アイロニーに満ちた連帯であった」(222)

 という指摘は、日本でももっと省みられて然るべきだと思う。自分たちが味方しようと思ってる連中ないしイデオロギーが、こっちでどういう存在なんだか、やはり考えないと……。と聞いて喜んでるような人々には「お前の同類がこっちにも死ぬほどいるってことなんだよ」と言いたいソウルの深夜。
 情報流入が活発化して、そういうのを知る人が増えてくると、どんどん全否定の方向に流れていってしまうでしょう。もうちょっとバランス感覚を取り戻すためには、何かしら違うことを言わないといけない。その方が、日本ローカルのポリティカル・コレクトネスにこだわり続けるより、よほど生産的だと思うんだけど……。
 

 私個人の感触としては、こうした問題「そのもの」をいくら探求しても、バランス感覚にはつながらないと思う。もともと、日本でも韓国でも、何でこの手の問題に熱狂して、恐ろしくマニアックに情報収集したりする人々がいるのか、それで一体何の充実感が得られるのか、よく理解ができなかったんだけど……韓国に来てから「そのやり方じゃ無理」という感触がさらに強くなりつつある。この論者をめぐる伝聞もその一因。

 本書はものすごくいろいろ書かれていて、日本の動向を批判的に取り上げた部分も多い。どっち側にせよ、味方してると勘違いされたりするのも鬱陶しいので、具体的な内容は書かないことにしようかと。

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2006年7月28日 (金)

東京大学社会科学研究所,2006,『「失われた10年」を超えて[I] 経済危機の教訓』東京大学出版会.

突然ですが、ある案件が良い方向に転がりまして……私に「良い知らせ」が来たのは、ものすごく久々な気がいたします(笑)。

これで、韓国行きが本決まりでして……この9月から来年3月まで、ソウル大学校・社会科学大学・言論情報学科という所に、半年ほど滞在いたします。まあここは(以下略)

ところで……最近、身近に人間関係的なトラブルが多発している。私に原因のある場合もあれば、たぶんそうでない場合もある。
私に言えることは、「私を仲間にしたいならそう言って欲しい、私のことを小馬鹿にしたいなら勝手にそっちでやってて欲しい、いずれにせよ『自分の方が優れている』という下らないプライドをひけらかしながら寄ってくるのはやめて欲しい」ということです。
あくまでも内輪の大学の世界、それも対面的な人間関係の話で、それ以外の方々にはまったく関係ない話ですけれども。はい。

やっぱ、「コミュニティ」ってあんま好きじゃないな……個別の関係で結ばれた、義兄弟・姉妹分たちの方が、私にとっては重要で……相変わらずどうでも良い話ですけれども。

ところで、東大・社会科学研究所(通称「社研」)の最新刊の二巻本が、こちら。
ここは、記述主義的(?)な社会科学としては、おそらく日本最高峰の仕事をしてきた機関で……1991年の「現代日本社会」、および1997年の「20世紀システム」(それぞれ全7巻くらい)は、私も大いに参考にしている所でございます。
でもこのシリーズは、これまでとなんか毛色が違う気がする。その一巻目の本書。全体のモティーフは第一章に要約されている。

◆1章 橘川武郎「経済危機の本質――脆弱な金融システムと頑強な生産システム」15-39

・日本経済の成功を説明しようとした理論モデルは、失敗を説明できていない。経営者企業論(チャンドラー・森川英正)、利害裁定モデル(青木昌彦)、人本主義論(伊丹敬之)会社主議論(馬場宏二)(22-4)
 逆に失敗を説明しようとした議論は、問題解決の道筋を提示できていない

・一貫した説明モデルが必要→金融の失敗、生産はずっと強力だった
・生産システムと金融システムを一括して、80年代まで成功、90年代以後に失敗したとするのは正確でない。
「現実には、生産システムに関しては石油危機~1980年代の局面と1990年代以降の局面を通じて「成功」が継続し、金融システムに関しては石油危機~1980年代と1990年代以降の両局面を通じて一貫して「失敗」が続いたと言うべきである」(35)

※なんとなく分かるような、分からないような……私の勉強不足でちょっと留保。
 私の関心に直接近いのは、同じ著者による第三章。

◆3章 橘川武郎「「産業空洞化」・サービス経済化と中小企業問題」75-102

・1999年12月、改正・中小企業基本法の公布・施行。
 =「二重構造パラダイム」から「産業集積パラダイム」への転換を示した(76)
 中小企業庁『中小企業基本法の改正』(1999)をまとめて:「従来は、経済の二重構造論を背景とした非近代的な中小企業構造を克服するという『格差の是正』が政策目標であり、いわば『脱中小企業論』に立っていたが、これからは、「多様で活力ある中小企業こそが我が国経済の発展と活力の源泉であり、中小企業の自助努力を正面から支援する」ことに重点をおくという、「理念の転換」があった」(76)

・産業集積=「多数の企業の物理的近接」=要するに「集積内分業の効用」と「集積とマーケットとの連関」からなるメカニズム。
・このメカニズムは、自身を維持するための自己保存機能を内包している:1)創業の継続的発生、2)技術蓄積と評判の喚起(経営資源としての「評判」が確定されると、それが技術資源を保持・強化させる力ともなる) (80)
・ところが、失われた10年においては、産業集積地(東京大田区・東大阪市)でこそ製造業事業所数の減少が見られた(81)
・この間にも一貫して100万人を上回る創業希望者が存在し続けた(83)。開業率の低迷はその創業希望が実現しなかったことを意味する(83)。

・開業率低迷と、その背景でもある信用力低下の大きな要因として、「産業空洞化」がある(と論じられている)。しかし日本の産業の技術力の低下、競争力の損失を導くような産業空洞化は、いまだ生じていない。日中貿易では近年一貫して赤字だが、香港貿易では一貫して黒字であり、しかも前者の赤字額を上回っている=合わせて中国・香港とすれば一貫して黒字(86-7)

・地方経済再生のモデル:
-滋賀県の琵琶湖南岸地域を例に【あまり詳しく紹介されていないのでサービスのくだり以後の実情は分からない】:
 「産業集積の活力維持→製造業の健闘→製造業関連のサービスビジネスの拡大→製造業関連サービス業における雇用拡大→商業・飲食店の雇用拡大→県全体での従業者数の増加」(92)
-滋賀県長浜市の事例:
 カネボウ繊維の不振で製造業の低迷が著しい。しかし観光業などが増加、「第3次産業の革新→地域経済の活性化→従業者数の増加」(99)
・両モデルを概括すれば:「中小企業再生→地域経済活性化→雇用確保」、だそうだ(100)

※中小企業振興の失敗の原因は私にもよく整理できないけど……「産業空洞化していない」という言い方に、どういう意味があるのだろうか。(「格差拡大は見かけ上のものである」とかいう言い方もそうなんだけど)要するに「お前らの不安感は、統計により棄却されている。不安感があるとすれば、それは誤った世界認識である」、ひいては「安心しろや」ということなのでしょうか。
 せっかくの実証を、そんな「日常心理批判」に使うより……何が失敗だったのか、なんで想定されていた「産業集積」が生じなかったのか、とかいう制度的なことを振り返る方が、よっぽど生産的だと私は思うのですが……。

※そもそも中小企業振興の時にも、「重厚長大産業から高付加価値産業へ」という文脈の中で、「大企業にはない機動力の高さ」が評価されていた。その中には、「不効率な年功賃金制に縛られず、流動的低賃金雇用を迅速に導入できる」という意味も含まれていた。
 この点が思い起こされないまま、中小企業に雇用改善役割が期待されるのは、ちょっと違うと思う。流動的低賃金雇用が増えていくだけでしょうから……。
 それ以前に……ウェイターとか、みやげ物屋の店員とかがいくら増えた所で、それを「雇用拡大」と呼べるかどうかは微妙だし、「地域経済活性化」になんか、まったくつながらないと思う。最近よくある例だと、このリストに「コールセンターの電話受付員」を付け加えても良い。
 著者は、サービス産業における雇用が大方「袋小路職」でありがちだ、という(私みたいな)意見に対して批判的なようだ。確かにそれだけ言ってても仕方ないんだけど……でもあまりにも楽観的過ぎないか?

※元々、欧米で「雇用確保は地域単位で」とか言われ始めたのは、市場経済化の進行の中で、まさにウェイターとか電話受付とか、将来見通しの立たない雇用が増えてしまい、それが「市場経済化の弊害」の一つとして認識された、その後の話で……
 だからこそ「ただのサービスではなく地域サービス」としての「社会的企業」が希求されていった、みたいな流れなんだと思うのですが。今現在いろいろな「地域」で進行しているのは、単なる「市場経済化」の段階であって、私企業(人材派遣業とかも含む)の勝手になる余地が増えているだけの話であり、「第三の道」のニュアンスの入った「地域の復権」とかの<前段階>のことなのだと思う。
 なのに「第三の道」的な論理が、日本独特の「地方」の論理と組み合わさって、身勝手に密輸入されているのが、薄気味悪いというかなんというか。

※あとは、大沢真理の論文がありまして、「男性稼ぎ主モデル」という持論を展開しておられます。しかし第二巻収録の論文の方が個人的にはピンと来た。という訳で次回また。

◆第6章 大沢真理「逆機能に陥った日本型生活保障システム」175-201 
・「「男性稼ぎ主」型の対応では、若年層と女性の就業機会を狭め、中高年層を労働市場から早期に退出させてまで(「労働削減(labour reduction)」)、壮年男性の雇用を保護しようとし、家族はあいかわらず男性稼ぎ主の収入に依存せざるをえない。その結果、税と社会保険料を負担するベースは狭まり、現役労働者1人あたりの税・社会保険料の負担が高まり、社会保険料の事業主負担を回避しようとする雇用主は、フルタイム労働者の追加的な雇い入れをますます渋ることになる」(186)

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2006年6月24日 (土)

韓東賢,2006,『チマ・チョゴリ制服の民族誌』双風舎.

ありがたいことに、また新しいお仕事がいくつか来た。かなり心配ですが、頑張ります。はい。

ところで、先ごろ出たこの本。著者の韓東賢(ハン・トンヒョン)は、私の姉貴分です。拙著『不安型ナショナリズムの時代』にも、いろいろコメントしてもらいました。なんだかんだ言って結構古い付き合いで、この本の元になった修士論文も、提出当時に読みましたね。

本書は4章構成になっていて、第一章が衣服・ジェンダーを軸にした「在日なるもの」の理論的考察、第二章はチマ・チョゴリを起点に見た「在日慨史」、第三章がチマ・チョゴリ制服に関わってきた人々のインタビュー集、第四章がそのインタビューの考察、となっている。

面白いのは、具体的な事例の記述が続く二章と三章。朝鮮学校の制服とか言う前に、在日というものについてどれだけ文脈情報が共有されているかというと、かなり心許ない現状がある訳で……不可避的にそこが厚くなるんだと思うんですが、多くの事例研究に言えることで、実はこの説明を丁寧にすることが生命線だったりする。

第三章は、文字通りインタビュー・データがそのまま載っているんだが、「在日」「総連」などに対して漠然と嫌悪感のようなものを持っている人こそ、こういうのを読んだ方がいいかもしれない。既存の回路で政治化された在日論には収まらない声が、いろいろ詰まっている。

著者の主な目的も、このインタビューを世に出すことにあったんだろう。学術的考察の第一章と第四章は、著者も「ここは飛ばして読んでも構わない」と言っているけど、サブ的な位置づけなのでしょう。しかし、枠組みが下手にきっちりしていないからこそ、生の事例のデータが活きていると言うこともできる。

生の事例のデータが活きていることが、なぜ貴重なのか。
例えば、現在の日本に生きる日本人男性の私の「生きにくさ」みたいなものについて考える時、その「生きにくさ」を先んじて経験してきた(と自負しておられるのだし私もそう思う)人々の手による、「フェミニズム」や「在日論」がある。
私が声を大にして言いたいのは、なのになぜ、「既存のフェミニズムや在日論には、私の参考になる点がほぼ皆無」なのかということです。
正直言って、被害者意識みたいのを根底に持つ語りには、常に限界があって、「被害者の自分から見えることを、どうやって一般化して、マジョリティにも関係のあることとして語れるか」が重要なのだと思う。今一部で非常に流行っている「反・若者バッシング」みたいの(私もその一員に数えられることもある訳ですが)も、そこに気を付けないと、余り意味のある議論は生まれないでしょう。

いろいろある自分の立場から「見えるもの」を「変数」として取り出すことを怠り、「男社会」とか「日本社会」とかいうマジックワードに逃げる議論には、個人的にまったく興味がない。
この本は、既存の枠組みに乗っていないので、マジックワードに逃げない。そこに乗る以外に語りようがなさそうな対象を取り上げて、何とか違う語り方を探そう、という意志に、私は強く共感する。
だけど、何か違う「変数」をはっきり取り出しているとは言えないと思う。その作業は、事例の紹介を通して、読み手の側に委ねられている。そういう意味で、「ナショナリティ」「衣服」「在日」などといった領域に関心のある方には、ぜひお勧めしたい一冊です。姉貴、これからも一緒に頑張りましょう……ってシメが私信ですみませんけども。

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2006年6月16日 (金)

崔章集,1999,『韓国現代政治の条件』法政大学出版局.

 ご無沙汰になってしまいました。この間にも、ものすごくいろいろありまして……。 
 また、内輪の連絡事項がございます。
1)ソウル方面の許可が、正式におりました。
2)ディスプレイが直りました。お騒がせしました。

 ところでこの著者は、韓国で非常に著名な政治学者。金大中前大統領のブレーンでもあったようだ。韓国の、一種独特なマルクス主義みたいのをものすごく良く体現していると思う。
 盧武鉉現政権を生み出し、その後評価の風向きがだいぶ変わっている、韓国の「運動」系政治学の概論として私は読みました。80年代くらいからこっちのものを集めた、論文集です。

 こういうのを「(左翼)運動だからダメ」とか「(左翼)運動だから良い」とか、「日本とは違うなあ」とか言うのは簡単なんだが、私は日本の事例ともまったく無関係ではないと思う。他のいろいろな論点でも思うことですが、韓国では確かに「こういうの言われ過ぎ」な感があるけど、日本では「こういうの言われなさ過ぎ」でしょう。いつもながら適当ですみませんけども(笑)
 主な話題は、韓国における「民主化」は、とりあえず達成(盧泰愚文民政権の誕生)されたけど、実はまだ未完なんじゃないか、ということ。その評価で重要なのは、1)中間層、2)開発主義。

◆第一章 過大成長国家の形成と政治的亀裂の展開(1985)
*民主化運動の長かった韓国では、中間層が(最初学生、後期には労働者)の「運動」に共鳴するものなのかどうか、が結構重要な論争点になってきた。
 この著者は、中間層は民主化の「形式的側面」には親和的だが、「実質的側面」(より平等な分配政策など)には無関心であり、ある段階以後には保守派と親和性が高くなってしまう、とする論調の代表者。

・日帝下の地主階級には、政治的正統性がなかった。民族資本の形成も進んでいなかった。
 →よって解放後には、経済的・政治的空白状態が生じ、社会全体が爆発的に政治化されることとなった(6-7)
・朴正熙暗殺から戒厳令布告までの混乱=60年の4.19革命(軍部の介入によって挫折)と異なり、運動の内部の問題によって挫折。「民主化に対する学生の熱望がソウルの中心的な社会階層であるプチ・ブルジョアジーと新中産層の呼応を得ることができなかったというところに見いだしうる」(21)
・ソウルの中産層は、民主を放棄し成長を選択した。朴政府の政策の恩恵者たちだったから。
 「もし彼らが政治過程に直接参加しなくとも、一政権が相対的に高い教育水準を背景とした彼らの社会的・職業的地位を維持してくれ、相対的に高い所得水準を保障してくれるならば、民主主義を通しての政治参加は高い代価を払ってまで手に入れようと努力する必要がないのかもしれない。彼らには政治体制の形態が問題ではなく、彼らの既得権が喪失されない政治的条件を維持してくれる体制がより重要なのであった」(24)
 そこに分断状況という変数が関わってくる:「反共と安保理念は、社会の特殊利益から発生するあらゆる葛藤をひとまず、または限定なしに留保させ、北の脅威に共同で対処すべき総和体制を構築する接着剤の役割をはたす」(25)。

◆第五章 支配イデオロギーの構造・機能・変化――1987年の「民主的開放」以降を中心に(初出表記なし)(116-158)
*この章では、南北分断状況を前提に成立する、反共/容共というのが、一種の擬似問題として保守/革新の論争点になってきたと指摘される。(まあそれが上から押し付けられたとかいうのは、日本の社会学から見るといろいろ言われそうだけども)
 そして、盧泰愚政権の誕生により形式的には実現された民主化が、実は全然不十分だとする。

・「わが国の支配ブロックは不幸にも、広範かつ激烈な下からの民主化要求にたいして、上からの自己改革の方法を選択するよりも、旧来の支配イデオロギーとしての反共イデオロギーを、変化した政治社会的条件において形を変えて強化する方法を通して旧支配構造を温存させようとした。そしてそのメルクマールがまさに保革対立構図というイデオロギー的地形の形成であるといえよう。保革対立は支配ブロックが軍部権威主義に反対する民主化勢力と、「現状維持の権威主義の温存か、改革的民主化か」という問題をめぐり対立するようになるとき、既得勢力が民主化の力に抵抗することが困難なため、独裁-民主の対立構図を保守-革新の対立、その意味内容において、反共か容共かという旧体制のイデオロギー的抑圧体系をそのまま再現することを本質としているからである」(119)

・盧泰愚の第六共和国=「自由化された軍部独裁」=「民主-権威主義の対立がすべて解消されたかのように、民主化の達成を力説しながら、依然、現実化もされず、現実化されるのも前途遼遠であるにもかかわらず、民衆変革勢力の政治勢力化とすべての力量が制度化された政治権力と対称的なまでに大きいと過大評価しながら、ありもしない制度化された政治空間におけるイデオロギー的対立を前面に持ち出し強調していた」(120)

*なぜ不十分なのか。それは要するに開発独裁下で蓄積された「既得権益」が、まだ確固として、誰の目にも見える形で残存しているからである。それは、政治と経済の両面に現れれる。
 政治の面では、代議制民主主義の機能不全:

・反共主義は自由民主主義の護持をその存在理由としている。しかし実際には民間または軍部の独裁体制でしかなかった。民主主義は修辞に過ぎないものだった(123)
・支配ブロック・保守派が考える民主主義=1)「反共主義を理念とする政治体制」、2)「私的所有関係と資本主義市場経済を有する体系」、3)代議制民主主義の政治的規則(127)
 しかし現実の「ブルジョア民主主義」は、特に3について、大統領と国会議員の選出のみに限定されており、その他の国家機構の公職=官僚は民主的選出の原理が適応されていない。地方対立が激化したのも6月抗争以後のことで、新旧体制の代表者構成は同質的だった(127)

*経済の面では、独占資本(要するに財閥)の残存:

・国家独占資本主義は民主的発展にとって害悪であるが、西欧ではそれに多元主義的民主主義体制が批判的理論として定立してきた(140)。また個別独占資本が巨大でも、選挙権を持つ市民社会が巨大であり、多数の独占資本が組織化されて始めて、代議制民主主義に影響を及ぼす。
 これに対し「わが韓国社会は、国家独占資本主義と極度の政治的権威主義という条件、すなわちすでに後退した出発点から民主化を模索しなければならない」(142)。
 「わが国では、わずか数社だけでも国民総生産(GNP)の半分を占めるほど極端な独占的地位を有する財閥企業と、その上に君臨する強力な権威主義的国家権力とが結合している。【中略】このような体制のもとでの私的利益政府は、単一の巨大企業の閉鎖的構造となり、特殊利益が公的利益自体を圧倒する威力を意味するものとなる。国家の経済成長が事実上、ごく少数の巨大企業によって主導される私的利益の集積と同じ意味を持つようになるとき、そして国家の経済政策が基本的にこのような巨大企業中心の私的蓄積を推進する方向で作用するとき、それは公的利益の私的利益への従属であり、【中略】このようなとき、国家とは、集中的に独占資本の利益を代弁し貫徹させる公的支配機構であるという表現が可能になるのである」(142)
 「国家独占資本主義は、一つの政治イデオロギーとしての発展主義イデオロギーによって正当化される」(143)

*もう一度言うけど、確かに韓国では「こういうこと言われ過ぎ」だが、日本では「こういうこと言われなさ過ぎ」でしょう。もちろん具体的な文脈の違いも大きいのは分かっていますが……。
 右から左までいろいろな人が言ってるし、草の根の不満の種にもなってる「大企業の正社員の特権化」とかいうのは、こういう話とそれなりに連続的ではないか。いろいろな仕事をしている人と会って話を聞いてても、言語化すれば上に近くなるような不満の念を抱いている人は、少なくないと思うんですけどね。別にそれを運動論で表現する必要はない訳ですが。

*韓国の民族主義(ひいてはナショナリズムの一側面)も、こういう話と連続的であり、その文脈に置かないとあんまり理解できない。より詳しい試論は『不安型ナショナリズムの時代』参照。

・「既存の社会秩序と冷戦反共イデオロギーをそのまま堅持する統一政策」=「国家主義的統一政策」と、「下からの民衆的エネルギーから発生する」「民族的統一運動」とがある(149-50)。
 「民族民主運動」は、反米民族自主化をその核心とする。「民族民主運動によって主導される民主化運動と統一運動が反米自主化運動と並行して展開されているのは、この二つの運動領域が闘争対象としている権威主義-独占資本の支配構造のイデオロギー的バロメーターである冷戦反共主義がアメリカによって維持され、再生産されているという認識、それゆえこのような支配的体制を否定し、克服する問題は、他ならぬアメリカの帝国主義的役割を拒否することであるという認識のためであったということができる」(150)

◆第六章 軍部権威主義的体制の内部矛盾と変化のダイナミックス1972-1986 159-217(1986)
*この章では、明確な開発独裁であったパク・チョンヒ政権期と異なり、チョン・ドファン政権期には経営者層と官僚との利害が齟齬をきたすようになっていたと指摘される。それが「形式的民主化」の達成に向けた運動に中産層が参加した背景にあったと。
 現代グループ創始者・鄭周永の、この時期の発言……「政府のいかなる施策も自由企業人の創意・努力を阻害することは慎まねばならない」(200)が、象徴的に引用される。

・朴政権期のいろいろのまとめ:
-朴政権期の大衆的スローガン:「歴史的使命感を持ち、近代化の効率的な達成を通して、民族中興は可能になるだろう」(165)。
-「総和団結」、経済的動員体制と政治の無力化。年平均10.3%のGNP成長率(165)
-大規模投資の背景には、73以後に大量流入した海外資本がある。そのうち90%以上が海外共同借款・商業借款(165)
-73年から、低賃金の労働集約的な消費財軽工業から、重化学工業に輸出部門の発展をシフト。増税と、外債を土台とする海外資金(165)。同時に防衛産業の成長も意味していた
-国防力増強5ヵ年計画:「国際独占部門と強固に統合された防衛産業の発展は工業生産部門と国民福祉のために投資されなければならない資本を、費用が多くかかる非生産的な部門にまわすことによって、国民経済にさらなる負担を負わせた」(166)。
 また、海外借款の配分(金融投資と銀行貸付)、また国家統制下におかれた国内銀行投資により、排他的に大資本家を支援→部門・階級・地域間の両極分化が進む。
 農村から都市に人口が流入し、大部分は産業労働者と都市貧民を形成していった(167)

・全政権期:国家エリートと上層ブルジョアジーが決裂。
-「強力な国家支援によって形成され、経済的に急激に成長した産業ブルジョアジー――今は政治的にはまだ弱くても――が彼ら自身の利益を国家の持続的な規制と監督によってではなく、国家と私的領域のよりはっきりした分離、すなわち経済的合理性を拡大することによって獲得できると認識するに至ったという点にあらわれている。労働にたいする統制の領域を除き、経済にたいする国家の介入がもはや過去のように企業利潤にプラスにならないという考えが生じた」(199)
-また、退役軍将校を国営企業・私企業・公務員に特別採用させたことも、軋轢を深めた(200-1)
 ⇒「中産層の反乱」へ

*こうして、学生や労働者だけでなく、経営者層や中間層の利害をも巻き込んで「形式的な民主化」が達成された。しかしその後は、「発展主義」(私は「開発主義」という言葉の方が好きなんだけど)による成長・分配の歪みこそが運動の焦点になると。

◆第七章 民主化の二つの概念――手続き的民主主義と実質的民主主義 218-235(1987)
・「手続き的民主主義」=市民の政治参加の制度的脇枠組みの整備=6.29宣言まで希求されていたもの、実現したものはこれ(219)
・しかし経済成長の確信から疎外されてきた都市労働者・都市貧民・下級中間層・農民層などの「民衆勢力」の利害は反映されたとは言えない:
 「国家独占資本主義の資本蓄積機構に基盤を置きつつ、成長第一主義の理念的支柱である発展主義と、所得と富の公正な社会的分配を強調する経済的民主主義との対立関係」が顕在化
 →「実質的民主化」が希求されるようになった(220)
 「このような意味からするならば、6・29宣言はただ形式的で手続き的なレベルでの民主化に向けた一つの重要な突破口を準備したものであり、同時にそれはその内容的・実質的民主化の方向について沈黙、または隠蔽していることがわかる」(220)
・中産層は、前者を支持するが、後者には消極的あるいは否定的。保守派は、下からの民主化要求を、国家安保の危機や経済破綻を招くものとし、この層の右傾化を図ってきた云々(227)

*個人的には、こういうのを読んで「韓国政治はすごい」とか、「やっぱ運動だよ」とか、あるいは「やっぱ韓国左翼はうざい」とか言うのではなく、「開発主義」という概念をテコにメタ化していけないかなあと思っているのですが、ダメでしょうか(?)。その論文も、書くならそろそろ時間が迫ってるんだけど……。

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2006年5月29日 (月)

コイル,ダイアン,室田泰弘,矢野裕子,伊藤恵子訳,2001(=1997),『脱物質化社会』東洋経済新報社.

 週末だらだらしたら、だいぶ回復した。ふう。
 どうでもいい話だが、私は身近に人望がまったくない。たまに用があって出身大学院などに立ち寄っても、ただの一人も話しかけてくれない。ほとんど不審者扱いである(笑)。
 最近よく出入りしているのは、出身とは違う研究室。そこに「マサヒロ」という、私を先輩っぽく慕って、いろいろ手伝ったりしてくれる、ほぼ唯一の弟分がいる。
 先週はやたらと疲れ気味だったので、彼にものすごい勢いで八つ当たりしていた。すまんマサヒロ。しかし来週以後もなんかいろいろある。また八つ当たりすることもあると思うんだが(笑)、おごるから許せ。

 それはさておき、この本。この間書いたような、「流動性の偏り」にまつわる「最近の若者が感じがちな不満」と、かなりシンクロする本だと思う。というか、今の日本でよく似た議論を聞く機会が非常に多い。私を含めて(笑)。この本は拙著の脱稿後に読んだんですけども。
 これが1997年に書かれた本で、今現在の日本で同じようなことが論じられている意味とは、何か。そんなことを考える時に有用な本、だと思う。

*「脱物質社会」=「重量なき世界weight-less world」というタイトルのコンセプトは、要するに製品小型化・知識集約・情報産業化などを示したもので、それほど大きな意味はない。
 でも、その帰結をいろいろ論じていて:

・ウェイト-レス化の帰結:
-技術進歩による産業再編→失業・不平等。衰退産業に失業者が増大する反面、先進産業に新規の職が生まれる訳でもない。
-福祉国家の危機
-資本の自由な移動
 これらは、無力感・不安・ポピュリズムへとつながる。

・その対策として挙げられるのが:
1)「教育内容の改善と教育を受ける機会の均等化」(xviii)
 「ウェイト-レス時代の根源的な資源は、人々の創造性と知性である」からこそ、教育機会の平等が重要だと。
2)「創造性や熱意を呼びさますこと」=「文化的変革」
 「政府は、経済分野で人的資源を開発するだけでなく、人々がより柔軟な対応ができるよう、法律や税制の柔軟性を高めなかればならない。たとえば、終身雇用が望めなくなり、職を渡り歩いたり、失業したり、自営業に転じたり、はては外国に移住せざるをえなくなると分かっているのなら、税当局は、それによって不利な扱いを受ける人が出ないようにすべきである。また地位や場所が変わっても年金や社会保障の受給資格が不利にならない仕組みが必要である」(xix)

・こういうことの対策として、「かつての製造業」モデルを持ち出す形の議論に対して……
 「彼らがひどく嫌う、法律・金融サービス・コンサルティングは、現代脱工業社会の一大成長部門である。こうした職業の人気がこれほど高いのに、社会的に有用ではないと見るのはなぜなのか、理解に苦しむ。要するに彼らは、働き手は皆、工場でモノを作るべきであるとか看護婦や教員になるべきだ、という古臭い考えを持っている。これは単なるロマンティシズムにすぎない」(158)
 ……と手厳しい。

*不毛な議論が続く背景には、「左右対立」の両極分解があると。
・「現代の政治哲学には、経済的進歩を嫌う潮流がある。(xxix)【中略】こうした反進歩主義は、単純思考の経済的エリートによって武器を与えられた。少し極端な言い方をすれば、テクノクラート的考え方には二つの選択肢しかない。一つは極端な市場自由主義のリベラリズムであり、変化を肯定する。もう一つは愚かな時代遅れのコーポラティズムで、変化に抵抗する。この二文法によって伝統的な右翼と左翼の区別がなくなってしまった。だから一方では極端な環境保護主義者が妄想狂の極右私兵組織と手を組み、他方では中道左派がむき出しの資本主義を受け入れるといったことが生じる」
 →「ラディカルな中道の確立の道」が必要。経済的進歩・より多くの人の生活水準保障の両立(xxx)

*で、「ラディカルな中道」の担い手になれるかもしれないのが、公でも民でもない「第三の領域」と呼ばれるもので、総じて「コミュニティ」に関わるものであると。
・小型化・新素材・ファッション化などで物的財は軽量化。またサービス部門の比重が高まっている。ということで成長の可能性がある分野は:
1)「コミュニティ・社会・個人サービス」(理容・清掃・子守り・教職・看護・政府サービスなど)
2)「高付加価値サービス分野」(通貨取引・金融派生商品(デリバティブ)の考案・ソフト開発・遺伝子研究・衛星テレビ用プログラムの作成など)(3)

・その中で、先進国での雇用の伸び、とくに低熟練労働のそれが期待できるのは「コミュニティ・社会・個人サービス」部門である。対個人サービスと、「第三の領域【サード・セクター】」あるいは「社会的経済」と呼ばれるものの二種。
・「第三の領域」=多様な活動の集合体=「慈善活動、労働組合からシンクタンク、ロビー団体にいたるボランタリー団体、政府部門と部分的に重なり合う独立公共機関を含む非政府組織、非営利企業、教会、学校、住宅協会、美術館、共済組合や協同組合」など(88)
・「これらに共通するのは、利潤最大化を目的とせず、サービス自体の提供を目的とする人間集約的なサービスである、という点である」(88)。
・英仏の事例を引きつつ、「官僚が考案するのではなく失業者自身が発案し動機付けする」のが効果的であると(91)
・ちなみに、「社会的経済」というのは、「これまで「世界的反体制運動」とし描かれてきたものの経済的表現」であり、それが職の創出という経済的課題に関わって、転換してきたものとされる(101)

*このような施策を実現するためには、大きな政府(福祉国家)/小さな政府(夜警国家)という二元論ではなく、「教師国家【ティーチャー・ステート】」とでも呼ぶべき第三項を構想する必要がある、という。

・「税金と規制をどのような形にすれば、人々に柔軟性と機会を与えることができるのだろうか。【中略】福祉国家【ナニー・ステート】は被保護者に対し判断を下し、彼らが何をすべきかを命令する。教師国家【ティーチャー・ステート】は生徒に自分で考えさせる。そこでは、国家は安定的な枠組みを提供し、その枠組みのなかで人々が自分の判断と決定に責任を持てるようにするのである」(292)

*……私は、見ようによっては、これに近い事態が、すでに日本でも進行中だと思っている。
 だけど、たとえば、「団塊の世代を取り込むマーケティング」とかいう話の中で提唱されがちな「趣味的コミュニティ」とか、「セイブ・ザ・何とか」とか言われる時の「コミュニティ」とかは、「国家が安定的な枠組みを提供し、その枠組みのなかで人々が自分の判断と決定に責任を持てるようにする」構図の形成に、有用だろうか。
 あるいは、「コミュニティ・社会・個人サービス」による低賃金労働の創出は、「ケアワーカー育成」とかいう形で、部分的にはすでに実施されている。この動きは、上の意味でいう「第三の領域」の創出につながっているのだろうか。そんなことを考えないといけないんじゃないかと思っている、今日この頃。

*ところで最後に……以下のような記述も、我々の実感と非常に近いものがあるんじゃないだろうか。
 いつもながらオチのないエントリで恐縮ですけども。はい。

・「ウェイト-レス化の進展によって生じるリスクの程度は多様で、個人ごとに対応能力も異なる。筆者もその一人だが、高度の教育を受け、エコノミスト兼ジャーナリストとして高級を取り、ある程度の企業家精神を持つ人間にとって、英国労働市場に最近もたらされたフレキシビリティはすばらしい機会を提供する。【中略】しかし、資質や家庭的支援や十分な蓄えのない人にとって、フレキシビリティは結局、悪辣な、あるいはみずからも経済的に厳しい立場にある雇用主による搾取をもたらすだけだ。こうした人々は、世紀末資本主義の特徴であるいまわしい社会的ダーウィン主義の犠牲者である。
 筆者自身、ウェイト-レス世界ではフレキシビリティが必要不可欠だという確信と、それがもたらす不平等と不幸への嫌悪の間で揺れている。中道左派を自認する多くの人々が、同様なジレンマに悩(125)んでいるのではないだろうか」(126)

・「フレキシビリティは不可避であり、むしろその便益を受け入れるべきである。市場反対論は「自由市場経済学が政治的ハイジャックにあったことを批判すべきなのに、競争や規制緩和自体を批判している」(137)
(ちなみに、この意味での失敗の典型例として、日本が挙げられている)

・「グローバル市場に抵抗する」と言うカルスタ的?議論に対し:
 「しかし抵抗するには遅すぎる。それに、抵抗は特定集団の特権を他の集団の犠牲によって擁護することにほかならない。つまり、雇用形態が固まっていない若者や女性を犠牲にして、既存産業でフルタ(197)イムの仕事を持つ中年男性の擁護し、移民を犠牲にして定住者を擁護し、第三世界を犠牲にして先進国を擁護することになる」。
 「同質で固定的な人口に対する福祉の増進」という、工業化された国民国家の目的に執着することにより「左翼は保護主義と移民規制の支持に回る」(198)

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2006年4月25日 (火)

続・松原隆一郎 『分断される経済』

最近妙に疲れやすい。確かに多少は忙しいが、そこまで言うほどでもないんだけどな……なんでだろう。
長い間溜め込んでいたものを、単著の形で一気に吐き出して、それに対していろいろリアクションを頂いたりして、多少参り気味っぽい気もする今日この頃。でもリアクション頂けるのはありがたいことです。何かあったらコメントでもメールでも下さい。どうぞよろしくです。

ところで……妙に間が空いてしまったけど、前回の続き。
この後は、割と各論っぽい論点が多い。そして非常に共感できる。なのになぜ、前回書いたような違和感が残るのか。次書く論文では、そんなことが表現できていると、いいなあ(なかば運任せ)。

*まずは都市再開発について。

・「都市再生」論は、塩漬けで廃れた土地ではなく、すでに人気のある土地を狙い打ちにしている(148)。都心から地方に人口が去ったから成長率が下がった、などと論じられている

*「入れ替え可能性」に対して、「場所のアウラ」のようなものを復権させようという試みはいろいろ行われているけど、「都心回帰」とかいうのはそういうのと別個のメカニズムで動いているもので、前者が後者に追随するだけだったら、別にわざわざ地方自治体とかが出てくる必要はないですよね。確かに。
でもなぜわざわざテコ入れが行われるかというと、以下のような事情が考えられると。

・「建造物の寿命の作為をも感じさせる短さと業界の建て替え体質とが、戦後日本の建築物の特徴だ」(157)。
 長期雇用制度を前提とした住宅ローンを組んだ人から、自己破産者が続出している。また阪神淡路大震災では、二重ローン問題が深刻に。「あの手この手で国民に借金させて家を買わせ、倒壊すれば自己責任と言って放り出す」(155)
 背景には政財官の癒着があり、構造改革はそれを再結合させている(155-6)。

*少し話がズレますが、個人的には、そもそも人々の側の「持ち家志向」というのがあまり理解できないし、なんで郊外に住宅地を作りたかったのかもよく分からない。バブルの地価高騰で郊外に弾き飛ばされていった、というだけなんだろうか。大正期の沿線開発の話とかはよくある訳ですが……たぶん80年代初頭に生じた一大転機について、当事者の(要は団塊世代の)発言というのは、恐ろしく少ない。なんで?

*ちょいと飛びまして……次に規制緩和の話。

・93年の宮沢・クリントン首脳会談に始まり、「日米投資イシニアティブ」→97年の独禁法、商法・証券取引法改正→98年のビッグバン→99年の株式交換・株式移転制度導入→01年の会社分割制度創設・金庫株制度導入などにいたる、外資による日本企業買収促進(185-6)。
・日本が自主的に規制緩和したものだが、政府が国民に周知徹底しなかったため、ライブドアが生まれても当然だった(187)

*たぶん今、中国が一番注目している「失敗例としての日本」ってこの辺りにあるんでしょうが……私が勉強不足なので、また追い追いに。

*続いて成果主義の話。

・「成果主義が【社内外の】風通しの良さではなく上司の裁量と結びつくと、逆に組織の閉鎖性を高めてしまう」。
・例がJR西日本の尼崎脱線事故:JRで唯一成果主義を導入しており、上司の宴会の誘いを断れなかったのかも(204-5)

*前回の繰り返しになりますが、こういう組織内に閉じた成果主義は、悪弊ばっかりで、ちっとも成果主義ではなく、<だからこそ外部労働市場がなるべく公平な形で形成されるように>と考えるのが普通だと思うんですよね……。なのになぜ「かつての終身雇用のもとでの予測可能性」の方が「マシ」なのか。それが分からない。

*そして結びとしては、「社会資本」の話になります。

・戦後日本は不確実性の縮減と「信頼」の醸成を中心課題としてきた。90年代にそれがうまくいかなくなったが、代わりに登場した構造改革は、信頼の再構築ではなく無視だった(240)。
・「経済は、非経済的な部分と表裏一体となっているのであり、純粋な市場化はそもそも不可能なのである」。その中での市場化の貫徹は秩序の崩壊を招く。終身雇用制の解体の後、コミュニケーションの場がないままで、不安や自殺率の高まりが生じている(242)
・「社会資本」は、一旦会社に吸収された。でも「会社という共同体に戻れない人は、自分の能力を評価してくれるなんらかのネットワー(242)クに身を置かなくてはやりきれない」(243)。→スポーツクラブ振興、暗渠河川の復活、地方の商店街など

*私も参加している某先生のプロジェクトの次のテーマが「コミュニティ」だけど……詳しくは追い追いにするけど、要は「不確実性をなくす素晴らしいコミュニティ」と長らく信じられていたものが、まったくそんなもんではなかったことが明らかになった。というか、実はその中で「コミュニティ」が根こそぎ消滅していたのが明らかになった。その間、他の先進国では「社会関係資本」とかが論じられていたにも関わらず……。
 「で、やっぱコミュニティ」となった時に、一体どうすれば良いのか。そこで古臭い「大平総理の政策研究会」とかが呼び起こされるのは、ちょっとナシなんじゃないかと思う。かといっていきなり「ストリート」とか「趣味空間」とか言い出すのも明らかにおかしいし……というような所に考えどころがあるんじゃないかと。
 「地縁・血縁」とか、そのスジでいろいろ再考されるべきでしょうが……これがまた、韓国の保守派から「地縁・血縁があるのは韓国の近代化が素晴らしかった証拠だ」とか言われると、それもちょっと違う気がするし……。
 あと、中国のマンション建設ラッシュの時に、一番論じられていたのが正に「コミュニティ・メイキング」で、社会学の主なニーズもそこにあったくらいだそうだけど、それがうまくいったかどうかは結構先にならないと分からん気もするし……。

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 ところで蛇足だが、いろいろな所で、微細な話題を巡って妙な「党派」が結成され、両極端に分かれた陣営の間に、下らないケチの付け合いが繰り広げられていく……という風景が見られる気がする。特にオンラインで。そういうのに充実感を覚える心性は、私にはよく理解できない。
 
 私はこの本と、いろいろな価値観を共有していない気がするけど、「だからこそ読んだ時に自分の理屈をこねる必要性を感じさせられる」というのは、私の価値観で言えば「めちゃくちゃ面白い本」ということになる。
 今回の例で言えば、「昔の終身雇用を誉めているからダメ」とかいう評価は、批判として下の下であり、そういう人は「昔の終身雇用はダメだった」という一行を、一生ブツブツ唱え続けるだけで終わっていくだろう。これに限った話じゃないけど。
 私は別に、一行でまとめられるお題目のもとに、ケチな徒党を組みたくて色々考えたりしている訳じゃありませんし……いろいろあって多少取り乱しましたが(笑)、とにかく、この本は「必読」です。はい。

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2006年4月13日 (木)

松原隆一郎,2005,『分断される経済』日本放送出版協会.

先日、とある会合にお呼ばれしました。その時、またもや酔って、うつらうつらとかしてしまいました。薄暗い店だといけないみたいだ……気をつけよう。もしご覧でしたら……すみません。でも楽しかったので、またぜひご一緒させてください~。

時に、某KSJ御大が出演していたNHK-BSの番組を、見逃してしまいました。どなたか録画した方がいらっしゃいましたら、ぜひご一報くださいませんか。よろしくお願いします。

ところで、某所での同僚にもお弟子さんがいる、松原隆一郎氏の最近著。……実は、先月末の毎日新聞で、中央公論に発表した論文を取り上げて頂きました。
彼の関心は、私や同世代の同僚たちとすごく近い。だがこの本をめぐっては、私の周辺でも議論の分かれている点がいくつかある。これは議論が分かれているのか、それとも結局は同じことを言っているのか、自分でもよく分からない。いろんな対立軸を整理していく、というのが大事な作業だと個人的に思うので、いつもながら完全に自分用のメモを書いておくことにする。

*「構造改革批判」というのが、最も基本的な主旨となっている。構造改革が「分断」をもたらしていると。

・小泉改革において、「公」が「小さな政府」という理屈で仕事を放棄している。必要な「公」は創出するべき(14)
・「リストラが一巡し、収益を回復した大企業の従業員などはみずからを「勝ち組」とみなすにいたった。二極化は、期待ではなく実態にも及んだのだ。ここの人々にとって将来に向けての最大の不確実性が、終身雇用制の崩壊がもたらした「リストラされるか否か」にとどまらず、この断層線のどちら側に属するかになりつつある」(13)

*ここで「トリクル・ダウン」という言葉が出てくる。よく言う「格差拡大」とか「行政のスリム化」とかが問題なんじゃなくて、何かしらのルートで「上」から「下」に利益が降りていく構図が必要なのだと。
「構造改革」が持つ真の問題は、この「トリクル・ダウン」の回路を断ち切り、何も降りてこない「下」を「分断」してしまったことだ、と。

・二極化が正当化され得るのは、優位→劣位に利益が及ぶ「トリクル・ダウン」が機能するか否かによる(13)。「公」の極端な削除は、政治がその構築を放棄すること(14)
・「大きな政府」であること自体に善悪はなく、トリクル・ダウンの有無が問題(43)。

*そして「トリクル・ダウン」が機能していた「構造改革前」のことが概観してあるのだが……前回の「大平総理」の中で書いたけど、この「かつての日本」の論理は「中心を保護するため、周辺をバッファにする」というのを主眼にしていたのであって、それを「上から下に利益を降ろしていった」ものと評価して良いものなのかどうか、というのが、個人的には多少疑問に思う。
 たぶん「実証的」に言えば「どちらの側面もあった」ということで、後は価値判断の違い、としか言いようがなくなるような気がするけど……

・下請け構造などの撤廃はトリクル・ダウン構造の破壊であった。
 「問題は、株主と従業員、大企業と中小企業、都市と地方、正社員と非正社員の間で、関係がなだらかに続いているか否かだろう。もし「格差」と呼べるものが大きくなく従来通りに前者と後者が結びついているのであれば、景気回復の第一段階では大企業や都市・正社員だけが恩恵を受けるのだとしても、次第にその影響は中小企業や地方、非正社員に波及していくはずだ。それが「トリクル・ダウン」現象である。【中略】
だが、中国などとの経済関係の濃密化すなわちグローバリゼーションによって、企業間の取引とりわけ大企業が行う対企業取引は、地方や中小企業よりも海外に向けられている。中小企業や地方経済は、大企業や都市の下請け的な立場や長期的な取引を行うという慣行を維持できておらず、それゆえ大企業で輸出が増えても効果は波及していない。そのうえ、公共投資は減っている」(35) 
・「構造改革は、理想としては「機会の均等」と「トリクル・ダウン」によって万人に好景気の恩恵を施すかのように唱えている。けれども現実には、景気回復は大企業や都会、正社員に都合よく果実をもたらし、それは中小企業や地方、非正社員の全域には及びそうもない。経済は、「分断」されたのである」(36)

*たぶん松原氏は、理念としての「構造改革」というより、その現段階での実行のされ方と、現実的な結果への批判に主眼を置いているのだと思う。その意味では納得できるし、私などの実感とも非常に近い。
 だけれども、その時に「それ以前」を批判の土台に置いて、「その崩壊こそが悪だ」という論理にすると、「それ以前」にもいろいろあった問題が全部覆い隠されてしまうような気がする。
 私は、現在の「分断」の萌芽は、みんなが浮かれていた「それ以前」の状況に内在してあったのであり、「市場主義」とかいうのが外からやってきて「分断」を形成しつつある訳ではないと思っている。
 というか、そういう風に書かないと、今の日本ではすぐ「昔の方が良かった」とか「昔ながらの正社員システムがあれば良いんだ」とかいう風に、「誤読」されてしまうような気がするのです……。私が学生とかとばっかり会ってるからかもしれないですが。

*だから、たとえば……今、地方の都市とかに、かつて「トリクル・ダウンを受け取っていれば大丈夫」だった企業がいっぱいあり、それが大丈夫じゃなくなって、中国とかにどんどん奪われていると。
 その上でいろいろ対策が取られているようだけども、たとえば(同僚のAM君がよく言っているように)「大手メーカーのコールセンターを誘致しよう」とかいう形で、実質的にはただの使い捨て労働力を地元で量産しているだけなのに、「トリクル・ダウンを取り戻せた気になってしまう」ような心性の方が、個人的にはよほど気持ちが悪い。
 また別の例を出せば、東京を経由しないでアジアにつながる回路を探す動きの、かなりの部分が「アジア交流」とかいう話になって、「文化」でいろいろやろうとして、全然うまくいってない(ように見える)のはなぜか。私の価値観で言えば、そういう時に「文化」が出てくると大抵、というか当然、ダメになると思うけど……。
 要するに、まさに松原氏が書いているような背景事情が熟慮されないままに、「よく分からない擬似解決策」ばっかり動きがちなのはなぜだろうか。よく考えれば、別のやり方がいくらでもあるんじゃないか。そしてその別のやり方を思いついている人がたぶん既にいっぱいいるとすれば、その実現を阻害しているものは何なのか。……とかいうことを考える方が、「東京の構造改革」を批判するより先なんじゃないか、という疑念が拭えないのである。

*別に地方の話だけじゃなくて、同じことは正社員とそれ以外の差とかにも言えることで……。今の話の延長上で、行政が「若者自立塾」とか作って「何かした気になっている」のはたぶん逆効果しか生まないと私は思うし、「そういう公的支援がもっと欲しい」と思っている当事者がいればその人は間違っていると思う。立岩真也氏が主眼に置く障害者とかは別なのかもしれないけども……。
 なのでたとえば以下のような事実認識は(私が詳しく知らないこともいっぱいあるけど)実感として私も納得できることばかり。

・貯蓄率の低下=高齢化が原因などと言われるが、勤務先企業の規模の差が大きく影響している。高額消費や住宅を購入しているのは大企業の従業員で、それ以下の企業の従業員は消費を減らしてもまだ家計予算が不足している(40)
・97~03の急激な構造改革は、深刻な不況をもたらした。97の消費税率引き上げ・社会保険の負担増→消費意欲の減退・金融危機(62)。つまり「不確実性の増大」が、消費や投資の減退をもたらした。終身雇用の時は、将来の予測可能性があったにも関わらず、それが失われたから(62-3)

*……なんだけど、たぶん「不確実性の増大」に「かつての予測可能性」を対置する時、どうしても「後者の方がマシだったのだ」と読めてしまうのが、私の感じる違和感なんだと思う。
 私は、いろんな所で進んでいるおかしなことの根本に、「予測可能性をどうしようもなく追い求めてしまう我々の心性」みたいなのがあって、それが「もっとマシ」なことを生みそうな動きを、どんどん歪めていっているように感じている。まず批判するべきなのは、「不確実性の増大」より、「副作用を伴う予測可能性希求」の方なんじゃないんだろうか、と……。

どうせおれ、「心性」の話くらいしかできないしな……などと、独りで勝手に暗い気分になっている春の深夜。次回も引き続きこの本と対話を試みる(大げさ)。

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2006年4月 7日 (金)

続・『大平総理の政策研究会報告書』

『不安型ナショナリズムの時代』ですが、もう書店に並んでいるみたいです。
はい、宣伝です。ヒソヒソ

そして前回の続きで、『大平総理の政策研究会報告書』についていろいろ。
この報告書についても、ものすごく短くですが、本の最初に書いています。

◆「対外経済政策」研究グループ報告書 395-435

*ここでは、まず、二つの目標が提示される。
①市場経済の秩序維持
②南北問題の解決
それぞれ見てみると、

 ①市場経済の秩序維持
・自由主義経済の弊害:
1)景気変動や失業の発生、分配の平等化、独占への傾向と国家産業の癒着
 具体的には、先進諸国のスタグフレーション傾向、南北の所得格差の拡大、独占的行動の世界的拡がり、である
2-1)環境汚染や公害激化、2-2)途上国の貧困
3)米の優位低下→無秩序・混乱→巨大になった日本経済の国際的役割が大きくなった

*この時代、「格差」というのはすなわち「南北問題」のことであり、今現在広く論じられているような、国内におけるそれではまったくない。そのうえで……

 ②南北問題
・日本はまだ発展から日が浅いので途上国の現状を理解できる&脱却のノウハウがある

*という訳で、要は①でも②でも日本が重要だと言っている。日本の経験が、先進国向けには「先進病の回避」、途上国向けには「離陸のモデル」として、世界のほぼすべての問題に対する解決策を提示するキーになり得る、という訳だ。
 今考えれば明らかに、自国内の問題に対するただの脳天気なのだが……一面では、「だからこそ責任感を持って将来ビジョンを語らねばならない」という切実さも持たれていたのである。

 それはともかく、具体的な提言はと言えば……
・「国際分業に合致した国際協調を進める上で、産業構造の変革を行うとともに生活スタイルを変化させることに対応する。これは、一方では貿易その他からの利益を享受するとともに、他方ではそのコストを、国内経済条件の場合によってはかなり苦しい調整の形で、払わなければならない状態を招来するであろう。
 ところで、このコスト負担は、国際関係の変化から直接影響を受ける当事者のみならず、国民各層が広く分かち合う必要があると考える。この必要をみたす政策や制度のあり方を、「福祉国家」への道とか、公共部門の役割の新しい出現とかいうことが出来よう。自由主義原則の基本的骨格は維持しながら、その弾力的運営を漸進的な政策や制度の変革の下で行おうとする、この種の試み……」(407)

*産業構造の変革が、なんで福祉国家への道なのか、まったく分からない。今の言葉で言う「構造改革とその痛み」が、なんで「福祉国家への道」なんだろう?
 一応読み取れるのは、……要するに、大きくなりすぎた日本の比較優位による国際分業のコストを積極的に負担せよ、ということ。そのコストというのは……
1)対途上国(援助)・そのからみでエネルギー問題(416)
2)貿易摩擦の回避
 なのである。「途上国援助」と「貿易摩擦回避」。市場開放・流通改革・公共機関の民営化なども、この文脈でのみ論じられている。今の「構造改革」と違って、「途上国を助ける」ことと、「アメリカからの文句をかわす」ことに(のみ)主眼があった。こういう中で、抜け落ちていった話とは何だったのか。いちいち検証する作業がやっぱり必要だと思うのです。はい。

 これらすべての背景を成しているのは、オイルショックであり……

・失業などの問題は石油ショックによる世界不況に対してのパフォーマンスに還元される。英・伊は負け、西独・日は勝ち。「経済のファンダメンタルズが強固」だったから(430-3)

 だ、そうである。

◆「文化の時代の経済運営」研究グループ報告書(この報告書だけ、頁数はバラ売りバージョンのもの)

前回書いたように、この報告書がこの研究会全体のキモです。
「文化の時代」。私は、この提言の内容は、日本の社会意識として、今でも色濃く残っていると思いますね。たとえば今、「ニートとかフリーターとかがどうのこうの」とか「ホリエモンとかヒルズ族がどうのこうの」とかいう形で語られている問題に違和感があるとすれば、まずこの研究会の知見と引き合わせてみるのが良いと思う。身近に敵を作って批判すれば済む問題ではなく……敵はかなりでかい(笑)ということが分かる、ような気がする。

*主な時代認識は、「目標とすべき欧米モデルにはもう追いついた」というもの。

・「今日、日本社会が、近代化・産業化を成し遂げ、最も先進的な産業社会となったなかで、日本人にとって「近代」とは、もはや志向すべき目標ではなくなったのである。日本人の価値観を測るための新しい次元が、検討されなければならない。それは、「西欧的なものの見方」に対し、「日本的なものの見方」という軸を採用することでもあろう。それは、日本社会が伝統的にはぐくんできたあたたかい人間関係や人間と自然との調和を重視する日本的価値観の見直しにもつながるものである」(16)

・「文化の時代」=「かつてない自由と経済的豊かさは、これまでの物質文明や近代合理主義の下で、ともすれば見過ごされがちであった人間の精神的・文化的側面への反省を促し、より高度な人間的欲求を目覚めさせるに至った。いまや人々は、物質的・経済的豊かさにとどまらず、さらに、生活の質の向上、人(25)間と自然との調和、人と人との心の触れ合いや生きがいなど、精神的・文化的豊かさを強く求めるようになった」(26)
→それぞれの国民にはそれぞれの文化的特質があり、尊重されねばならない
→「われわれは、急速な近代化や高度経済成長を可能にした日本の文化を検討するとき、そこに多くの優れた特質を再発見した。それらの多くは、西欧社会が市民革命、産業革命以来の「個」の確立を目指した近代化300年の歴史のうちに、もろもろのいわゆる文(30)明病や孤独な個の窮状に遭遇し、「全体と個の関係」や「個と個の間柄」を見直し、「全体子(holon)」という概念を求めている最近の方向にも沿うものであろう」(31)

*そして全体として……「近代」の行き着く先の病理としての「個人主義」を回避する形で、日本が世界から脅威と見なされるぐらい経済発展を成し遂げたという、「近代の超克」が語られる。

*では、日本の高度成長とは何か。心理面としては、「仕事における会社」と「活発な消費」が重要だった。これら自体には何の問題もないが、残る問題としては、「生きがい」を持てない人が多いことがある、らしい。

・「高度産業化を支えた社会心理」
1)「会社中心主義」と「生産中心主義」
2)個別化と即自化(生産に拘束されきらない自由、ゆとり、レジャー)
3)価値観の変化=「消費のスタイル」が新たな基準になった。
 しかし他方で、移ろい行く流行などでは自己形成ができないという不安が、「生きがい」希求を強めてもいく。

*制度面としては、自由市場に任せるのでもなく、政府が「計画」するのでもなく、政府は金融政策と「行政指導」に留まり、あくまでも企業間の競争の中で成長が拡大していったことが重要、とされる。

・戦後の高度成長の「制度的基盤」
1)「民間経済部門の急速な拡大」によるのであり、財政はそれが調整しえない部分の部分的調整役に過ぎなかった。これが民間投資を促進し、積極的な拡張経営を有利にし、企業間競争と企業努力を促進し、「成長促進的な構造」を形成した(69-70)
2)「金融市場における統制」=1)「資金の国際的な流れを遮断」、2)「人為的低金利政策によって信用割当てを行い、基幹産業と輸出産業に資金を重点的に配分した(70)
3)70年前後からの制約=1)海外からの抵抗増大=外国為替管理の統制が困難に、2)財政赤字の拡大と国債の大量発行(71)
・政府と計画と行政指導の役割は目標設定であって、達成のために直接的手段を用いたことはほとんどなかった。
・問題は、業界内の不公平忌避と横並びの取り扱いのため「行政指導の枠組みの中で、生産や販売の拡大を目指し、かえって激しい「過当競争」が生じる傾向がみられる」こと(73)

*心理的・制度的両面で、日本の達成したこれらの点はすなわち、「間柄文化」という日本の特殊な文化的土壌が、「個人主義」という「文明病」の回避を可能にしたことを意味している。

・「欧米先進諸国における市民革命・産業革命以降の「近代化の時代」は、「個人主義の時代」ともいわれるように、政治的にも経済的にも社会的にも、「個」の確立を目指した時代であった」=「個人主義(individualism)」
・「厳しい「個」の確立の要請は、機会の」「平等」の下に、絶えざる「自己主張」と厳しい「個人競争」の「自由」を結果し」た。「しかし、近年に至り、欧米先進諸国が高度産業社会として成熟してくると、その中で、かつて近代化を支えた「個」は、「孤独な個」、「疎外された個」となり、「全体」の前に無力化して、逆に社会の活力を低下させる大きな要因ともなった。即ち、「文明病」の発生である」(75)

・日本も欧米を模倣し個の確立を目指したが、「日本の文化的風土」が大きく影響した
 =「「間柄」の重視と、個の競争より「社縁」「なかま」→「「人間」を中心に据えた経済運営」(76)

*これが日本の「ポストモダン」であり、ポストモダンというと通常想起される消費論だけじゃなくて、「会社主義」とか「日本的経営」というのもポストモダンだったこと、そこには「近代の超克」という意識が如実に込められていたことも覚えておくべきだろう。
 蛇足だけど付け加えれば、「消費に踊って仕事しない」というのが前者の意味の「ポストモダン」の再検討を要請するとすれば、「会社主義の崩壊と副作用」とかいうのが露呈しているのも「ポストモダン」の再検討を要請するのである。
 その片方だけを批判して、すべての問題の責を負わせようとしても、意味がないし面白くない。たとえば若者論と団塊世代論が共につまらないのは、そういうことだと思うし、「消費に踊る若者に対し、正社員になるよう訓練を」という提言が胡散臭いのも、そういうことだと思う。
 結局は、巨視的な文脈としての「バブルの再評価」みたいな所に行かざるを得ない。というか最近の議論の流れは、もうそうなってると思いますけどね。はい。

・日本の雇用特性=長期安定雇用と年功序列賃金
1)中核と周辺の二重構造と下請制
 環境変動への対応は、一般的に4種。1)余剰労働力の切捨てや新規雇い入れ、2)定員を低めに抑えて就業時間で調整、3)長期安定雇用の中核とクッションとしての周辺という二重構造、4)組織外には下請制をクッション。
 日本の場合、欧米型の1はとらず2-4を取った。
2)組織原理=欧米型でリーダーのパワーによる統合の「トリー構造」【ママ】ではなく「リゾーム構造」=「間柄」「なかま」として「なんとなく「総合」されている」(82)
3)勤労者の意識の組合=企業への不利益になる場合にはみずからの賃上げを要求しないし、そういう判断力と企業へのインセンティヴがある。
 「日本では、勤労者がおおむね25才を過ぎると、その暮らしのほとんどが企業内にビルト・インされてしまう。勤労者は、自分の生活や社会的評価、家族の満足度などが、自分の属する企業の先行きと密接に関係していることをよく知っている」(85)
4)日本型市場経済と競争=欧米の「個人競争」に対する「集団競争」。欧米では「公正かつ自由な競争」がないと言われ日本では「過当競争」と言われるのもこの違いによる。「機会の自由」の確保による個人競争の自由の欧米に対し、日本では「なかま」集団【内】の競争なので「分相応」が大事になる(89)。「分を過ぎた分け前」要求は「なかまはずれ」として追求される=日本的公正は「結果における平等」(90)。
 つまりルールを守れば自由競争の「フェア・プレイ」に対する「フェア・シェア」=「最適な分配方法」(90)

*……「クッションとしての周辺」を置くことで「中核」を守るという「二重構造」が、(「なかま意識」を育むというのはともかく)「公正かつ自由な競争」「最適な分配方法」につながる、という思考回路は、まったく理解ができない。
私が、「日本的経営の堅固な雇用を復活せよ」という提言に、ことごとく違和感を覚えるのは、そういう話を聞くとこの一節を思い出すからでもある。

*そんで、その利点と欠点が共に挙げられるけど、そのうち利点の部分では今では冗談・反語にしかならないのに対し、欠点は「全部その通りになった」という……。

・日本的経営の活力:
1)長期・年功制により昇進に対する強い願望と競争意識(=インセンティヴ確保)
2)組織巨大化による硬直化を防ぎ小集団間競争の活力
3)組織目標達成のための協力(=労使関係)(95-6)

・今度の課題・問題
1)働きすぎ=家庭が犠牲に(96)
2)組織巨大化→73年の石油危機以後1)急速な拡大から急激な減量政策への転換により年齢構成が変化、2)年功序列に吸収できない管理職のポスト不足、3)人口高齢化と定年延長圧力(97-8)
3)能力主義強化と定年延長圧力
4)マクロ的要因:1)「もたれあい」の中でも技術革新が達成され続ける保証はない、2)なかま意識が業界内以上に広がらない、という問題あり

*あと、「提言」というのが続くけど……略

◆「科学技術の史的展開」研究グループ報告書
*あとの二巻は適当に……

・西欧近代文明・科学技術は、地球環境の危機という形で、限界を迎えている。
 よって、「ホロニック・パス」という新しいパラダイムが必要、なんだそうだ。

・西欧近代文明の限界は、要するに「量的拡大への障壁」である。
①文明社会における物質・エネルギーの消費拡大そのものに対する障壁
②生産設備規模の巨大化に伴う障壁」(552)
・だから「ホロニック・パス」は「質的拡大」を目指す。
 それは「情報化」である。
1)「単能な要素の高度化」=半導体など
2)「システム化」=工場のアセンブリーラインなど

・ホロニック・パスのコストの一つは、諸財の需要の多様化である。しかし市場経済の中でこれは解決される。
1)需要が供給をひき起こすことに変わりはないから【?】(561)
2)「多様化が生ずるのは、基本的には最終需要財であり、その生産における多様化は、産業用ロボットを含めての情報技術の進歩により、生産効率の低下をほとんど招くことなしに可能となっている、ということである。自動車の生産はまさにその好例であって、同一車種であっても、異なった色や内装、シートの車が一つのラインから次々と生産されていく状況は、現代産業の一つの典型的形態といえる」(562)

*「地球環境」とかいうのに議論の焦点があるので、「高付加価値産業」の議論は「環境にやさしい」というレベルでしか捉えられない。
結局、「高付加価値産業」も、「これまでの通り、工場でできるんだから、心配するな」というのが結論になっている。同時代に、ビル・ゲイツとかスティーブ・ジョブズが活動を初めていた状況と比べて考えると、面白いですね。はい。

◆「多元化社会の生活関心」研究グループ
一応、統計的な意識調査みたいで……なんか電波出まくりでよく分からないんだけど(笑)、要するに「中流意識が広がったのは良いことだ」と言いたいようだ。

……どうでしょう、結構面白そうでしょう?

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2006年4月 3日 (月)

『大平総理の政策研究会報告書』、自由民主党広報委員会出版局, 1980

最近、書類作成のような事務的な作業がたまっている。やりたくないけど、避けていると後で自分が損するんですよねえ……。

そしていきなりですが、戦後日本を語ろうと思ったら、この『大平総理の政策研究会報告書』を抜きで済ますことは絶対にできない。だが、私の同僚たちを含め、読んでいる人は意外に少ない。
現在の各種審議会へとつながっていくような、外部の学者たちを抱え込んで書かれたこの報告書。当時の著名な知識人が一同に会している感じ。というか、今でも論壇誌とかで見る名前がちらほら。

全部で9つの部会があったらしく、それぞれの報告書がある。9冊バラのもの(一般販売用?)と、全部が一冊にまとまっているもの(関係者配布用?)がある。どちらもとっくの昔に絶版だが、オンライン古書店などで比較的すぐ見つかります。はい。

「戦後安定社会」とか「1940年体制」とか「日本的福祉社会」とか、論者によっていろいろ名指しされている、たぶん70-80年代にかけて完成した、いわゆる「戦後日本」。今、そのほころびが各所で論じられているとすれば、もともとそれが何だったのかを考えなければならない。
私の知る限り、それを最も網羅的、かつ精密に描き出したのがこの本である。こういう議論を、「日本人論」とか、「日本の優越意識」とか、「伝統の創造」とかで斬るのは、たやすいけれど、あんまり意味がない。
この膨大な知性の集積が……どこまでも楽観的で、今となっては若干の居心地悪さなしに読めないものだが……、「総体として」何を意味していたのか。そういうことを考えないといけないと思う。
今回は久々の更新だから大仰ですね。はい。

一番面白いのは「文化の時代の経済運営」という巻で、これだけでも良いような気がするが、自分用の覚え書きをいろいろ書いておくことにする。

◆「文化の時代」研究グループ報告書
*第一巻で、全体概観に相当するもの。主な論点:

・西欧を後追いする時代は終わり、日本は自己の伝統を否定する明治以来の状態から脱却すべきである
・高度成長で経済大国になった。世界の工場となり、豊かな消費生活を満喫するようになった。
→しかし「ゆとり」が乏しい(39)
→今後は他の先進国同様、低成長に移行せざるを得ない。
 「低成長の背景となる資源・エネルギーや環境の制約は、これまでの生産拡張第一主義に代り、第三次産業や公共部門でもより文化的な分野への投資の比重を増加せざるを得ないであろう。これは労働力の配分についても同じである。また何よりも低成長のもとで人々の生活時間の(39)設計も変化し、文化的な充足に対する欲求はむしろ高まっていくことになろう。
 このように考えれば、低成長のもとでも、むしろ低成長なるがゆえに文化の発展の潜在的可能性はよりいっそう高まるのである。【中略】われわれは工業化至上主義、経済中心主義の段階をすでに七〇年代に卒業したのであり、今後の日本は成熟した市場社会にふさわしい「文化の時代」を生きていくことになるであろう」(40)。

*要するに、がむしゃら高度成長への反省が、低成長をむしろ「ゆとり」の好機とする評価につながっている。そこでは、当然ながら、高度成長の達成したもの……高所得・治安の良さ・高い平等……などが、根元から崩れる可能性が考慮されることはない。
二度の石油危機の影響が軽度に済んだ、と言えば、それまでなのかも知れませんが……。そこをスルーしたことの影響がいかに甚大だったかは、我々が日々いろいろな話題で目にしている通りなのである。

◆「田園都市構想」研究グループ報告書
*第二巻。上のような時代認識に基づいた、都市計画についていろいろ書かれている。おそらくニュータウンとかの源流の一つ、なんじゃなんですか。

・明治維新から100年、またGNPが米に次いで世界二位になった今、追いつき型近代化の目標が終焉している。
 そこで再評価されるのが、田園都市構想である。「それは、近代文明とそこにおける豊かさの質を問い直し、人間生活の目標とあり方を再検討し、国家システムの再編成をめざす、超近代の動きの重要な一環にほかならない」(91)。

*「超近代」なので、当然(?)農村とかが焦点になる。
総じて、「都市に田園のゆとりを、田園に都市の活力を」という、良いとこ獲り戦略が提唱される。

・農山漁村は日本人全体の「ふるさと」だが、近代化・産業化・高度成長の中で生活様式が変貌。
  →田園的な農業生産と都市的な消費生活が、混在してしまうようになった。両者を分離し、緑あふれる余暇・教育・文化・健康の場としての農村と、それをつなぐ場としての都市の機能を明確にさせねばならない。
・そのために、「多極重層構造をなす都市・農山漁村を結合する交通ネットワーク」の整備を全国的に推進せよ、とする。

*……んだけど、単純に、「緑とか農業とか」と、「都市的な消費生活」が「混在」していると何がいけないのか、よく分からない。
 あと、その「結合する交通ネットワーク」の整備が行き過ぎるくらい充実した結果、「入れ替え可能性」が高まったというのもあるだろう。

*続く、地方地方の愛着と帰属感を醸成するための「文化施設建設」とか、環境主義=「人間と自然の調和をめざす国づくり」とか、ありがちな話はまあいいとして……(こういうのもいちいち「脱近代」という時代認識を背景にしていること、その背景にはかなり多幸症的な現状認識があったことは覚えておく必要がある)
 ……この間までここでいろいろ言っていた、産業の構造転換についても、同じ論理が適用されているのが面白い。

・中小企業の台頭・経済のサービス化・需要の高度化・ソフト産業・クォリティ産業・先端技術産業などは「地域産業の発展」をもたらすものである(138)。「これらが、個性ある地域産業として多彩に発展していくことによって、各地域社会を経済的に支える質の高い雇用機会と所得水準の提供が可能になっていくのである」(143)
・「地場産業都市構造」、「工芸コミュニティ・モデル都市構想」を推進せよ(143)。地域の風土に合った伝承技能と、先端技術・デザインを結合してクォリティ商品を作れ(144)

*要するに、「地域の多様性」が、すなわち「新しい高付加価値産業」を生み、もって地域格差の是正要因になるだろう、ということだ。それが実現されたとは到底言えそうなのはもちろんだし、そこで選出される「高付加価値産業」が、「地元工芸」のようなものであることは、今考えれば驚くべきことだろう。
 その一方でハイテクについても言及があるのだが、

・ハイテク・省資源産業は「クリーンな環境」がいる。シリコン・バレーも「文字どおり公園と呼ぶべき環境のなかにクリーンな半導体生産工場が散在し、世界の最先端技術を開発し、活気にあふれている」(146)

*……と、なぜか「自然」に注目が寄せられる。見るのそこかよ。

*総じて、この著者たちは、人間関係の潤いを失ったかに見える「都市」の外部を希求しているのであり、それが「超近代」的な(笑)「農村」「自然」の復権あるいは再組み込みという思考へつながっている。

◆「家庭基盤充実」グループの提言
*以下三巻は、私があまりよく理解できないのもあるが、あまり面白くないので簡略に。

*特にこの「家庭基盤充実」グループは、意味不明な楽観と伝統回帰意識の合成みたい。というか似たようなことを言っているが、今でも多い気がしますけど……。

・欧米より、犯罪・離婚は低く、祖父母同居率・あたたかい人間関係は高い。この延長で「脱工業化社会への転換」を行えば「ひとつの先進的経験」になりえる(185)
・間柄文化による仲人制度と見合結婚が離婚率の低さに貢献している(199)
・親子同居の多さは「日本人の親子観ないし内面的道徳を反映している」(208)

◆「総合安全保障」研究グループ報告書 301-344
・没落した米をもう頼りにしない。また今は防衛として最低限の軍事力もないから整備せよ、と

◆「環太平洋連帯」研究グループ報告書 345-394
・ガット・IMF体制が動揺している現在にあって、自由で開かれた経済システムを維持し相互依存関係を強めよう

 ……という訳で、一番面白い「文化の時代の経済運営」はじめ、後半は次回また、ということに……。

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2006年3月30日 (木)

私の著書『不安型ナショナリズムの時代』が発売されます

私の初の著書が、4月8日に発売になります。

『不安型ナショナリズムの時代--日韓中のネット世代が憎み合う本当の理由』
高原基彰
(洋泉社・新書y)
定価780円
ISBN:4-86248-019-5

です。お見知りおきを、平にお願い申し上げます。

過去に論考として発表したもの、そしてずっとここで書いてたようなことを、節操なく全部ブチ込んだものになっております。

最近告知っぽいのばかりですみません……。次回からは、その内容を踏まえて、書評などに戻ろうかと。

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2006年2月23日 (木)

続々ソフトウェア産業とかいろいろ

昨日、久々に外で酒を飲んだら、案の定眠くなってしまい散々だった。本当すみません兄貴。
そして私の兄貴分たちにまつわる、めでたいニュースが次々と。おいらも頑張ります。はい。

そしてこないだの修正が、とりあえず終了。まだごく一部手直しの必要ありか。
引き続き、その原稿のためにいろいろ読んだ本の一部を……(紙幅の関係もあり大部分は直接反映されていない)。多分これが最終回。

◆戸塚秀夫・中村圭介・梅澤隆,1990,『日本のソフトウェア産業――経営と技術者』東京大学出版会.
「日本的経営」が、ソフトウェアという新しい産業の登場により、どう変容を蒙っている/いないのか、という着眼のもと行われた調査の記録。

いろいろ興味深いですが、私的なポイントは:
・中小零細企業が多い。初期投資が少ないので参入障壁が少ない、新しい産業なので制度的条件がまだ固定されていない、などの要因により(16)
・成長基調で、消滅したデータ外のものを除けば、ほとんどの企業が成長を続けている(17)
・技術者は人手不足気味、その人数は急増中:1企業平均で22.7%増加
・新卒が主で、不足分を中途採用で補う例が多い(95)

ところが:
・離職率は、小規模の所ほど大きい。従業員9人以下は16.8%、100人以上だと6.2%(96)

しかしいずれにせよ:
・これはつまり、比較的若い、高学歴のソフトウェア技術者集団が大量に存在しているということ。年齢・学歴・勤続年数などによる管理が有効ではない。すべてが役職につけるとは限らない。
→モラール維持のための処遇上の仕組みが必要である。
→とはいえ能力主義をとるにしても、客観的な資料がない、評価できる考課者がいない、個人の実績評価は困難である、などの問題がある

→役職と離れた資格制度=「昇進と昇格の区別」が必要だと提言される。
「資格制度によりソフトウェア技術者のモラールを維持するには、少なくとも各資格等級と役職の対応が緩やかなものでなければならない。つまり管理職ポストが不足しているため職位上の昇進が可能ではなくとも、能力と適性があれば資格上の昇格は可能というのでなければ、ソフトウェア技術者のモラールの維持は図れない。もちろん昇進・昇格の際の人事考課、評価がいかに困難かは、すでに述べた。しかし資格、役職、賃金が一体となった資格制度の形態では、ソフトウェア技術者のモラールの維持は不可能である」(124)

という訳で、「社内のポストの配分」に話が収斂していく。堺屋太一『団塊の世代』の亡霊は、IT化の中でも生き残っていたのである、と、とりあえず読んでおく。

◆新井進,2003,『よくわかる情報システム&IT業界』日本実業出版.
なんか適当に買ったんだけど、そのスジでは評価の高い本らしく、いろんな所で推薦されているのを見かける。

「SE」という職に就いた人々の、あり得るキャリアステップなどが詳しく書いてある。いろいろ泥臭い話も書いてあって、特に:

・80年代を通し、日本の情報産業とは第一に、金融・物流・製造メーカーなど各種の既存産業のうち、社内の情報処理を担っていた部門がシンクタンクなどとして分社したもののことであり、第二に、コンピュータのハードメーカーから分社したソフト部門のことだった。
・企業内の情報部門と、ハード会社のソフト部門とを橋渡しするべく、80年代後半以後に急増したのが、独立系システム会社である。各種のコンサルティング会社など。
 その仕事は、クライアントの企業の活動のうち、コンピュータでフロー化可能な部分を見極め、既存業務を合理化することである。いわば日本におけるIT産業は、既存の大企業の活動の延長か、あるいは「企業向けサービス産業」のいずれかとして発展した。
・狭義のIT産業である後者の内部には、情報的な技術開発ではない、対企業サービス職に近い部門が多く含まれる。しかもその内部には「ゼネコン的下請け構造」があり、特にプログラミングなど、開発に近い仕事が下請けのものとなっている。

……みたいなことが重要かと。まあ似たようなことはどこでもあるんでしょうけどね……。
これからSEの労働に関する研究とか増えそうだけど、入門編として最適かもしれない。あと就職関連業務の参考にもなりそう。

◆畠山けんじ著、久保雅一企画・監修,2005,『踊るコンテンツ・ビジネスの未来』小学館.
・ジブリの鈴木敏夫さんのインタビュー:
(日本のコンテンツ産業の未来は明るいか暗いかという質問に対し)
「しばらくの間、暗いでしょうね。日本が不景気になれば、本当に貧乏になれば明るくなりますよ。豊かな時代に育った人たちは、残念ながら本当の意味での送り手にはなれないでしょう」

まあぶっちゃけ、後進を育てる気はない、ということですよね。おれは外部の人間だから、別にいいんですけどね。

・経済産業省・広美郁郎・商務情報制作局文化情報関連産業課長のインタビュー
非常に面白いし貴重な資料なんだが、単純に考えて、「昔の製造業がやったみたいに、業界団体を作って税金の受け皿を作る」という提言と、「やはり制作資金は独立系プロデューサーが投資家からお金を集めた方が良い」という提言とは、矛盾するような気がするんだけど……しないのかな。よく分からない。

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2006年2月19日 (日)

前回の続きでベンチャーとかいろいろ

いろいろ短中期的なことが収束に向かってきた。ふう。ここの更新も3日に一度ペースに戻したいなあ。

今、以前ここに「擬似問題としてのフリーター」として書いたことを、拡張した内容の原稿を書いている。コンテンツ産業云々の話も、そこに入れ込む形になっている。今まだいろいろ修正中。

そんで前回の続きで、最近読んだ本を適当にレビュー。

◆ヤング,ジェフリー・S,ウィリアム・L・サイモン,井口耕二訳,2005,『スティーブ・ジョブズ――偶像復活』東洋経済新報社.
私のいる周辺だと、「メディア論」という所で論じられることの多かったこの人、その分野にあんま興味のない私がよく知らなかったことがいろいろ書いてある。
こういう人がなんで日本に出てこない(orこなかった)んだろう、というのは、不思議だけど、ある意味当然な気もする。

◆日経ビジネス編,1984,『飛翔!ニューベンチャー』日本経済新聞社.
ジョブズとかゲイツとかがいろいろやってた当時、日本で「ベンチャー」というのがどう論じられていたか、垣間見える本。よく分からない研磨技術の研究所とか、「アート引越センター」とか、「ノエビア」とか、そういうのが代表選手とされている。編者による以下の記述が、我々にどこか痛々しく感じられるのはなぜだろうか。

「革命は、必ず、周辺から起こる。天守閣は依然そびえていても、冬の陣で濠を失くした大阪城は、あっけなくくずれた。大企業の輝きが失せる日も近い。なぜか。技術開発であれ経営管理であれ、およそイノベーションは、個人の創造力に依存する。柔軟、あるいは型破りの発想がバネとなる。それを、大企業は、官僚的な組織と硬直的な管理で圧殺しかけている。そして、それに気付かない。モラールがあがらないのは当然で、自己革新の油が切れかかっているといってもいい。
 だが、ベンチャーは、全く違う。彼等は、“日本的経営”さえも一新してしまう力を秘めている。組織をみれば、大企業のように事業部、部、課とタテにつらなってはいない。自由、平等、公正をモットーに、平べったい形をしている。ベストセラー『メガトレンド』の言を借りれば、ヒエラルキーからネットワークへの潮流を先取り、実践している。こういう組織に、大企業の窓際族、わけても満たされぬ想いの技術者が身を投じるのは、当然ではないか。
 もともと技術者には、起業の知名度や肩書きに固執するより、研究開発、製品開発で生き甲斐を果(15)たそうという志向がある。ベンチャーの台頭、技術者専門の転職斡旋誌の登場が、その志向に拍車をかけた」(16)

◆中小企業庁小規模企業部サービス業振興室編,1986,『ニューサービス業の現状』大蔵省印刷局.
上と同じような意図のもと、大学で借りてきたのだが、総覧的であんま参考にならない。というかいろいろリストアップされて、誉めそやされてる産業の、かなりの部分が「とっくに消滅」してるのが物悲しい一冊。

◆堺屋太一,2002,『日本の盛衰』PHP研究所.
この人の著作、『団塊の世代』しか読んだことなかったんだけど、自分が書いてることに似てるからびっくりした。50代くらいの人に「既視感がする」とよく言われるのはこのことか。当時の課題が先送りにされて今に至ってるんだから、仕方ねえんだと思いますけどね。はい。

最近忙しかったので、他にも読んでない本がたまっている。
ここで一言。ネットだのブログだのいろいろある今日、「事例」は余って腐るほどある。たぶん我々の仕事は、微細な事例をいちいち挙げつらうことではなく、それらを囲む認識枠を作ることでしょう。「事例」自体で勝負しようと思っても、ウェブ情報にかなう訳がないと思う。
読者はヨソでいろいろ「事例」情報にさらされると思うけど、そういう時にふと「ああ奴の言ってたのはこういうことか」とか思ってもらえるのが一番良いよな、と思う今日この頃。

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2006年2月12日 (日)

コンテンツ産業についてなど

いろいろ調べている。一筋縄ではいかないことが分かって苦心惨憺。前の原稿のノリを引きずっていてはいけないかもしれない。うむ。最近読んだ本を適当にレビュー。

◆小林雅一,2004,『コンテンツ消滅』光文社(ペーパーバックス)
音楽・アニメ・ゲームに渡って、現在のコンテンツ産業の問題を網羅的に論じた本。
音楽に関して……

「アメリカでiTunesのような新サービスが花開いたのは、ナプスターという悪魔がいたからだ」という見解は、もはや定説になっている。その莫大な海賊版被害に手を焼くと同時に、その豊かな将来性に魅せられたからこそ、米レコード会社は合法的インターネット配信サービスに大切なコンテンツを提供し始めた。
 翻って日本では、ウィニーにせよファイルローグにせよ、それがレコード産業にもたらした被害は、ナプスターやカザーに比べれば微々たるものであろう。これが逆に災いして、レコード業界に代表されるコンテンツ産業は過去のモデルへの未練が断ち(70)切れず、これまで次世代ビジネスへの取り組みが中途半端に終っているのだ。(71)

要するに、今でもCD物販を前提としている、再販制や著作権ホルダーたちの意識が、むしろ悪影響を及ぼすようになっていると。これは「零細の保護のつもりがあんまり保護になってない」小売規制みたいな話とつながるかもしれないし、よりレトリカルには「ものづくり神話」みたいな所と関係あるかもしれないなあ、などと。

ゲームに関しては、スティーブ・ジョブズ的な、一種のイノベーション経済みたいのが、日本で唯一(?)存在したのがこの業界の周辺だった(しかしそれが近年急速に頭打ちになっている)ことを、関係者のインタビューを交えながら活き活きと描いている。
ここでも、オンライン・ゲームへの移行が不可避だと論じるあたり、先の「ものづくり神話」が逆に桎梏と化してる、みたいなのと関係あるんでしょうね。

アニメに関しては、堅固な下請け構造の元、実際の作り手に利益が全然渡ってなくて、著作権ホルダーのテレビ局とか大手玩具メーカーとか広告代理店とかにばっかり金が回ってることが、これまた関係者へのインタビューから描き出される。

本格的な力作だと思うんですが、『コンテンツ消滅』というタイトルは、全然内容を反映していない。本のタイトル付けって難しいですね。だけどこれは、「キャッチーに、耳目を引くように」という(著者かどうか分からないけど)意図が、裏目に出ている例としか思えない。
あと光文社ペーパーバックスって、随所に単語の英訳が散りばめられてるんですけど、明らかに不要な気がするんですけどね……。これ、「日本語表現の未来形」なのかなあ……。

◆国民生活金融公庫総合研究所編,2001,『情報系マイクロビジネス――コンテンツ産業を担う中小企業の実像』中小企業リサーチセンター

そして、上記のような構図は、何もコンテンツに限ったことではない。
「情報化」は、これまでのように大企業の下請け先という形でしかない零細企業ではなく、「ネットワーク型分業構造」による、新しいビジネスチャンスを育んできたとされる。そこにこそ起業家精神の受け入れ先がある訳だ。

だけれども、「ネットワーク型分業」というのが、掛け声にのみ終わり、結局は単なる下請けになっている零細企業や「SOHO」が多数ある。日本の旧来の慣習が色濃く残っている中での、起業家精神や「新しい働き方」が持たざるを得ない両義性が、はからずも浮き彫りになっているのが、この本。
フリーターもそうだけど、日本で「自由な働き方」とかいう言葉が出てきた時は、とりあえず注意した方が良い。でもそこで注意するべきなのは、「自由な働き方」を求める<当人たちではなく>、その反照項としての旧来の仕事像が、なぜそこまで堅固に生き残っているのかということだ。
「自営業の復権」をうたう、玄田有史の『ジョブ・クリエイション』などと組み合わせると、いろいろ面白いことが言えそうな気がしてくる。実証が得意な人と共同研究がしたいです。はい。

◆橘木俊詔・森剛志,2005,『日本のお金持ち研究』日本経済新聞社.

そう考えると、以下のような現象はどういう位置づけになるんだろうか。

人生の勝ち組になる成功モデルは、大企(17)業の役員になることから、スモールビジネスの経営者・幹部になることへと変化している。(18)

日本では永らく、大企業の役員になることが人生の勝ち組と考えられてきた。つまり、「名門大学に行き」→「大企業で出世する」という成功モデルが、漠然とではあるが存在していた。しかし、近年こうした成功モデルは、もはや過去のものとなりつつある。東京都の納税額3000万円以上で企業経営者・幹部のうち、1984→2001で上場企業は28.8→19.2%へ減少、非上場企業は71.2%→80.8%へ上昇している(17)。

◆パーキンス,アンソニー・B,マイケル・C・パーキンス,斉藤精一郎監訳,2000,『インターネット・バブル』日本経済新聞社.

関係あるか分かりませんけども、「ものづくり」を離れた「IT」なるものに対して、それ自体を「虚業」と呼ぶような議論は、ITバブル批判をする、この本の中にすらない。あるのは、企業業績と関係なく株価が上昇することへの警鐘である。
「ヒルズ族批判」みたいのが跋扈してる近年こそ、アメリカとは逆の文脈で読む必要があるかもしれない。

「ヒルズ族」というIT新興起業家たちが、「株価」に走らざるを得ないとすれば、どう考えても批判するべきなのは「IT知財そのものをビジネスにする可能性の欠如」であり、考えるべきなのは「なぜ日本ではITそのもので金を儲けることができなくなってしまったのか」ということじゃないか?「ものづくりへ回帰せよ」とか、「弱者を思いやる日本の心の喪失」とかいう、ゴミみたいな話ばかりがマスメディアを賑わせている現状は、この転換を決定的に失敗した日本の失敗の上塗りにしかならない。

あと、
◆労働政策研究・研修機構「コンテンツ産業の雇用と人材育成」

コンテンツ産業は、「文化装着型産業」が主流にならざるを得ない現代において、必然的に着目に価すると。
実地調査の結果は大いに参考になる。しかし、「文化装着型産業」だからコンテンツに着目する、という、他でも広く見られる論法には、余り同意できない。

本当は、この報告書にも大々的に引用されている、ロバート・ライシュの言うような変革が、すべての産業において生じないといけなかったはずなのだ。その他の部門を旧来の日本式のままにしておいて、コンテンツ産業にその変革の失敗の<ツケを払わせよう>としても、過大な期待なのが明らかじゃないか。それが下請けの低賃金労働を生んでいるのも、後続の人材育成がうまくいかないのも、そう考えれば当然なんだと思う。

要するに、アメリカでも中国でも韓国でも、「就職」というのは年限つきの「契約社員」なのがもはや当たり前なのであり、大企業に勤めれば安泰だとか考えている人は一人もいないし(それは「自分個人の職歴」としてのみ意味がある)、「自分の働きに応じて年俸を交渉する」こと、「納得行かなければ、辞めて自分でもっと給料の良い勤め先を探す」のが当然の前提である。
それが「文化装着型産業化」の社会を生きることの、必然的な帰結である。イノベーションというのも、そういう構図の上で初めて生じるものであるというのが、「情報化」以後の世界の常識だと思う。
なのに、下請けで動画描いてるような人たちだけに流動性が限定され、著作権で大儲けしてるような所では「日本型正社員モデル」が生き残ってるのはなぜなのか、問わないといけないのはそういうことだと思う。おかしいのは、フリーターでも、「夢を追う下流社会の若者」でも、アニメーター志望の貧乏人でもなく、「普通の日本人」である。「正社員雇用を増やさないといけない」とかいう提言は、「正社員」という言葉の日本独特の意味への反省意識がないと、逆効果にしかならなくなってしまう。
コンテンツ産業振興というのは、そのおかしさに対する批判が、日本では不可能になってしまったことの、一種のスケープゴートとして呼び出されたものに、思えてならない。そういうことを何とかうまく言いたいんだけど、もはや「一体どこから説明すればいいのか」分からないのである。

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2005年11月29日 (火)

李強,高【旧字】坂健次・李為訳,2004,『中国の社会階層と貧富の格差』ハーベスト社.(=李強,2000,『社会分層与貧富差別』鷺江出版社.)

週末ぐうたらしたら、だいぶ復活した。ふう。

某学会誌(の請負い先の某出版社)からゲラが来たんだけど、金曜日に郵送されてきたものを「月曜までに返送してくれ」というのはちょっとムリなんじゃないでしょうか。何か手違いでもあったんでしょうか。まあいいんですけど。

ところで、私は中国の「体系的な専門家」とはとても言えない人間ですが、こちらの本は、中国のそこかしこで見聞したことの「点が線になる」ような感覚を味わえる、素晴らしい出来となっております。
これも情報量が多いのであんまり要約などできないんだが、私の興味あったのはたとえばこんな所。ちなみに「単位」というのは、職場であり生活共同体でもあるような、中国社会主義独特の制度。

 「中国が改革以前に実行していたのは、いわゆる「鉄飯碗」制度で、個人はいったん何がしかの単位に就職した後は、一般には解雇されることはない。さらにまた単位間を移動することもきわめて少なかった。したがって、個人が生涯に亘って一つの単位に就業する現象は、比較的一般的である。このように、単位は個人の終身活動の最も重要な場所となり、両者と関係は非常に密接である。さらに、中国都市就業者の住宅のほとんどは単位によって提供されており、単位の住居はまた地理的にみて相対的に集中している。このように、単位成員もまたさらに容易に緊密な集団を形成することになる。最後に、単位はその働き手に賃金を与えるだけではない。同時に医療、健康等の保険とサービスを、また比較的大きな組織のなかには食堂サービス、商業サービス、子女教育等をも提供している。このように、個人の社会的地位の如何さえも、つねに彼らが所属している単位の地位と関係している」(18)

中国の市場経済化というのは、こうした「単位制度」に漏れが生じる過程でもあった。
その際には以下のような特色があった。

 「1980年代のいくつかの調査によれば、当時にあっては、これ【都市における自営私営工商層】を構成する集団の多くは、退職者、都市の有閑者、待業中の青年、都市に入った農民等であった。甚だしいばあいには、一部の人は刑事犯罪で釈放された後、適当な仕事が見つからず工商業に従事した者もいた。したがって、この階層は最初から素質の低い集団として構成されたのである。当時、都市のなかの社会身分と素質地位は【ママ】比較的高い集団は主に国営企業・事業単位と政府機関で働いていたため、これらの単位では一般にみな安定した賃金収入、労働保全複利、公費医療、および住居、退職金等に恵まれていたため、当時では、このような単位を離脱して自営私営工商者に変身した人びとの割合は低かったのである」(24)。

そんな背景のもと、市場経済化が始まったばかりの80年代には、肉体労働者の方が知能労働者よりも高い賃金をもらうという、一種の逆転現象が広く生じていた(90年代には再逆転して知能労働者の方が高くなる)。それはなぜか。

「社会的地位の比較的低い集団が最も先に市場経済に入ったのに対し、社会地位が高い集団が市場経済に参入する速度はあきらかにそれより遅い。なぜかと言うと、第一に制度が変遷するなかで社会的地位が比較的高い集団(社会中心集団と呼ぶことができる)は通常、元の体制において多くの利益を享受している。もしも元の体制から離脱し、新しい体制に入れば元の体制で受けていた多くの利益を失うことになる。この種の利益の損得にばかりこだわる気持ちが、彼らが早い段階において市場経済に参入することをおしとどめたのである。一方、比較的社会的地位が低い集団(社会周辺集団と呼ぶことができる)は元の体制ではそもそも低い利益しか享受できていない。このため、制度的変遷が生じたとき、彼らは容易に元の体制を離脱し、新しい体制に入り、しかも迅速に新体制によってもたらされる利益を享受するとができるのである。しかしながら、制度の変遷が一定程度に達し、新たな体制によってもたらされる利益が明確になり、古い体制がますます維持しにくくなったとき、はじめて過去の社会中心集団は次第に新しい体制に入(67)ってくる」(68)

私の感覚だと、「単位」というのをどうしても「会社主義」とのアナロジーで捉えることになり、「現在」というのは「その崩壊過程」という問題系で考えることになる。その崩壊過程にはずいぶん違いがあったようだ。それは一言で言うと「日本の方がよっぽど堅固で成功した社会主義だった、中国はそれに比べて後進であり安定性も蓄積も絶対的に欠いていた」ということになるんでしょうが……むしろ前者が「桎梏」になってしまうような局面を、我々は嫌と言うほど毎日毎日見せつけられている訳で……。
その一端がこんな事情になるのかと。

 ミルズは、新→旧中間層の移行を被雇用者の増大としたが、中国では正反対。独立経営者などが新中間層であり、またその過程はアメリカよりはるかに早いスピードで起こった(81)
 新世代では、学歴と収入の相関が大きく、また40歳前後で収入のピークに達する(85)
 「これは主に市場競争による結果である。近年、高収入領域は三資企業、新興企業、たとえば、金融、証券、情報、ハイテクなどの領域に集中している。これらの業界はそれ自体、社会のなかで上昇地位にあり、いったん入ると市場の最頂点を占めることになる。若い人が学歴と新しい専門知識を有し、外国語を理解し、そのうえパソコンができるとなると競争力の職業に比較的就きやすい。一方、年齢の高い人はまずその年齢とすでに習得した技術や、知識の関係から新しい専門領域への適応は非常に困難である。年齢の高い人の属する国有企業と伝統的製造業はさまざまな原因で衰退期に入り、単位の地位が下降す(85)ればさらに中高年の社会的地位の下降を速める」(86)

という訳で、市場経済化で不利になったのは、むしろ国有企業で「福祉づけ」になっていた中高年層であり、都市部の教育のある若年層はその恩恵を受ける側であると。
しかしながら、著者によれば、こうして形成されつつある新中間層というのはいまだ大都市のみに限られた脆弱な社会集団であり、他の先進国に見られるように、近い将来は失業問題が若年層へ接近していくことが予想される。それは最大の社会不安定要因になるから、今のうちから対策を……と話が続いていく。

私が見るに、要するに中国は、一種の「後発性利益」(ガーシェンクロン)で、「一足飛びにアメリカになった」ということなんじゃないでしょうかね。しかしながら当の中国の若年層の多くは、その「ねじれを含みつつ進行するアメリカ化」に適応できているようにはまったく見えない。日本の我々はバカみたいに古い問題系といまだに対処し続けざるを得ない不幸を抱えているが、あちらはあちらでマジ大変なようです。はい。

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2005年11月24日 (木)

ブルックス,デイビッド,2000=2002,『ボボズ――ニューリッチたちの優雅な生き方』光文社.

いや、もうおれダメかもしんない。
「ああ、もう足を洗いてえな」
「どこからッスカ?」
「まあ、人生から」
みたいなやりとりを、こないだSM君とした記憶がある。

あえて追加すれば、
「洗ってどこ行くんスカ?」
「いつか訪れた、チベットのセラ寺で禅問答をしながら暮らしたい」
みたいな、そんな心境になりかけている冬の夜更け。

そんな感じで本を読む時間がない。こないだようやく買ったこれも、あんま読み進んでない。
でも第1章だけでも面白かった。ボボズというのは「Bourgeois Bohemians」の略で、要は「WASP的価値観への対抗文化を通過した後に出現した、昔で言えばボヘミアンなライフスタイルなんだけど、経済的にはニューリッチ」な人々のこと。「経済的な成功を楽しみながら、同時に、自由な精神を持った反逆者の生き方を創り出そうとした」(53)とゆーことだ。

彼らの多くは「感覚を金に換える」職業についている。そして彼らこそが「リッチ」になったということは、旧来のヒエラルキーが消滅したということを意味する。しかし彼らの「リッチさ」は、昔のエリートと違い「名誉職的地位」に留まることができない、不安定なものである……みたいな主旨。

そんで面白いのは、ベビーブーム世代が60年代にやったのは、WASPのモラルの権威と秩序の破壊であった、とされていること。ここで生じた「革命」の延長上に、現在のボボズがあるのだ……と。
それをこっちの団塊と比べて「ハアアとため息をつきたくなる」のはやまやまなんだけども、「それは時間が解決してくれるよ、たぶん」ということで拘泥しても仕方ないでしょう。
たとえば「団塊世代が育んだ『やりたいこと志向』という青い鳥の弊害」とかいう話も最近結構あるけども、たぶん問題はそういうことじゃないでしょう。
「それ、育まないで、どうすんの?みんながずっと工場とか事務所とかで働けばいいの?むしろ途上国に逆戻りすれば解決すんの?」みたいな。

そういうことをすっぱり言える概念が、遠藤薫の開発した「オルトエリート」という概念くらいしかないことは、この際ここではっきりと言っておきたい。まあ今ここじゃなくても良いんですけども。

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2005年11月20日 (日)

まあどうでもいいんだけど

休日の土曜は<八王子ミニ中国>で、こないだの「満豚坊」に行ったりする。今回はいろいろ頼んだが、何食ってもうまい。酢豚とか青菜炒めとか鶏唐揚とか、その辺の中華料理屋と段違いのレベルを見せ付けてくれる。日式の「青菜挽肉炒めラーメン」も、中華街で変な麺食うよりよっぽどうまいぜ。
3人でしこたま食って、ビール飲んで、約7~8千円かしらね。多摩~八王子近辺に住んでたら、なぜ行かないのか理解ができない。もう一度紹介ページのリンク貼っとく。
http://www.geocities.jp/sayapie3838/mantonbou.html

そして某R君のお知り合いがやってる中国物産店にて「火鍋」の素を買う。これを湯にといて適当に具を入れれば、刀削M荘で一人頭4000円くらいかかる「火鍋」が格安・即効でできてしまう、予定。
鍋パーティでもしたい所だが、根っから「友達がいない」私に付き合ってくれる人が全然思い当たらない(笑)。なのでたぶんSM君あたりを呼び出し、強制で激辛の鍋を一緒に食わせる、予定。

さてマンガ「嫌韓流」というのをようやく読みました(遅い)。
それほど細かく書いてる時間がないのでアレなんだが、基本的には学園ドラマ風に、同級生同士の物語という体裁を取っている。そんで「日本の戦争責任がどうとかワアワア言う在日韓国人学生」と、「彼を逐一論破する賢い日本人の上級生&彼に導かれていろいろ学んでいく主人公たち」との討論形式として進行する。
そんではっきり言って「どっちももう時代遅れだし、どっちももう一般人の多くは相手にしてねえし、どうでもいいんじゃね」としか言いようのない「左右対立」が延々描かれる。
……大体、こんな「在日青年」は、いまどき「在日運動家のオヤジの頭の中」にしかいねえと思うけど、とか言うのは無粋でしょうか。

こういう形で戯画的な対立を演出する以外に、「政治的or社会的」な出版物やテレビ番組を売る術のなかった時代の、古臭いやり方をそのまま踏襲していると言えましょう。
今はもう「そんな手を使わなくても、みんながそれぞれ多様な話題を必要としている」時代になっている。それぞれの仕事に役立つ形での「政治的or社会的」な情報こそにニーズがある。当たり前のことだと思う。
そうなると、こういう古臭い手にダマされ続ける「客層」というのは、「社会の一定部分にゲットー化」されていくと思う。「もう人生あがりで、後は適当な本を読んで暮らしたい」とかいう「ゲットー」だったら、まあいい、というか仕方ない。でも「そういうあがり方が絶対不可能」な人々にとって、古臭いウソは「彼ら自身の損になる」。そこに右も左も変わりはない。

細かい歴史的な事実指摘は、基本的にそんなに間違っているとは思わない。だけれども「そんなこと韓国人だってまともな人はとっくに分かってる」ことが多い。
たとえば「日韓基本条約で日本が巨額の賠償金を払ったこと」に対し、「これを補償と呼ばないのなら韓国政府に訴えてください」といって相手方がオロオロする(笑)様子が描かれているけれども、今まさに韓国で進んでいる「親日派清算」というのがこの動き。
だったら、それを進めている今の廬武鉉の革新政権を、とりあえず支持するのがスジだと思うけど。単純に。だけどたぶんこの著者には、「親日派清算」というのも「ただの反日」としか見えないんだろう。
ほんで韓国の「保守」――つまりこの援助を受けることを決定した朴正熙を支持する側――は、まさに「韓国のナショナリスト」(「民族主義」ではない)であり、この著者はこちらの陣営も快く思わないだろう。じゃ、どうしたいのか。
要するに「韓国では『ナショナリズム』と『民族主義』とは対立関係にある」ということも知らない。これは知識の多寡の問題ではなく、韓国の国内だって一枚岩じゃなくて、内部に対立関係があるという当然の前提を持っているかどうかの問題である。
「そういうのを知らなくても良かった」時代の、国同士の対立という古い枠組みにすべてを落とし込もうとするから、いくら微細な歴史を勉強した所ですべてムダになってしまう。

私は、たとえ韓国のことを何も知らなくても(まあおれだってすんごい知ってる訳じゃありませんし)、「こんな話には意味がない」という皮膚感覚のようなものは、現在すでに多くの人々に広がってると思う。だから躍起になって反論したりする必要もないと思うなあ。
むしろ、そういう「意味ない感覚」がもたらす問題(まあちょっと前に書いた「ダンピーの大量生産」とかそういうことですが)という方が問題なのであって、すでにどうでも良くなっているものの「死体叩き」をしていても仕方ないと思います。そこでも右も左も関係ないと思います。はい。

また余計なことを言うと、右でも左でも「おれは既成秩序に反抗して真実を語ってるんダゼ」的な、よく分からない英雄意識、というか被害者意識みたいのって、何なんでしょうね。その割にどうでもいいことばっかりで。
もしおれが、現実動向抜きに、国を愛し「大東亜共栄圏」に賛同する「ナショナリスト」だったら、朝鮮・台湾・中国のかなりの部分、南洋諸島もすべて「日本」なのであり、「アメリカおよび連合国が原爆投下や東京大空襲という非道な手段で日本を降伏させ、正当な領土を手放させた」のであり、「ソ連の不当な侵略で消滅した満州国というのは、今すぐ正統な国家として復権せねばならない」と考えると思うけどなあ。
韓国や中国の「反日」に固執するのは、それぞれの「国家の正当性」を認めることであり、実は「反日という問題系すら存在しない」のであり、敵はアメリカと旧ソ連である、と考えるのが普通だと思うけどなあ。……と、余計なことを長々書いている時は、おれが欝な時か現実逃避している時です。

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2005年11月16日 (水)

最近出た、有名な対談本を読んで思ったこと

まだ全部読んでないけど。内容についてはあんまり書くことがない(爆)。思ったこといくつか。大学の世界と関係ない人には、興味ない話です。はい。

まず、こういう人々を「マスメディアに出ている」とかいう理由だけで批判するのは、品性下劣である。
そういう人に限って、くだらない微細な世界に閉じこもっている。そういう人を養っているのは、たいがいくだらない「福祉」であり、自分の享受する「福祉」の方が「マスメディア知識人」なんかよりよっぽど有害であり、いろいろな人の不利益の上に成立しているものであり、そして今現在日本の問題の根本とされているものであることに、まったく思い至らない。
今現在「福祉」を享受しておらず、たぶん将来も享受しないのに、こういう思考回路を引きずっている人は、残念だが一番救いようがない。自分の敵が見えていない。どう考えても敵である存在の肩を持つことにこだわっている。そういう人は今どこにでもいる。私には理解できないが、「人生それぞれ」なので、まあお互い勝手にしましょう。

その上で思ったこと。たぶん、ゲームのルールは変わっている。私はよく言うんだけど、音楽にたとえると(笑)、ある方向で「卓越化」していった先に、たとえば「デスメタル」というジャンルがあった。そういうことをやることに、説得力と経済効用のあった時代が、かつてあったのだろう。知らないけど。
でもゲームのルールは変わった。その「卓越化」の方向は、どうでもよくなった。というか他人をけなして「卓越化」するということ自体が、ルールから外れていっているのかもしれない。
ここ20年くらい、いろんなルールが出てきては消えていった。でも私が思うに、少なくとも短期的には、もう単一の方向に収束してきている。それがこっちにまだ波及してきてないだけだ。そして波及してくる過程で、「古いルールの大部分は、単なるどうでもいいことになって消えて行く」。残るのは、そこで成功した人たちの既得権益だけであり、充分な既得権益のある人たちは、その後何をしたって安泰なのである。

だが我々は、新しいルールで動かなければならない。その見立てが必要なのであって、古いルールをなつかしんだり、逆に粘着質に反発したりしても、何一つ益にはならない。ルールが見えていなかった、そもそもそういうことを考えていなかった、見立てが間違った、等々で失敗しても、それは「既得権益者のせいでも何でもなく、自分がバカだっただけ」である。そんなシビアさを実感できるという意味で、買って良かったと思う。そんで自分の原稿書かなきゃああああ(笑)

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2005年11月12日 (土)

石沢浩一,塩沢英一,和仁廉夫,小倉利丸『東アジア・交錯するナショナリズム』社会評論社.

ちょっと現実逃避更新。ごめんやっぱムリそう>業務連絡

それとは別口で、新しいお仕事を頂いた。うれしいな~。最初はどうなることかと思ったが、何とかなりそうな気がしてきた。しかし「気がしてきた」だけなので、まだまだ予断を許さない。

そして、日・韓・中・台・香をまたいでナショナリズムを考察するという、意欲的なこの本。なんだけど、ちょっと筆者によって文体がバラバラ過ぎるのが残念。あと、一部の人によるオレ自慢の嵐は勘弁して欲しい。

印象に乗ったのは、韓国のパート。
いつかちょっと書いた「抵抗民族主義の韓国国内における微妙な位置づけ」を指摘して、「あれは国内では抵抗なんだよ、単純なナショナリズムじゃないんだよ」と主張するという主旨になっている。
<そんなことすら知らない>あまりにもレベルの低い議論が多い中、そう言いたいのは分る。でも私が思うに、そういう言い方ではもう通じないんじゃないでしょうか。韓国国内においても「抵抗民族主義」が「道徳的に善だ」の一点張りで乗り切れる時代はもう終わってるだろう。そこに「付き合い過ぎる」のも、それはそれでおかしいような気がする。
というか、紹介するなら、党派的な対立から距離を取らないと、説得力を欠くことになると思う。最近、この手の「韓国政治はすげえ」という主旨の本がよくあるけど、意味不明の幻想と反感との、ともに不毛な反応を招く役にしか立たないだろう。というかもう招いていると思う。

小倉氏による日本のパートでは:
 戦後の親米ナショナリズム
→政治のイデオロギーから経済的なナショナリズムへの転化
→冷戦終結とともにその物質的な土台が揺らいだことによる「内破」
→ポスト戦後=反米ナショナリズムの発生
……という経緯が手際よくまとめられる。そして最新形としての「反米ナショナリズム」にも、「アメリカ流ライフスタイル」を払拭できるほどの内実はないとされる。
まったくその通りだと思う。だけれども、そういう「ナショナリズム」が「なぜいけないのか」がよく分からない。
たぶん「いけない」と言いやすかったのは、上で言う「経済的ナショナリズム」までだろう。そしてその「経済的ナショナリズム」が「内破」したことは、「今までナショナリズムと呼ばれていたものは、実はナショナリズムじゃなかった」ことが明らかになった過程でもある。
たとえば、日本の高度成長をもたらし、ナショナリズムの核とされていた「日本的経営」は、自国民を選択的に「移民労働者化」していた。その恩恵を受けている「かのように」思っていた人々も、実は「社畜」にされて競争力を削がれていただけだった。そういうナショナリズムが想定する「国民」とは、誰のことだったのか。要は、「ナショナリズムはいけない」ではなくて、「ナショナリズムではなかった」のであり、この上さらに「ナショナリズムはいけない」という言い方に固執する意図が私にはよく分からないのである。

「経済的ナショナリズム」が「いけなかった」理由はもう一つあって、当時はアジアの中心に日本があり、周囲からもそう思われていた。そういう厳然たる環境条件があった。だから、戦争責任という意味での「アジア」を賭け金にしながら、その「アジア」自体の主体性をまったく認めないで良かった。その内部で何が起きているのか、全然知らなくても良いし、都合の良い相手の声だけ輸入すれば良かった。
だけれどもそういう環境条件は、日本が反省するか否かと関係なく、崩壊したんじゃないか。今現在日本がアジアの唯一の中心だと思っている人は、よほどのバカだろうし、日本の外にはすでに一人もいないだろう。10年後だったらなおさらだ。なのにまだ旧来のやり口で「ナショナリズムはいけない」を繰り返していても、国外では空回りになるだけだ。
意地悪な言い方をすれば、たとえば「国境を超えた民衆の連帯」のために「複合的なアイデンティティ」を求める(結論部)、というようなことを中国で言っても、「空想的共産主義」の一言で、誰にも相手にされないだろう。
そんで国内からは「国益のためにならない」とかいう反応を招くだけだろう。たとえば「歴史問題の解決」のためにしても、何一つ役に立たないことは確かだ。

たぶん「ナショナリズム」という概念を狭く限定しないと、問題をぼやかすだけだと思う。たとえば石原慎太郎人気には確かに「ナショナリズム」が含まれているかもしれない。でも最近の日本語ラップとか『凶気の桜』とかを「ナショナリズム」と名指しして批判することに、いかほどの意味があるのか、よく分からない。というか全体の主旨から言うと「親米意識の相対化」として評価するべき事態なんじゃないかとも思う……けどどっちにしてもあんまり意味ないと思う。
……と、私とは考えがいろいろ違うけども、「日本のナショナリズムの来歴のまとめ」として<使える>論文だと思います。はい。

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2005年11月 9日 (水)

森山茂徳,1998,『韓国現代政治』東京大学出版会

ちょっと前に、たまたま古書店で見かけて買った本。これが意外(失礼)な名著で読みごたえ満点。むちゃくちゃ参考になる。私は知らなかったが有名な本なんだろうか。

韓国現代史を、「分断体制」の生成~確立~変容、という太い軸で分析しようという主旨。
たとえばユン・コォンチャの『現代韓国の思想』が、ほぼすべて広義のマルクス主義の圏域にあると言える「韓国の(進歩派)思想」のみを追ったもの(まあそれはそれで非常に貴重な整理・紹介なんだが)なのに対し、こちらはたとえば富永健一みたいな文体で巨視的な枠組みを提示してくれる。
最近の私は後者の方が好き、というか前者の路線は「幸せな世代」がやっていた駄ボラに過ぎないのであり、若い世代がその路線を目指すのは「自殺行為」だと思っている。その点に日本も韓国も変わりはないんじゃないかな。
私自身の認識を言っているだけで、他人がそちらへ行くのを止める気は毛頭ないけども。あと前者の路線を「頭ごなしにバカにする」人に限って、無意識に駄ボラパラダイムを引きずってたりするのも往々目にする光景である。

情報量が多い本なので要約などできないんだが、私の関心から興味深かったのは、「抵抗民族主義」と高度成長との複雑な関係について。単純に「反日とか左傾化とかがどうのこうの」言っている人は真っ先に読んだ方が良い。

下敷きになっているのは、対日「抵抗民族主義」が、そもそも初めから「権威主義」との癒着を持っており、民衆と権力者という分裂の契機をはらんでいたこと。
そういう「抵抗民族主義」と、私の言葉でいい加減に言えば「経済的リアリズム」との乖離が、すなわち韓国戦後史における政治的対立構図の上で重要である。

まず李承晩政権は、反日という点では「抵抗民族主義」と親和性を持ちながらも、分断を前提とする「反共」イデオロギーで決定的に対立することになる。ここから、現代まで続く「韓国のナショナリズム」の困難さが派生する。
その後朴正熙の維新政権下で完成形を見る「分断体制」とは、民族統一を目指す「抵抗民族主義」の抑圧と、反共的権威主義体制の確立である。

ところが、他方で朴正熙体制は経済発展を至上目標とする開発体制でもあった。朴正熙は「内包的(=自立的)経済発展」を早くに放棄し、外資依存による「輸出工業化政策」の路線を打ち出す(ちなみに、自立発展に固執したために発展が遅れ、「20年の回り道」を経て90年代からこの路線を明確にしたのが中国である)。
この路線は国内の低賃金労働力を必要とするので、労働運動の抑圧をともなう「国家コーポラティズム体制」を必要とした。
加えて、この「輸出工業化」の文脈で、「西側諸国との連携強化」が必要となり、日韓基本条約締結やベトナム派兵が実行される。この二点で、労働運動および「抵抗民族主義」と政権側との軋轢が極大化していく。
加えて、財閥癒着・貧富格差拡大・地域不均衡などの問題をはらみながら、韓国の高度成長が進行する。

その延長にあった全斗煥政権下では、日米からの軍事・経済援助という形で、この体制に国際的な正統性が付与されたと認識され、それがまた国内の潜在的な反発を強める。
しかし続く高度成長の中で中間層が増大し、彼らの発言力増大と不満の蓄積が「6月民主化抗争」を生む。その後の盧泰愚~金泳三政権では、民主的改革を一定程度実現しながらも、政権のレームダック化が財閥改革を遅延させ、それが労働運動に油を注ぐことになる。この過程で明らかになっていくのが以下の事態である:

 「民主化運動勢力は「6・29宣言」で民主化が実現されると幻想を抱き、民主化を「分断体制」解体の方向に導くのではなく、外国勢力の介入および韓国の反共主義を非難するという路線をとり、安保・成長に関する新しい論理を打ち出すことはなかった。このような民主化勢力の分裂と路線採用とは、政府が安保・成長を国民的課題として打ち出す時(野党総裁である金大中も安保・経済を課題とした)、これに有効に対応できないばかり(138)か、国民を民主化勢力から切り離す結果をもたらした。しかも「6・29宣言」以来、社会運動は多様な階層の大衆運動へと分化、多様化し、民主化という課題が労働者、農民などの階層を動かすのではなく、これら階層の具体的利益と要求とに従って社会運動が発展するという状況を生み出した」(139)

以上のような過程は、「抵抗民族主義」としてのナショナリズムが、高度成長に課せられた条件下でいわば恒常的に「神話化」されることになっていった構図であり、「386世代」として象徴される韓国の「戦後史清算」・「反日反米親北路線」とはすなわちその顕現なのだと思う。
そして私が思うに不幸なのは、それが「経済的リアリズム」から構造的に「遊離していくようにできている」ことなんじゃないか。こうした「抵抗民族主義」としての「革新」と、「高度成長の恩恵を受けた人々」による「保守」という対立軸がある限り、「ポスト工業化」にともなう諸問題なんてのは議題に上りにくいんじゃないか。
逆に言うと、こういう擬似的な保守/革新枠組みは、「否応なく押し寄せるグローバル化」に対する脆弱性が極めて高いと思う。「結局、政治なんてのはどちらもウソ」ということになり、一足飛びに「拝金主義」とか「敗者の自己責任論」とかへ行くドライブを提供しているような感じもする。

その辺に私は日本との連続性を見出したいのだが、このエントリを書いていてたぶん無理だなと思った(爆)。ま、おれのブログなんだから、いいんだ、思いつきで。

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2005年11月 7日 (月)

金正【サンズイ廉】【キム・ジョンヨム】,1991,『韓国経済の発展――「漢江の奇跡」と朴大統領』サイマル出版会.

なぜか今日は久しぶりな人々といろいろ連絡を取った。皆様お元気なようで何よりだす。
きわめつけは、某所にイトコが入ってきてメッセージが来た。おーもう大学○年生か。出会った時は赤ちゃんだったのにな(当たり前だっつーの)。
おれも今、大学で授業とかしてるけど、まだ下っ端でバイトみたいなもんで、そのうちイッパシになるべく頑張っとる状態です。はい。お互い頑張ろうな。そして「今の世の中にはいろいろなウソがあふれているけど、だまされないように気をつけろよ」。今度飲みにでも行こう。

さて韓国のことが手薄なことに気付き、今さらネタを仕入れている最中に読んだこの本。著者は朴正熙政権下において重要役職を歴任した人物。たぶん韓国のイデオロギー布置において、知識人層からは「親日保守の権化」みたいにされかねない人なんだろうが、私はあんまりそういうのに興味がない。

なんかオレ自慢のどうでもいい話が多い本なんだけど、面白かったのは、「ニクソン・ショック」(=ここでは駐韓米軍削減の動き)をきっかけに、国産軍事産業発展のために「重化学工業化宣言」が出されるくだり。言われてみればそうだよなあ。
韓国における「石油危機」の経験はこういう形だった、と考えると、何とかおれの今までのハナシと接点が見出せないかなあ。それにはもうちょっとネタを仕入れないとなあ。みたいな感じで今週も暮れていってしまうのであります。はい。

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2005年11月 6日 (日)

堺屋太一,1976(→1980),『団塊の世代』文藝春秋.

本日はいくつかお誘いを頂いたのだが、家でないとできないことがいろいろ溜まっており、終日自宅作業。でもたいして進まねえのが、この手の仕事の因果と言うべきだろうか。

唐突ですが、最近こればっかり聴いてるManu Chaoのアルバム「Radio Bemba Sound System」。かっこいいなあ。基本的には「スカパンク」ということになるんだろうけど、土俗的な臭いがして、こっちで言う渋さ知らズとかソウルフラワーユニオンとかと近いことをやろうとしているんだと思う。
このメンバーでフジロックに来たことがあって、観たんだけど、当時私はこの人の存在をまったく知らず、たぶんグループ内でぜんぜん下っ端の黒人コーラス(こっちの方がずっと大柄で目立つ)をManu Chaoだと思っていた。
彼はフランスで有名になったスペイン人で、Mano Negraという、90年代フランスのインディーズで最も有名なバンドをやっていた。Mano Negraの「Casa Babylon」もすんごいかっこいい。マシンガ~ン~
DIY志向と反米志向の強い政治性でも有名らしい……んだが、私はヨーロッパのコンテクストがよく分からんし、率直な話「そういうのを真に受けてもいいことねえよ、たぶん」。だが単純にかっこええぜ。

それはともかく、つい先日、今さらながら初めて読んだこの本。
今では「勝ち逃げ世代」として非難ごうごうの「団塊世代」という言葉が、もともと「人数が多いからこそ過当競争にさらされる」というニュアンスで発案されたことがよく分る。

当然予想される就職難からは、高度成長により免れた。また彼らの相対的な低賃金は日本産業の発展にとっても有用だった。しかしすでに従業員年齢別構成はピラミッド型から中ぶくれに変化している。
「そして、毎年確実に上昇して来る人数の塊は、より高い賃金とより高い地位とを求めているのだ」(20)
「成長の止った企業にとって、増大する人件費を支払い、年を取って来る多数の社員に然るべきポストを与えることは、到底不可能である」(21)

この本は、1976年の時点で80年代のいつかを予測して書いた「近未来小説」であり、「この世代の賃金圧力上昇による問題がいろいろ起きる」という予想は当たっている。たぶんその意味で先駆的だったんだろう。
ところが、ここで分るのは、要は彼らの「過当競争の苦労」というのは「社内のポスト」をめぐるものであり、それ以上でも以下でもないことだ。

おそらくこの本の認識が下敷きとなって、その後「終身雇用・年功賃金と団塊世代」をめぐる問題は、「彼らにふさわしい地位が与えられない」という「ポスト不足」による「生きがいの喪失」、という恐ろしく卑近・表層的・かつ気楽な問題としか捉えられなかった。1980年前後にはそうした著作がたくさんある。そんなんが大真面目に政策的議題として取り上げられていたのだから、気楽なもんである、と今の時点からは言わざるを得ないだろう。

この小説も、全4話はすべて「社内のゴタゴタに巻き込まれて、ポストを諦めざるを得なくなった団塊世代の悲哀」を描いたもの。これが彼らの生きてきた地獄である。その悩みとは、個人の実存でもなければ、経済の投機性の高まりでもなければ、後進国の追い上げでもない。「社内的な人間関係」と「ポスト争奪」である。

現在では、経団連みずからが「会社人間から競争力のある個人の育成へ」と訴えるようになった。こういう「社内の権謀術数」なんてものはいらなくなった。
欧米ではこの過程は70年代に進んだ。会社組織を堅固に囲い込むことの経済効用がこの時期に急落し、労働者は「技能を持った個人として会社を渡り歩く」ことが普通になったからである。ところが、日本でそういうことが言われ始めたのは90年代に入ってから。
団塊世代とは、この狭間で「まったくどうでもいい苦労にほぼ一生を費やした」人々であると言って良いだろう。「おれもお前もだまされた」という訳だ。それは確かだけど、そういうの免罪符として使われるとたまらないんだよね。とはいえ、彼らの「人生のムダさ加減」をもすくい上げる形で論を組み立てないといけないのも確か。

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2005年11月 4日 (金)

ゴードン、デイヴィッド・M,佐藤良一・芳賀健一訳,『分断されるアメリカ――「ダウンサイジング」の神話』シュプリンガー・フェアラーク東京,1998

たぶん会社でバリバリ働いている人とか見ると「ケッ」という感じなんだろうが、私の主観としては最近「めちゃくちゃ忙しい」。金でもなく名声でもなく、どこへ向かって前のめり?

本日はある会合にて、去年まで学生さんだった人々と再会。みなさん立派に仕事をされていて感動。テンション低めですみませんでした。次回はぜひ痛飲しましょう。
そして若者の労働状態についてしばし思いを巡らす。私にとっても他人事ではない。目に見える敵はいろいろいる。でももうちょっと巨視的な所で敵を探さないといけないように思う。彼らは彼らの地獄を生きてきたのだろう(しかもまったく無駄な苦労として)。
そして、我々の苦労を「わかってくれ」とか言うのが甘えであり醜いのと同じ意味で、私は彼らの生きてきた地獄にはまったく興味がない。o本y夫とかは「若者より団塊の方が苦労してきた」とか言っているけど、そういう権利主張の仕方はどっちにしろどうでもいいものでしかない。もうちょっと違う枠組みが必要だ。たぶん。

ところでこちらの本は、80~90年代にアメリカで企業のダウンサイジングが進んで、中間管理職が大量にリストラされ、「フレクシブル労働」化した、という通説に異を唱えたもの。
実は、単に「他の従業員を監視する」という職務であり生産性がゼロに近い人々=「企業官僚」が、アメリカには大量に残っている。彼らは高賃金をもらっており、リストラされても別の企業で同じく「企業官僚」に再就職する可能性が極めて高い。
これと関連して、大多数の労働者に生じている「賃金圧縮」という問題が、労働への不安、ひいては家庭内トラブルや犯罪増加などの「コミュニティ問題」の真の問題であるとする。「グローバリゼーションによる製造業空洞化」も「オートメーション化による職業消失」も疑似問題でしかないのだ……みたいな主旨。

相変わらず詳しく書いている時間がないのだが、日本はこの「企業官僚」がアメリカよりはるかに少ない国、として登場する。でもそうかな。実感レベルでは「日本でも近いことが大いにありそうな仮説」だけど。
そして、「お前ら計量もできねえのかよ」とかおれなんかに文句言う人が多い中、「こういう骨太な仮説を立てる人が現在の日本で皆無に近いのはなぜ」とか、余計なことを言いたくなってしまうおれ。

もう一つ言うと、この本にも出てくるけど、90年代くらいに英語圏で登場した「ダンピー(dumpies)」という言葉がある。「下降移動する専門職downwardly mobile professionals」のこと。「一見専門職に見える」けど、実は「中産階級から下落する人々がやる」仕事のことだ。はっきり言えば下層のIT雇用とかが典型。
「実学志向」とか「理系偏重」とかいうのは、結局はこの「ダンピー」を大量生産することであり、後進国ではそれを積極的に推進せざるを得ない。今の日本のことであり今の中国のことだ。みんなだまされるな。大学の世界も例外じゃないけどね。

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2005年11月 2日 (水)

葛慧芬【カツ・スイフン】,1999,『文化大革命を生きた紅衛兵世代――その人生、人間形成と社会変動との関係を探る』明石書店.

火曜日も非常勤。その後また少々インタビューっぽいことをする。いろいろ参考になるなあ。
その後ある会合にお招きされる。ここで一言。「『将来どうするの』という問いの重さに、歴史もナショナリズムも関係ないのである」。とにかくKさんありがとう。

ところで、現在中国の「お荷物世代」とされがちな「文革世代」のライフコースを調査したこの本。サンプルは少ないが、質問紙調査とインタビュー調査の両面から、文革と個人のライフコースとの関わり合い方を探っている。

おれが思うに、どこの国でもある話だが、なぜ「お荷物」かというと「競争力がない」から。なぜ「競争力がない」人が出てくるかというと、ざっくり「福祉国家」といいますか、「頑張っても頑張らなくても収入にたいした差が出なかった時代」に社会化されたから。

「社会主義」というのはその最たるものであり、「文革世代」は社会混乱のおかげで教育も受けていない上に、「社会主義」の理想を重視している人が多い。なので、特に下の世代から見ると「仕事できない、やる気もない」ということになりがちらしい。

この本はどちらかというと、「そうは言っても彼らにもいろいろあったんだ」という趣向になっている。学業修了-就職-結婚-出産みたいな「標準的ライフコース」に対し、学業停止とか下放とかのせいで、順序が入り乱れた「非標準的ライフコース」が多い、というような主旨になっている。
それはそうなんだろうが、今現在「標準」というのを措定し、そこからの「逸脱度」を測る意味はあまりないような気もする。ライフコース論の専門書という形になっているから仕方ないんだろうが、どちらかというと彼らの世代体験を、改革・開放がどんどん進行した後のマクロな話とつなげて欲しかったな、という感想。でも資料としては分厚くてかなり参考になる。

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2005年10月27日 (木)

金振松【キム・ジンソン】,川村湊訳,2005(=1999)『ソウルにダンスホールを――1930年代朝鮮の文化』,法政大学出版局.

この本との出会いは二年前あたり。ソウルへ行った時、姉貴に買い物を頼まれたため。
当時韓国語をまったく解さなかった(今でもたいしたことねえけど)私は、「紀伊国屋というよりタワレコ」みたいな内装の巨大書店「教保文庫」に向かった。
メールで聞いていたのは、著者名と書名の日本語訳。「相当なベストセラーらしいからすぐ分るだろう」とのこと。カウンターの店員の姉さんに聞くことにする。

私  「キムジンソン、ダンスホール、オディエヨ」
姉さん「(何やら韓国語)」
私  「えーと、ダンスホール」
姉さん「(ものすごい怪訝な顔)」
私  「あ……あの……ダンスホール(ボソリ)」

そして姉さんは不機嫌かつ足早にフロアへと消え、この本を持って来てくれた。この程度の情報で相手が認識するぐらい有名な本。
このたび、めでたく日本語訳が出版された。原書は「ポップアカデミズム」みたいな感じで出版されたらしく、デザインも凝った感じだったが、訳書は完全に「学術書」然としている。

ここでいきなり話が固くなるが、現在でも韓国の社会学というのはものすごい「観念的」な所があり、「近代的人間形成と主体性従属化の理論」(あくまでたとえば)とかいうのが論文とか本とかになって、引用文献がアリストテレスとかカントとかそういうのばっかりだったりする。ノリで言うと、マルクーゼ読んでた団塊世代とかに近いのかなあ。
私が見る限り、こちらに来た留学生の何割かは当初「それが当然」と思っており、「こちらではそれを社会学とは呼ばない」ことに気付いてびっくりする。そこで自分の専門を形成しようとするが、やはり韓国独特の、やや漠然とした「民主化パラダイム」が抜け切らなくて、話がおかしくなる人が多い。
あるいは逆に、「イデオロギーばっかりの議論」に嫌気が差して、真逆の「統計・計量一本槍」になる例も多い。どちらも気持ちは分るが、やはりどうかと思う。そして、そんな留学生を見て「あーだーこーだ」言ってる日本人たちの側にも、ほぼ同じような構図が存在していることは火を見るより明らか。

この、原題『ソウルにダンスホールを許せ』は、韓国の文脈では「そんなこれまでの社会理論」に対し、「より細かく歴史資料を読み込んで行こう」という主旨を隠し持っている(それがすなわち韓国のカルチュラル・スタディーズなんだろう)。「読むべき文献資料」という形で、植民地時代の新聞や雑誌資料が大量に転載されている(それが全体の半分くらいを占める)のもそのため。

大筋としては、「新しいモノの流入」としての「近代」を、植民地時代の朝鮮に見るという枠組みになっている。つまりメインテーマは「西洋との出会い」で、「日本」の話題はどちらかというとサブ。
韓国における「近代」が、政治史的な事件性に回収されたり、また知識人が被植民地の悲憤慷慨と自己苦悩にばかり拘泥してきたために:

「その当然の結果として、近代を生きる人々における近代性の体験は、教科書に登場する図式的な生活と、日常の実際的な暮らしに対する肯定と否定、本物と偽物の間をどこまでも滑り落ちながら、そのどこかの場所をさまよっている」(7)

と述べられているのも、「漠然とした民主化パラダイム」によって「被植民地近代の跛行性とかいうのを哲学的に述べればそれで良し」的な旧来の傾向に対するアンチテーゼであり、「日常社会意識」(?)というカルチュラル・スタディーズとの接点をそこに見ようとしているのである。

しかし、しかしながら、当時の「流行と大衆文化」を扱った章の冒頭で:

「意志や信念ではなく、欲望の情緒や感情が噴き出している植民地時代の流行歌や映画が、民族や歴史や独立を叫んでいたという想像は、当然ながら、しないほうがいい。大衆文化は歴史の産物だが、歴史を語るわけではないからだ。ここでは大衆の対抗や反発の歴史は消えてなくなったかのように見える。
 今や植民地というくびきの中で、大衆はもう一つの束縛を受けるようになった。それは現実から直接要求される闘(155)争からしだいに遠ざかり、そのような世相に流されるしかない存在になったということだ。したがって、現代が始まる植民地時代の朝鮮での大衆文化の本質は、悲劇的、外来依存的、無抵抗的、感覚的、退廃的だといえる」(156)

と述べている部分に象徴的なように、「明らかにこれはカルチュラル・スタディーズではない」。本書でいろいろ分析されるすべてが、結局「日本の植民地統治のせいで近代化に頓挫した」という「未完の近代への永遠の希求」で終わっているのも偶然ではない。要するに旧来のパラダイムから抜けていない。

詳しく書いてる時間がないのでアレなんだが、韓国における「理論」というものの限界を示している本なんだと思う。
私は、日本においては「みんな豊かになれる/なれた幻想」と、それを背景にした「漠然とした贖罪感・良心」みたいのがその「限界」を形成していると思っているんだが、韓国において「未完の近代への永遠の希求」(おれの適当な造語)はそれと同じ機能を果たしてしまっていると思う。どちらも、ぶっちゃけ「分析者としてそれしか思いつかないんだろうか、身近にこんだけ問題山積してるっていうのに」という感が否めないのである。

日本でも韓国でも、こういう「パラダイム」がどんどん瓦解し、「グローバル化」の中に投げ込まれていく。それが、「要は結局シゴトとオカネ」ということかもしれん。はっきりいって、こういうことは社会の実態がどうというより「アカデミックあるいは出版マーケット」の如何によるものなので、「日本/韓国ではそれで良い」ということなのかもしれない。でもそれは「ウソをつく」ことなんだと私は思うし、そのウソは投票行動を通して現実政治に還流していく。その結果「いろいろなものが議題がこぼれ落ち、変なことばっかりが争点になる」。とりわけ「リベラル派」が人々に訴えるべき議題がぼやかされてしまう。そういうことが日本でも韓国でも(中国でも)起きていると思うし、「アジア外交問題」というのはそういう構図の中にはめこまれているという「不幸」があると思う。

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2005年10月26日 (水)

西倉一喜,1983,『中国・グラスルーツ』めこん.

火曜日は某大学にての勤務日。3コマ連続なのでかなり疲れる。今期は学生さんたちがやる気あって、いい感じ。しかし肝心のおれの授業は一部で大失敗。

本日は、加えて「直接おれの知り合いの人々には大体おなじみの某案件」ミーティング。久々にEK先生にお会いして一安心。頑張ろうという気になった麻布十番の午後9時半。我々は、どこに出しても恥ずかしくない「職能集団」なのである。そんな感慨を久々に抱いた。

脈絡ないが、非常勤先でお世話になっている先生にお借りしたこの本。文革直後の混乱が日本に伝わってきた時期の本ということのようだ。
当時、2~3000万人と言われる「待業青年」(若年失業者)が出現していた。その雇用拡大を目的のひとつとして、サービス産業振興に政府は力を要れ、茶館(喫茶店)が多く出現。待業青年や臨時工のたまり場となっていた。

「無気力でシラケきった彼らの表情には、文革時代に報じられた『目を輝かせて中国の未来を語る若者たち』のかけらもうかがうことはできない」。
「『社会主義国に失業者は存在しないことになっている。だから失業保険はない。30歳になってもまだ親のスネをかじっているオレに彼女ができるはずもない』とある待業青年は度の強い合成酒をあおり、うさを晴らす」(14)

あるいは:
解放前に大工をしていて引退し年金生活の父親と、待業青年の息子の家へ招かれる。外国人にひどい扱いをされなくなったし餓死もなくなったと革命・解放を回想する父親に対し、息子はナンセンスと言いたげな表情をする。社会主義に満足しない「革命第二世代」。この時点で革命を知らない世代が10億のうち3分の2近くを占めていた。
両親が寝室に消えた後、息子が語る。
「もう両親とは議論する気もなくなったが、オレたち解放後に生まれた者は。解放前と比較されてもピンとこないんだ。まじめにやれと言うが、最近共産党がまたやり始めた“雷鋒(模範的な解放軍兵士の実名)に学べ”というわけか。新中国成立後、30数年もなって、外国と比べ中国がこんなみじめな状態にあるのは没有頭脳【メイヨウトウナオ】(独立志向ができないことを皮肉る表現)な雷鋒式の人間が多すぎたからだ。もう父親の時代とは違うのだ」(99)

ここで語られている青年たちの一部が、旧来の社会主義的なセーフティネットから外れてしまったことを逆手に取って、零細自営業を開業、そこで成功した者が「ニューリッチ」化していく。
他方、「旧来のセーフティネットになんとかすべり込んだ」人々は、今は農村からの出稼ぎに次ぐ「お荷物人口」としてレイオフの標的になっているという皮肉。それは「中国の過ち」を示すのではなく、「日本が忘却し無視してきた何か」を先んじて示していたと言えるのである。おそらく。たぶん。

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2005年10月25日 (火)

クープランド,ダグラス,黒丸尚訳,1995(=1991),『ジェネレーションX――加速された文化のための物語たち』角川文庫

月曜は某所でオヒスワークがあり、夕方勤務明け後、研究室に深夜までこもるのが通例。

私はあんまり年下の友人というのがいない。根っから弟分(でも時々暴走)というか。かといって年上の友人がたくさんいるかというとそうでもない。要は、単に「人付き合いベタ」もしくは「友達がいない」(笑)だけ。

私の携帯(つーかPHS)は、もう思い出せないくらい昔に0円で買ったモデルで、ウェブ見られないどころか、カメラもなければゲームもない。
「なんで機種変しないんッスカ」とかよく聞かれるんだが、昨今重要なやり取りというのはメールですることが多く、電話はプライベートな友人とのやりとり用が主になりつつあると思われ、「そうなると月に一辺くらいしか使わないものに金をかける気がしないから」。

今日は数少ない後輩のSM君に会った。SM君もいろいろあるらしかった。SM君は昨日買った黒のジャケットをほめてくれた。おいSM見てるか。

今日はこの小説(※ネタバレあるかも)。こちらも、「アチラではかなり前から論じられていた流動化」シリーズの一環。ドロップアウトした、もしくはそれ以外に選択肢のなかった、低賃金サービス職種に就く男女3人が、一緒に砂漠に旅して身の上を語り合うというような筋。

今の日本に通じるかというのは、たとえばベビーブーマー世代のかつての会社の上司に、主人公の一人が言うこんな言葉とか。
「あんたの真新しい百万ドルのお屋敷の話を聞かされて楽しいと、本気で思ってるのかね。こっちは小汚くて狭苦しい小部屋でクラフト・ディナー・サンドウィッチを食うのがやっとで、30歳も間近なんだぜ。付け加えさせてもらえれば、あんたが遺伝子宝クジで勝った【ママ】家でしかない。単に歴史上うまい時期に生まれただけのこと。あんたが今ごろ、ぼくの歳でいたら、十分間ともたないぜ、マーティン。しかも、ぼくは今後一生、あんたみたいなノータリンが上で腐っていくのに耐えなくちゃならない。そっちはいつだって、いちばんおいしいところを取って、残ったところのまわりには、有刺鉄線のフェンスを張りめぐらしちゃうじゃないか。ほんと、あんたにゃ気分が悪くなるよ」(40)

あと、文化的な「クール」にこだわる主人公たちが持つ、同世代の「ヤッピー・ワナビー」に対する違和感とか。女の主人公は、そういう男と恋仲に落ちそうになるが、男は「君の崇高な理想には付いていけない、僕には現世利益の方が大事なんだ」というようなことを語って去って行く。でも彼にしたって、X世代の絶望を別の形で生きているだけなのだ……と。

なんか、ジェイムソンを読んでそのまま書いたようなフレーズが散りばめられてたり、ラストとかもあんまりな気がしなくもなかったりするんだが、とりあえず「読みようによってはちょっと面白い」一冊。
関係ないが、文庫本解説の勘違いっぷりも見物のひとつ。訳者(RIP)が自分で書けば良かったのに。

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2005年10月24日 (月)

大平健,1990,『豊かさの精神病理』岩波書店.

服装に興味の大半を失ってから久しい。ヤング(死)に混じるのが面倒くさく、かといって「ちょい悪オヤジ」をめざすには金がまったく足りないため、服の買い物はたまにヤフオクでするぐらいだった。
だが最近、落札後「実物に出会うと同時に、ケースの奥底にそっとお引き取り願う」事例が頻発。ヤフオクで学んだ通販生活の鉄則は「トップスなら多少の誤差はなんとかなるが、パンツ類は試着しないと即廃棄決定」ということ。とはいえ、もう一度チベットにでも行く機会があれば(絶対ねえけど)、着て行って捨てて来ようと思い、一応保管はしてある。

そのため、今日はすんごい久々に服を買いに出かけた。黒のジャケット他数点を買ってみたのだが、帰ってから手持ちの物と合わせてみると、全然合わない(笑)。これだから面倒くせえんだよな。ま、下北沢という場所柄そんなに高くなかったし、楽しかったからいっか。
(……なんか文体が「連邦」みたいになってきたな)

そんな夕暮れに思い出したのがこの本。人間関係、他者イメージ、そして自己認識のすべてがモノに仮託されるという「モノ語り」が、近年(つっても1990年当時)の「従来の精神病と違う、悩み相談みたいな受診」の背景によく見られる、という主旨。

たとえば、職場の先輩との人間関係悪化から不眠になった、と訴える若い女性は、その先輩のことをこう語る。
「そのオバサン、若ぶっちゃって、LLビーンのトートバッグか何かで会社に来るんですよ。靴もオイルド・モカシンで会社でパンプスに履きかえるの。なに気どってんのって皆で笑ってますよ。若い娘のまねしてリーボックならまだ可愛いいですけどね。私はあんたたちより格が上だって態度がイヤ。単なるオバサンなのにね」(9)

これら「モノ語り」の「精神病なき患者」に共通して見られるのは、「リッチ」や「ランクアップ」に対する飽くなき欲望であり、それをモノの購入としてしか認識できないことが、家族や同僚に対する不信感や落胆、あるいは自分のアイデンティティ喪失を招くとする。究極的に「リッチ」なものなどないため、常に相対的な欠乏感を覚えることになるからである。

一読して、語りを引用される人々の「リッチ」に対する飽くなき欲望に、驚きを感じる。そんな時代もあったんだなあ。
この本を、数日前に紹介した「Landscapes of Poverty」と読み比べてみると、なかなか面白い。部分的には共通する所に目をつけている。でも、「みんながみんなリッチになれる訳じゃないんですよ」と言い「そう言えば済む」とするか、「新しい貧困層が現れている」とするかではずいぶん違う。
なんでそういう違いが出るのか。当時のイギリスと日本の実体的な状況の違いもあるんだろうが、それよりもやっぱり「工業化-ポスト工業化」とかいう枠組みを持ってたかどうかだと思うんだよな。
現代の日本を覆う不安感が、「貧困化」ではなく「中間層からこぼれ落ちそうだ」というだけである点は、「豊かさの精神病理」をワンランク下げた形で再現している、のだろうか。そういう言い方だとそうなるかもしれない。でも、その不安を個人の「精神病理」に帰すことに何の益もないのは明らかだ。

そういえば、ばったりおれの姉貴分に会った。久々だったのでうれしかった。ここの読者は多くて二人なのだが、もう一人加わって三人くらいであることが分かった(笑)。私信ですが「近いうちまた一杯やりましょう」。

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2005年10月23日 (日)

三浦展,2005,『下流社会――新たな階層集団の出現』光文社.

こないだぼやいたのとは別件で昨晩は徹夜。最近ぐったり。

それはともかく、ものすごい勢いで本を出している三浦展。この本では、独自に行った質問紙調査を元に、階層意識と消費行動の関係を云々している。
サンプル数が少ないとか、分析がいい加減だとか言う声もある。確かに、どう考えても緻密な調査・分析とはいえない。でも個人的には、「すっげえ方法論にこだわりながら、すっげえつまんないことの証明ばっかり、やたら綿密にやってる人」を見る機会の方が多いので、「それよりはこっちの方がマシ」という感想が先に来る。

とはいっても、前半部分、消費行動による若者のカテゴリー区分の話は、正直よく分からない。「かまやつ女」って何のことだ?まあそれを単体で扱った本もあるらしいので、そっちも読めということなんだろうけど。

メインは後半部分で、ファッションでも職業選択でも「自分の個性を大切にする」という「自分らしさ」志向と、「社会を上流・中流・下流で分けると自分はどこにいるか」という「階層帰属意識」とが反比例する、という議論が展開される。要するに、「自分らしく生きたい」と強く思っている人は、自分で「あんまり豊かでない」と思っている、ということを統計的に証明したということだ。まあこれだけだったら『金魂巻』と変わらないんだが、さすがにそうはならない。

趣味などに関する質問を参照するに、こういう人の典型は、男性では「パソコンの前に座ってポテトチップスを食べながらゲームやインターネットをしている人」、女性では「歌ったり踊ったりしている人」らしい。
その背景にあるのは「構造改革路線」であり、国富を稼ぎ出す少数のエリートと、適当にゲームしたり歌ったり踊ったりして内需を拡大してくれる大衆を作り出そうということ。それを要請したのは80年代後半のアメリカ(日米構造協議)である。ということは、不可避的に階層の固定化が進むということであり、それが「自分らしさ志向」をテコにして進むんじゃないか……という危惧が表明される。
証明方法はともかく、言っていることは間違っていない。問題なのは、「で、どうするの」という話が何もない所だ。

「で、どうするの」に関して、現在の文化をめぐる議論は、大きく3つある。
1)近年の世界経済の動向を見るに、そういう構図はもう前提になっているのだから、「文化で金を稼ぐ」方法を整備・確立しないといけない。
2)文化それ自体の価値を賞揚し、階層とか経済とかの問題抜きに文化を考えるしかない。
3)こういう文化と階層をめぐる構図に各個人が「早く気付ける」ように、警鐘をならさないといけない。

こういう立ち位置の違いは、往々にして、実際の社会がどうなっているかという問題というより、こういう議論をしてメシを食っている人たちの「サバイバル」に関係する問題である。
そんで個人的には、1か3かしかないと思う。2の論理は、「一周回ってニューアカに戻った」だけの話じゃないか?私は、浅田彰~日本のカルチュラル・スタディーズ~少し前までの宮台真司には、「政治・経済から独立した領域としての文化」をやたらと希求し褒め称えるという共通点があると思っていて、言っていることが同じなのになんで相互に悪口ばっかり言っているのかよくわからないんだが、いまさらそれを自分で繰り返す気はしない。

1の路線の問題は、「文化で金儲けなんてほとんど失敗する場合が多い」こと。3の路線の問題は、つまんない啓蒙発言者に見られてしまう危険性があること。というか、「そういうことをわざわざ言わないといけない」というのはかなり日本の特殊事情によることであって、おれの知る限りアメリカでも中国でも「そんなことは当たり前」であり、あと数年のうちに、遅ればせながら日本でもそうなるだろう。私自身の立ち位置は、それまでの間の「時限つき3」あたりにあるようだ。

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2005年10月21日 (金)

留学生とのインタビュー

今日は、非常勤で出講している某大学の中国人留学生、R君にインタビューを行った。中国における若者の希望と悩みみたいなこと(?)をいろいろ語ってくれた。ここでインタビュー内容を公開する訳にはいかないが、さっそく仕事にいろいろ使わせてもらおうと思う。

……というか、本当に前向きでいいなあと思った。「個人化が前提になった社会」を生きる未来の若年は、「福祉国家の幻想にすがるばかり」の老年や「不安感に打ちひしがれて逃避志向の強い」その子世代を、ともに競争力で圧倒していくだろう、というのは同僚の某AM氏がよく言っていることだが、R君と話していて私は自分自身にその危機意識を感じた。北京に行った時にも、そういう感慨を持つことがままある。
そして「もっと実学的な専門を持った方がいい」(笑)という彼の忠告を、複雑な思いで聞くのである。正直それに反論することは難しい。

でも僕は、中国人の多くが、ポスト工業化の欝加減みたいのを、逆に知らなさ過ぎると思う。なにせ、政策立案の過程でも「流動雇用の増加」は「国営企業からのレイオフ者と農村からの流入人口を吸収する、雇用創出の妙案」とされているくらい。「若年貧困者の出現」みたいな問題系そのものがほとんど存在しない、というか議論はされているけど前提条件が全然違っている。

そして、急成長が続く中でデフレが起きているような現在の中国では、そういう解釈が「まったく正しい」ことも事実である。中国の国営企業からのレイオフ者というのは、主に文革中に子供時代を過ごし、ロクな教育も訓練も受けておらず、技能も何もない世代のこと。また都市の下層サービス業は、100%農村からの出稼ぎ者がやっており、都市民は「自分がそんな仕事をする」なんてのは想像の埒外にある。
この二種類の人々は、現在我々が中国の経済成長と聞いてイメージするものを、何も共有していない。「マックジョブでもないよりマシ」なのはよく分る。

日本の場合、初めから明確に「時代の産物としてのお荷物人口」と「移民」を問題にしている中国のケースと違い、「中間層の内部」でありその継承を期待されていた層が「マックジョブ」をやっている。だからどことなく悲惨なイメージがつきまとう。でもそういう権利意識みたいのを抜きにして、マクロな構造として見れば実は同型のはずなのである。
いま日本では「希望の復活」とかいうのがよく論じられているけど、こういう「救いようのなさ」みたいのは確かに中国の議論から学んだ方がいいかもしれん。そしてこういう勘違いは、おしなべて「<階級>という問題が完全に忘却され、総中間層化の夢ばかりが語られてきたこと」に由来するのだが、その「階級差」の問題を、現在も社会主義を原則放棄してはいない中国から学ぶのは、本当に皮肉である。

他方、中国だってR君みたいな子たちばかりが生まれている訳ではない。「アルバイトで自活する」という観念がないため、いったん職探しに挫折すると、即親元に引きこもるしかなくなる。そういう人は普通にたくさんいるらしい。
それに、人々が渇望してやまない郊外の核家族用巨大マンションだって、10年もすれば陰鬱な牢獄みたいになってしまうことは、日本のポスト・バブルを生きている我々が見てきたことだ。北京郊外に乱立を続けるマンションの中には、確実に「僕たち」が育まれている。
しかしそういうのをすくい上げて論じる必要が、果たしてあるのか。そういう議論に市場価値があった時代は、日本でも欧米でも短かったんじゃないか。という問題は別口で考えないといけないんだろうな。まあ短期的には意味があると確信しているけど、長期的には。

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2005年10月15日 (土)

山田昌弘,2004,『希望格差社会』筑摩書房.

いまごろ読んだ。『パラサイト・シングルの時代』で展開された、若年層の下降移動とそれにともなう経済的悪影響を彼らの自己責任に帰する議論にまったく同意できなかったため、この本を少々敬遠していたのだ。

本書では、当事者の選択の間違いを指弾するというトーンは鳴りを潜めている。代わりに、「リスク化」と「二極化」という、近年の社会学で多用されるふたつの概念を束ねて、「希望の格差」という視点を導き出す。

これを切り口に、高度成長~バブル期の日本の来歴を、「リスク化」と「二極化」をともに(擬似的に)回避した「戦後安定社会」と規定する。

90年代からその地盤が急速に崩壊し、いわば「普通の」リスク社会化の地金が現出しつつあるという図式の上に、職業・家族・教育・犯罪増加など、近年の「不安感」を配列するという形で分析が進む。

『パラサイト・シングル』で指弾されていた若者たちの万能感やタカリ意識も、こうした戦後日本の状況と深く関係するとされる。

こうした図式の簡潔さ、明快さは類を見ないほどである。このことは、個別の事象を取り上げるという手法(ある意味「新書的」というか)ではなく、<ある切り口をもって広範な事象を整理する可能性を示す>という社会学的な関心と、一般的な読者層にも伝わる語りとが、両立されていることを示す。端的に面白くて優れた本だと思う。

この本の問題関心は、私や私の周辺の、著者より若い世代の研究者たちの問題意識と非常に近い。これを個別領域で(質的調査などという形で)縮小再生産するような研究が最近増えている、という言い方もできると思う。だから、この書物は、私や私の周辺で行われている研究の問題点を共有しており、それを自己認識させる書物でもある。

問題点はいろいろあるが、一番大きいのは、単に「戦後日本の悪平等主義への反省・批判」と取られてしまう可能性があることではないか。ざっくり言って、かつて日本の成功体験の核そのものであったはずの、会社主義をテコにした日本の総中流化というものが、90年代以後は逆に桎梏と化した、という認識は、何も改めて主張するまでもなく広く共有されている。単なる死体叩きと受け取られてしまう可能性がないではない。

しかし他方で、こうした認識が広く共有されているとは必ずしも言えないことを示す証拠に、事欠かないことも事実である。たとえば鈴木謙介が、現在の若者が持つ「認識における楽観と、客観的状況における被搾取とのギャップ」を<わざわざ主張せねばならない>のもそのためだろう。

社会学というか、より広く「評論」においても、山田の議論とは真っ向から対立するような、戦後日本の成功経験の護持をうたうものがむしろ「主流」であり、「大御所」であればあるほどそういうことを言う。蛇足だが、そういう人々の多くが、戦後日本の人文社会的知が犯した失敗のグロテスクな記録である「大平総理の政策研究会」に参加した過去を持つというのも興味深い所であったりもするし、なぜいまだにそういう人々が旺盛な発言の場を与えられているのか不可解だったりもする。

ここには、社会のアーキテクチャを設計しようという意志のある人々の間の「常識」と、それ以外の人々の認識――「若者」や「言論」――との乖離が示されている。若者問題よりも、後者の問題の方が深刻である。山田も本書の最終章で、日本における政治的布置としての「保守/革新」枠組みが、「不安定化する社会のコントロール」という先進国共通の課題から遊離していっていることを指摘している。

「不安定化する社会のコントロール」を念頭に置く限り、最も巨視的な対立軸が「新自由主義」-「福祉国家再建」となることを受け入れねばならないと思う。
しかし現在の日本では、保守・革新の双方に、「日本はグローバル化の外部に留まれるはずだ」という幻想が根強く残っている。そういう人々が「グローバル化」に対置させて考えているのは、しばしば「福祉国家」とはまったく異なるものであることが、軸をぼやかしてしまう。
また、この点に関して大きな話題になるのが、プロ野球チームやテレビ局という、「不安定化する社会」を論じるにはあまりに瑣末な現象でしかないことも、軸の不在を象徴しているように思う。

とりわけ、「リベラル派」に分類される人々が、「福祉国家再建」の具体的なビジョンを語る作業をずっと怠ったまま、文化・戦争責任・弱者保護などの問題に終始してきたことの責任は大きいと思う。現在でも、「新自由主義」「市場主義」を簡単に実体化して、それに反対することを自己目的としている人が多い。

その一方で、政治的対立軸の完全な外部に立てるはずだとする姿勢も目立つ。たぶん「ニューアカ」・「日本的ポストモダニズム」にその源を持つと思うんだが、「冷戦型左右対立への違和感」から、大雑把に言って「消費文化礼賛」の方向へ突っ走るのがその共通の特徴と言える。そこかしこの分野で大量発生している、ごく微細な事象・歴史をオタク的に細かく調べることを自己目的とした「疑似実証主義」もその一種だと思う。

おそらく、「農村/都市」、「階級・階層差」といったクラシカルな概念を、それにまったく関心を持たないことの多いメディア論や文化研究とつなげていくことが必要なんじゃないか、と、最後はありきたりな提言になってしまうが……。

ついでに付言すれば、「歴史問題」とは、国内におけるこうした(往々にして不毛な)対立構図の中で論じられているのであり、他国の内部事情をブラックボックスに入れて「のっぺりした保守化」と解釈してはならない。だからといってすべてを他国の内部事情のせいにするのも意味がない。たぶん、まずはこの議論の「不毛さ」の共通性を考えないといけないんだと思う。

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