2007年11月21日 (水)

鈴木謙介他,2007,『文化系トークラジオLife』本の雑誌社.

今さらこんな所で紹介しなくても、皆様もうご存知と思うんですが……鈴木charlie謙介がメインパーソナリティの「文化系トークラジオLife」(TBSラジオ)の書籍版です。
私も参加者の末席に名を連ねさせて頂いております。
http://www.amazon.co.jp/%E6%96%87%E5%8C%96%E7%B3%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AALife-%E6%B4%A5%E7%94%B0%E5%A4%A7%E4%BB%8B/dp/4860110773

番組HP↓
http://www.tbsradio.jp/life/

毎回「身近なんだけどよく考えると深い」テーマを選んでいて、テーマ選定の妙がこの番組の最大の魅力なんじゃないかと、私は一リスナーとして思っていて。正直「放送しっぱなしじゃもったいないなあ」と思う所もあったから、本の形にまとまったのを見るとなんかうれしいですね。
再構成してあるとはいえ、ジャズのアルバムみたいなもんで、基本的には即興の記録。ここで無造作にぶちまけられている素材の一つ一つを、今から何か作ろうっていう読者が、それぞれのやり方で拾い上げるんだと思うんですよね。そういう「これから」のワクワク感みたいのが詰まった本だと思います。うん。

私は昔っから、集団で行動したりしゃべったりするのが本当に苦手で……ゲストに呼んで頂いた際も全然食い込めず、史上最もしゃべらない「ゲスト」になってしまいました。すっすみません。
今回の書籍版でも、文字にすると数百字しか載っていませんが(汗:ちなみに第10章「Jの時代」)、割と気合を入れて語彙解説など書きました。あと第12章「ロストジェネレーション」に、私が番組に送ったメールを収録して頂きました。
まあ私のことはともかく……身近の同業者界隈でも「番組の存在は知ってるけど聴いたことがない」という人が多かったりするんだけど、これを機会にぜひぜひ。ソウルで、この番組からなんとなく日本の空気感みたいのを感じ取っていた日々から、毎回欠かさず聴いているおれです。

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2007年7月 9日 (月)

金城模【キム・ソンモ】,2007,『嫌日流――アジアの妄想家日本に告ぐ』晋遊舎.(=2006,自由区域)

どうでもいい話だが、こないだ、カンヌ映画祭で主演女優賞を取ったことでこちらでも大変評判だった「ミリャン(密陽)」を観た。あまりのつまらなさに、久々に映画観て腹立った。
「不幸続きの女性が、田舎に引っ越してきて、さらに不幸に見舞われ、精神異常になっていく」という映画(これで全部ネタバレです、ごめんなさい)で、精神異常っぷりをひたすらねちっこく描く二時間弱。テーマもなければオチもない。
ねちっこい女優の演技は確かにすごいんだけど、それだけ長々見せられてもねえ……。韓国映画でも、他に面白いのいろいろありますから。これはちょ(以下略)

つまらないもののことは別に書く必要もないんだけど。
表題のマンガも、同じくらいどうでもいいんだが、まあ、「動き」を把捉させるようなものがないと他国認識はこうなっちゃう、みたいな前回の話とのつながりで(笑)

日本のマンガ「嫌韓流」に対する、直接の返答として書かれたものらしい。その内容は、要するに「日本は社会運動がないから、政府やマスコミに騙されている」、「バカな国民」であると。それに対して韓国は「輝かしい運動の歴史があるから、バカな国民ではない」というもの。

そんで日本政府は、国民がバカなのをいいことに、一直線に「軍事大国化」への道を進んでいる。日本という国家は、原初以来常に、アジアにおける軍事大国化を考えてきた。現在でもそうである。日本政府は、「北朝鮮危機」を、バカな国民の目をくらますために過大評価し、アメリカの機嫌を取りながら着々と軍事大国化している。
「嫌韓」とは、こうした日本政府の国民への目くらましであり、日本国民は、そんな嘘にだまされずに、目覚めて軍事大国化を阻止しないといけないんだ、みたいな内容。

『不安型ナショナリズムの時代』でも書いたけど、日本政府が原初以来現在まで一貫して「アジアの軍事大国化」を至上課題として行動してきたのであり、日本人が全員「その陰謀に騙されてきた」という主張に納得する人は、およそ日本にはいないだろう。
作中では、そういう台詞の後に、相手の日本人が「ハッ」とかいって汗をたらしながら説得されるんだけど(笑)。そういうバカらしさは「嫌韓流」と同類。

そんで、これは明らかに、韓国における「左翼・革新派」の立場からなされている発言である。
ここまで極端なことは、さすがにまともな人は言わないけど、でも「日本では『市民社会』の影響力が低下しつつある。中国ではいまだ『市民社会』が成立していない。わが国の優れた『市民社会』を、アジアにどんどん輸出しなければならない」みたいな物言いは、研究者界隈でも比較的よく聞く物言いである。
「市民社会」って輸出とかできるものなのか?直接聞いてみたこともあるけど、「日本人にはなかなか分からないでしょう」とか言われるだけという(笑)。とりあえず、この手の人々の思考回路を戯画的に描いたものとして、まあ一読の価値がないでもないのかな。

こういう時の「市民社会」というのが何なのか、議会制民主主義のことなのか、市民運動のことなのか、アナーキズム的な新しい(または新しい・新しい)社会運動のことなのか、なんてことを、突き詰めて考える人は皆無に等しい。中心的な論者たちの多くは、学生運動の直接的な参加者だった世代で、その運動へのノスタルジーでしゃべっているだけだから。

韓国では、彼らはまだ40代で、社会の中枢にいるので、過去の運動の反省とかが本格化するのは、まだまだかなり先のことだと思う。語れないタブーとかもたくさんあるんでしょうしね……。
そんでそういう思考に、韓国でも、後続世代の多くが幻滅しているのは、あまりにも当然である。こういう思考は韓国で一時期ものすごい正統性を付与されて<いた>のだが、現在は草の根レベルの支持を失いつつあるものであって、これを「韓国伝統の反日感情が云々」などと解釈するのは、まったく間違いである。
逆に、こういう思考に「日本は確かにそう」とか言って納得するのも、こっちで失笑を買うことになりかねないので、やめた方がいいと思う。ちなみにこの作品も(著者はそこそこ有名らしいが)全然有名じゃないし、大して売れてもないはずです。はい。

ついでにもうひとつだけ言うと、基本的にこの人たちは「親北・反米・反日」で、戦後日本は、現在まで一貫して「米国の威を借りてアジアの覇権を狙っている」ということになるんだけど……日本の文脈では、「対米追従」と「軍備拡張」とは、確かに重なる部分もあるが、全然相容れない点も数多くある。
「米国の威を借りないで、自主防衛する」という議論も紛々出てきている現在では、なおさら日本の文脈では意味のない議論だし、アメリカとの関係について議論百出だった戦後日本の言論について、この人たちは何ひとつ知らないのである。まあ、お互い意味のないことを言い合っているのは不幸なのでですね……はい。

そんで最近では、金大中~盧武鉉の間に「抵抗者」から「執政者」に変わったこういう「革新」イデオロギーに対するアンチとして、「親北」(=民族主義)をテコにしない形のナショナリズム、というか愛国主義、が相対的に影響力を増しているような気がする。でもその人たちは、逆に「反共」へのノスタルジーが強くて、それはそれで現代的な意味・課題みたいのを見出しにくいタイプの考え方だったりして。

日本では参院選も近いのに、浮世離れしたこと書いてて恥ずかしいなあ。すみません(誰に?)。まあ、自分用のメモで適当に書いているだけなので、勘弁してください。

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2007年7月 3日 (火)

角田房子,1993(=1988),『閔妃暗殺――朝鮮王朝末期の国母』新潮文庫. & 河信基,2004,『朴正熙――韓国を強国に変えた男』光人社NF文庫.

私信なんですが、5月に日本で買ってきたPCに、メール配信の不調があるようです。ランダムに?届かないメールがあるらしく……。先日少しだけ再度一時帰国した際、知人たちから聞いて判明しました。半々くらいで届いてるみたいだからタチが悪い……。

もし返信不行き届けなどございましたら、大変お手数なのですが再度ご連絡を頂ければありがたいです。受信の方は問題ないようですので……。
しかしそれ以外でも、家を空けることが多く、こちらでは研究室もないため、どうしても返信が遅れがちになりまして……すみません。

ところで。
前回書き忘れたのだけど、たとえば韓国について、「歴史の動き」みたいのに対する想像力を働かせる本というと、この二冊が思い浮かぶ。
形式的にはノンフィクションで、微細な誤りや論争点をあげつらうような批判も多い本だけど、そういう問題じゃなくて巨視的な「動き」をガッと把捉させることに真骨頂のある本、というか。どこかでまた講義とかやらせてもらえるなら、こういう本を読ませたいなと思う。

翻って例えばここ韓国で、日本の、特に戦後の「動き」を把捉させるのに読ませたら良さそうな本というのが……全然思い浮かばない。知り合いの先生とかに聞かれても、返答に困る。ミクロな領域についてならいろいろありますけども……。
それは、当たり前なんだけど、ぶっちゃけ日本が韓国よりはるかに先んじて先進国だったのであり、複雑な過程を経てきたということでもあるでしょうけども……。でもそれ以外にも、当該国にローカルな、外部から見れば「まったくどうでもいい」問題――でもそこにはいろいろなタブーが介在する問題――を、ある程度度外視して書くには、外国語圏じゃないとできないのかな、と思ったり思わなかったり。

『<民主>と<愛国>』が稀有な例外なのだけど、翻訳版があったとしても、ちょっとハードルが高そうな感じがしなくもない。
拙著『不安型ナショナリズムの時代』も、書いた当時の本人の意志としては、そういう本になれば良いなという関心があるにはあったのですが……まあ今では反省点もいろいろあったりして。次作がそうなることを祈ろう。いや祈ってる場合じゃなくてどんどん書かなきゃ(爆)

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2007年7月 1日 (日)

朴裕河【パク・ユハ】,2006,『和解のために――教科書・慰安婦・靖国・独島』平凡社.

 韓国に来てから少々だらけムードだったが、たまに日本に帰って知人たちの活躍を見ると、「いかんな」という焦りがつのる。反省して頑張ります。

 そんな中、往来時のデータ持ち運びに使っていた外付けHDDがぶっ壊れ……突然電源が入らなくなったので、HDD自体じゃなくてケース周りの故障かと思ったのだが、修理に持って行ったら「ケースを換えてもHDD自体に電源が入らない」そうで。基盤損傷ってやつですか。わあ勉強になるなー(棒読み)
 そんなのは序の口で、おおっぴらに書けないようなこともものすごくいろいろ発生し……友人たちから「お前はいろいろ経験できて良いなあ」(笑)とか皮肉られる日々です。

 それはともかく、この本。慰安婦・竹島(独島)・靖国その他、こちらでは絶対的なタブーというか、ある決まった回答以外を考える人がいないし、いたとしてもそういうことを公に発言すると学者生命・政治家生命・ジャーナリスト生命その他がすぐに終わってしまいかねない問題について、勇気ある発言がいろいろ書いてある。
 以前書いたけど、最近は、多くの敵を作ることを承知で「日本の植民地統治をもっと評価すべき」と言う「ニューライト」とかも出てきている(とはいえそれほど感心もできない)のだが、その彼らですら、これらの問題については何も言及していない。たぶん。これらの問題は、日本の天皇制を上回るくらいの、絶対的なタブーだから。

 この本の記述は、日本と韓国それぞれに問題があり、自分の国に都合の良いデータだけを持って来て物語を作っていること、またいずれの国にせよ良心に基づくはずの活動が副作用を伴うこともあることなど、極めて真っ当な指摘となっている。あまりにも真っ当すぎて、ある種の退屈さを覚えるくらいだ。恐ろしいイデオロギー争いの只中にあるこれらの話題において、その退屈さは、貴重である。

 しかし漏れ伝え聞くに、こちらの人文社会系の学界周辺では、彼女も「親日派」のレッテルを貼られて、「まともな議論に値しない論者」として切り捨てられているようだ。本文を見るに、彼女自身、そうならないように細心の注意を払っていたようだけど……。
 これも前に書いたけど、この手の切り捨ては、国内問題でもひどくて、当たり前だけど若い研究者の自由な研究活動とかいう点で言えば、明らかな妨害になっている。

「日本のいわゆる「良心的知識人」と韓国との連帯は、共通の価値をめざしているかのようにみえながら、韓国からの批判が民族(221)主義にもとづく本質主義的なものであり、日本の側はみずからの問題を問おうとする脱民族主義的批判であった点では、アイロニーに満ちた連帯であった」(222)

 という指摘は、日本でももっと省みられて然るべきだと思う。自分たちが味方しようと思ってる連中ないしイデオロギーが、こっちでどういう存在なんだか、やはり考えないと……。と聞いて喜んでるような人々には「お前の同類がこっちにも死ぬほどいるってことなんだよ」と言いたいソウルの深夜。
 情報流入が活発化して、そういうのを知る人が増えてくると、どんどん全否定の方向に流れていってしまうでしょう。もうちょっとバランス感覚を取り戻すためには、何かしら違うことを言わないといけない。その方が、日本ローカルのポリティカル・コレクトネスにこだわり続けるより、よほど生産的だと思うんだけど……。
 

 私個人の感触としては、こうした問題「そのもの」をいくら探求しても、バランス感覚にはつながらないと思う。もともと、日本でも韓国でも、何でこの手の問題に熱狂して、恐ろしくマニアックに情報収集したりする人々がいるのか、それで一体何の充実感が得られるのか、よく理解ができなかったんだけど……韓国に来てから「そのやり方じゃ無理」という感触がさらに強くなりつつある。この論者をめぐる伝聞もその一因。

 本書はものすごくいろいろ書かれていて、日本の動向を批判的に取り上げた部分も多い。どっち側にせよ、味方してると勘違いされたりするのも鬱陶しいので、具体的な内容は書かないことにしようかと。

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2006年7月28日 (金)

東京大学社会科学研究所,2006,『「失われた10年」を超えて[I] 経済危機の教訓』東京大学出版会.

突然ですが、ある案件が良い方向に転がりまして……私に「良い知らせ」が来たのは、ものすごく久々な気がいたします(笑)。

これで、韓国行きが本決まりでして……この9月から来年3月まで、ソウル大学校・社会科学大学・言論情報学科という所に、半年ほど滞在いたします。まあここは(以下略)

ところで……最近、身近に人間関係的なトラブルが多発している。私に原因のある場合もあれば、たぶんそうでない場合もある。
私に言えることは、「私を仲間にしたいならそう言って欲しい、私のことを小馬鹿にしたいなら勝手にそっちでやってて欲しい、いずれにせよ『自分の方が優れている』という下らないプライドをひけらかしながら寄ってくるのはやめて欲しい」ということです。
あくまでも内輪の大学の世界、それも対面的な人間関係の話で、それ以外の方々にはまったく関係ない話ですけれども。はい。

やっぱ、「コミュニティ」ってあんま好きじゃないな……個別の関係で結ばれた、義兄弟・姉妹分たちの方が、私にとっては重要で……相変わらずどうでも良い話ですけれども。

ところで、東大・社会科学研究所(通称「社研」)の最新刊の二巻本が、こちら。
ここは、記述主義的(?)な社会科学としては、おそらく日本最高峰の仕事をしてきた機関で……1991年の「現代日本社会」、および1997年の「20世紀システム」(それぞれ全7巻くらい)は、私も大いに参考にしている所でございます。
でもこのシリーズは、これまでとなんか毛色が違う気がする。その一巻目の本書。全体のモティーフは第一章に要約されている。

◆1章 橘川武郎「経済危機の本質――脆弱な金融システムと頑強な生産システム」15-39

・日本経済の成功を説明しようとした理論モデルは、失敗を説明できていない。経営者企業論(チャンドラー・森川英正)、利害裁定モデル(青木昌彦)、人本主義論(伊丹敬之)会社主議論(馬場宏二)(22-4)
 逆に失敗を説明しようとした議論は、問題解決の道筋を提示できていない

・一貫した説明モデルが必要→金融の失敗、生産はずっと強力だった
・生産システムと金融システムを一括して、80年代まで成功、90年代以後に失敗したとするのは正確でない。
「現実には、生産システムに関しては石油危機~1980年代の局面と1990年代以降の局面を通じて「成功」が継続し、金融システムに関しては石油危機~1980年代と1990年代以降の両局面を通じて一貫して「失敗」が続いたと言うべきである」(35)

※なんとなく分かるような、分からないような……私の勉強不足でちょっと留保。
 私の関心に直接近いのは、同じ著者による第三章。

◆3章 橘川武郎「「産業空洞化」・サービス経済化と中小企業問題」75-102

・1999年12月、改正・中小企業基本法の公布・施行。
 =「二重構造パラダイム」から「産業集積パラダイム」への転換を示した(76)
 中小企業庁『中小企業基本法の改正』(1999)をまとめて:「従来は、経済の二重構造論を背景とした非近代的な中小企業構造を克服するという『格差の是正』が政策目標であり、いわば『脱中小企業論』に立っていたが、これからは、「多様で活力ある中小企業こそが我が国経済の発展と活力の源泉であり、中小企業の自助努力を正面から支援する」ことに重点をおくという、「理念の転換」があった」(76)

・産業集積=「多数の企業の物理的近接」=要するに「集積内分業の効用」と「集積とマーケットとの連関」からなるメカニズム。
・このメカニズムは、自身を維持するための自己保存機能を内包している:1)創業の継続的発生、2)技術蓄積と評判の喚起(経営資源としての「評判」が確定されると、それが技術資源を保持・強化させる力ともなる) (80)
・ところが、失われた10年においては、産業集積地(東京大田区・東大阪市)でこそ製造業事業所数の減少が見られた(81)
・この間にも一貫して100万人を上回る創業希望者が存在し続けた(83)。開業率の低迷はその創業希望が実現しなかったことを意味する(83)。

・開業率低迷と、その背景でもある信用力低下の大きな要因として、「産業空洞化」がある(と論じられている)。しかし日本の産業の技術力の低下、競争力の損失を導くような産業空洞化は、いまだ生じていない。日中貿易では近年一貫して赤字だが、香港貿易では一貫して黒字であり、しかも前者の赤字額を上回っている=合わせて中国・香港とすれば一貫して黒字(86-7)

・地方経済再生のモデル:
-滋賀県の琵琶湖南岸地域を例に【あまり詳しく紹介されていないのでサービスのくだり以後の実情は分からない】:
 「産業集積の活力維持→製造業の健闘→製造業関連のサービスビジネスの拡大→製造業関連サービス業における雇用拡大→商業・飲食店の雇用拡大→県全体での従業者数の増加」(92)
-滋賀県長浜市の事例:
 カネボウ繊維の不振で製造業の低迷が著しい。しかし観光業などが増加、「第3次産業の革新→地域経済の活性化→従業者数の増加」(99)
・両モデルを概括すれば:「中小企業再生→地域経済活性化→雇用確保」、だそうだ(100)

※中小企業振興の失敗の原因は私にもよく整理できないけど……「産業空洞化していない」という言い方に、どういう意味があるのだろうか。(「格差拡大は見かけ上のものである」とかいう言い方もそうなんだけど)要するに「お前らの不安感は、統計により棄却されている。不安感があるとすれば、それは誤った世界認識である」、ひいては「安心しろや」ということなのでしょうか。
 せっかくの実証を、そんな「日常心理批判」に使うより……何が失敗だったのか、なんで想定されていた「産業集積」が生じなかったのか、とかいう制度的なことを振り返る方が、よっぽど生産的だと私は思うのですが……。

※そもそも中小企業振興の時にも、「重厚長大産業から高付加価値産業へ」という文脈の中で、「大企業にはない機動力の高さ」が評価されていた。その中には、「不効率な年功賃金制に縛られず、流動的低賃金雇用を迅速に導入できる」という意味も含まれていた。
 この点が思い起こされないまま、中小企業に雇用改善役割が期待されるのは、ちょっと違うと思う。流動的低賃金雇用が増えていくだけでしょうから……。
 それ以前に……ウェイターとか、みやげ物屋の店員とかがいくら増えた所で、それを「雇用拡大」と呼べるかどうかは微妙だし、「地域経済活性化」になんか、まったくつながらないと思う。最近よくある例だと、このリストに「コールセンターの電話受付員」を付け加えても良い。
 著者は、サービス産業における雇用が大方「袋小路職」でありがちだ、という(私みたいな)意見に対して批判的なようだ。確かにそれだけ言ってても仕方ないんだけど……でもあまりにも楽観的過ぎないか?

※元々、欧米で「雇用確保は地域単位で」とか言われ始めたのは、市場経済化の進行の中で、まさにウェイターとか電話受付とか、将来見通しの立たない雇用が増えてしまい、それが「市場経済化の弊害」の一つとして認識された、その後の話で……
 だからこそ「ただのサービスではなく地域サービス」としての「社会的企業」が希求されていった、みたいな流れなんだと思うのですが。今現在いろいろな「地域」で進行しているのは、単なる「市場経済化」の段階であって、私企業(人材派遣業とかも含む)の勝手になる余地が増えているだけの話であり、「第三の道」のニュアンスの入った「地域の復権」とかの<前段階>のことなのだと思う。
 なのに「第三の道」的な論理が、日本独特の「地方」の論理と組み合わさって、身勝手に密輸入されているのが、薄気味悪いというかなんというか。

※あとは、大沢真理の論文がありまして、「男性稼ぎ主モデル」という持論を展開しておられます。しかし第二巻収録の論文の方が個人的にはピンと来た。という訳で次回また。

◆第6章 大沢真理「逆機能に陥った日本型生活保障システム」175-201 
・「「男性稼ぎ主」型の対応では、若年層と女性の就業機会を狭め、中高年層を労働市場から早期に退出させてまで(「労働削減(labour reduction)」)、壮年男性の雇用を保護しようとし、家族はあいかわらず男性稼ぎ主の収入に依存せざるをえない。その結果、税と社会保険料を負担するベースは狭まり、現役労働者1人あたりの税・社会保険料の負担が高まり、社会保険料の事業主負担を回避しようとする雇用主は、フルタイム労働者の追加的な雇い入れをますます渋ることになる」(186)

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2006年6月24日 (土)

韓東賢,2006,『チマ・チョゴリ制服の民族誌』双風舎.

ありがたいことに、また新しいお仕事がいくつか来た。かなり心配ですが、頑張ります。はい。

ところで、先ごろ出たこの本。著者の韓東賢(ハン・トンヒョン)は、私の姉貴分です。拙著『不安型ナショナリズムの時代』にも、いろいろコメントしてもらいました。なんだかんだ言って結構古い付き合いで、この本の元になった修士論文も、提出当時に読みましたね。

本書は4章構成になっていて、第一章が衣服・ジェンダーを軸にした「在日なるもの」の理論的考察、第二章はチマ・チョゴリを起点に見た「在日慨史」、第三章がチマ・チョゴリ制服に関わってきた人々のインタビュー集、第四章がそのインタビューの考察、となっている。

面白いのは、具体的な事例の記述が続く二章と三章。朝鮮学校の制服とか言う前に、在日というものについてどれだけ文脈情報が共有されているかというと、かなり心許ない現状がある訳で……不可避的にそこが厚くなるんだと思うんですが、多くの事例研究に言えることで、実はこの説明を丁寧にすることが生命線だったりする。

第三章は、文字通りインタビュー・データがそのまま載っているんだが、「在日」「総連」などに対して漠然と嫌悪感のようなものを持っている人こそ、こういうのを読んだ方がいいかもしれない。既存の回路で政治化された在日論には収まらない声が、いろいろ詰まっている。

著者の主な目的も、このインタビューを世に出すことにあったんだろう。学術的考察の第一章と第四章は、著者も「ここは飛ばして読んでも構わない」と言っているけど、サブ的な位置づけなのでしょう。しかし、枠組みが下手にきっちりしていないからこそ、生の事例のデータが活きていると言うこともできる。

生の事例のデータが活きていることが、なぜ貴重なのか。
例えば、現在の日本に生きる日本人男性の私の「生きにくさ」みたいなものについて考える時、その「生きにくさ」を先んじて経験してきた(と自負しておられるのだし私もそう思う)人々の手による、「フェミニズム」や「在日論」がある。
私が声を大にして言いたいのは、なのになぜ、「既存のフェミニズムや在日論には、私の参考になる点がほぼ皆無」なのかということです。
正直言って、被害者意識みたいのを根底に持つ語りには、常に限界があって、「被害者の自分から見えることを、どうやって一般化して、マジョリティにも関係のあることとして語れるか」が重要なのだと思う。今一部で非常に流行っている「反・若者バッシング」みたいの(私もその一員に数えられることもある訳ですが)も、そこに気を付けないと、余り意味のある議論は生まれないでしょう。

いろいろある自分の立場から「見えるもの」を「変数」として取り出すことを怠り、「男社会」とか「日本社会」とかいうマジックワードに逃げる議論には、個人的にまったく興味がない。
この本は、既存の枠組みに乗っていないので、マジックワードに逃げない。そこに乗る以外に語りようがなさそうな対象を取り上げて、何とか違う語り方を探そう、という意志に、私は強く共感する。
だけど、何か違う「変数」をはっきり取り出しているとは言えないと思う。その作業は、事例の紹介を通して、読み手の側に委ねられている。そういう意味で、「ナショナリティ」「衣服」「在日」などといった領域に関心のある方には、ぜひお勧めしたい一冊です。姉貴、これからも一緒に頑張りましょう……ってシメが私信ですみませんけども。

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2006年6月16日 (金)

崔章集,1999,『韓国現代政治の条件』法政大学出版局.

 ご無沙汰になってしまいました。この間にも、ものすごくいろいろありまして……。 
 また、内輪の連絡事項がございます。
1)ソウル方面の許可が、正式におりました。
2)ディスプレイが直りました。お騒がせしました。

 ところでこの著者は、韓国で非常に著名な政治学者。金大中前大統領のブレーンでもあったようだ。韓国の、一種独特なマルクス主義みたいのをものすごく良く体現していると思う。
 盧武鉉現政権を生み出し、その後評価の風向きがだいぶ変わっている、韓国の「運動」系政治学の概論として私は読みました。80年代くらいからこっちのものを集めた、論文集です。

 こういうのを「(左翼)運動だからダメ」とか「(左翼)運動だから良い」とか、「日本とは違うなあ」とか言うのは簡単なんだが、私は日本の事例ともまったく無関係ではないと思う。他のいろいろな論点でも思うことですが、韓国では確かに「こういうの言われ過ぎ」な感があるけど、日本では「こういうの言われなさ過ぎ」でしょう。いつもながら適当ですみませんけども(笑)
 主な話題は、韓国における「民主化」は、とりあえず達成(盧泰愚文民政権の誕生)されたけど、実はまだ未完なんじゃないか、ということ。その評価で重要なのは、1)中間層、2)開発主義。

◆第一章 過大成長国家の形成と政治的亀裂の展開(1985)
*民主化運動の長かった韓国では、中間層が(最初学生、後期には労働者)の「運動」に共鳴するものなのかどうか、が結構重要な論争点になってきた。
 この著者は、中間層は民主化の「形式的側面」には親和的だが、「実質的側面」(より平等な分配政策など)には無関心であり、ある段階以後には保守派と親和性が高くなってしまう、とする論調の代表者。

・日帝下の地主階級には、政治的正統性がなかった。民族資本の形成も進んでいなかった。
 →よって解放後には、経済的・政治的空白状態が生じ、社会全体が爆発的に政治化されることとなった(6-7)
・朴正熙暗殺から戒厳令布告までの混乱=60年の4.19革命(軍部の介入によって挫折)と異なり、運動の内部の問題によって挫折。「民主化に対する学生の熱望がソウルの中心的な社会階層であるプチ・ブルジョアジーと新中産層の呼応を得ることができなかったというところに見いだしうる」(21)
・ソウルの中産層は、民主を放棄し成長を選択した。朴政府の政策の恩恵者たちだったから。
 「もし彼らが政治過程に直接参加しなくとも、一政権が相対的に高い教育水準を背景とした彼らの社会的・職業的地位を維持してくれ、相対的に高い所得水準を保障してくれるならば、民主主義を通しての政治参加は高い代価を払ってまで手に入れようと努力する必要がないのかもしれない。彼らには政治体制の形態が問題ではなく、彼らの既得権が喪失されない政治的条件を維持してくれる体制がより重要なのであった」(24)
 そこに分断状況という変数が関わってくる:「反共と安保理念は、社会の特殊利益から発生するあらゆる葛藤をひとまず、または限定なしに留保させ、北の脅威に共同で対処すべき総和体制を構築する接着剤の役割をはたす」(25)。

◆第五章 支配イデオロギーの構造・機能・変化――1987年の「民主的開放」以降を中心に(初出表記なし)(116-158)
*この章では、南北分断状況を前提に成立する、反共/容共というのが、一種の擬似問題として保守/革新の論争点になってきたと指摘される。(まあそれが上から押し付けられたとかいうのは、日本の社会学から見るといろいろ言われそうだけども)
 そして、盧泰愚政権の誕生により形式的には実現された民主化が、実は全然不十分だとする。

・「わが国の支配ブロックは不幸にも、広範かつ激烈な下からの民主化要求にたいして、上からの自己改革の方法を選択するよりも、旧来の支配イデオロギーとしての反共イデオロギーを、変化した政治社会的条件において形を変えて強化する方法を通して旧支配構造を温存させようとした。そしてそのメルクマールがまさに保革対立構図というイデオロギー的地形の形成であるといえよう。保革対立は支配ブロックが軍部権威主義に反対する民主化勢力と、「現状維持の権威主義の温存か、改革的民主化か」という問題をめぐり対立するようになるとき、既得勢力が民主化の力に抵抗することが困難なため、独裁-民主の対立構図を保守-革新の対立、その意味内容において、反共か容共かという旧体制のイデオロギー的抑圧体系をそのまま再現することを本質としているからである」(119)

・盧泰愚の第六共和国=「自由化された軍部独裁」=「民主-権威主義の対立がすべて解消されたかのように、民主化の達成を力説しながら、依然、現実化もされず、現実化されるのも前途遼遠であるにもかかわらず、民衆変革勢力の政治勢力化とすべての力量が制度化された政治権力と対称的なまでに大きいと過大評価しながら、ありもしない制度化された政治空間におけるイデオロギー的対立を前面に持ち出し強調していた」(120)

*なぜ不十分なのか。それは要するに開発独裁下で蓄積された「既得権益」が、まだ確固として、誰の目にも見える形で残存しているからである。それは、政治と経済の両面に現れれる。
 政治の面では、代議制民主主義の機能不全:

・反共主義は自由民主主義の護持をその存在理由としている。しかし実際には民間または軍部の独裁体制でしかなかった。民主主義は修辞に過ぎないものだった(123)
・支配ブロック・保守派が考える民主主義=1)「反共主義を理念とする政治体制」、2)「私的所有関係と資本主義市場経済を有する体系」、3)代議制民主主義の政治的規則(127)
 しかし現実の「ブルジョア民主主義」は、特に3について、大統領と国会議員の選出のみに限定されており、その他の国家機構の公職=官僚は民主的選出の原理が適応されていない。地方対立が激化したのも6月抗争以後のことで、新旧体制の代表者構成は同質的だった(127)

*経済の面では、独占資本(要するに財閥)の残存:

・国家独占資本主義は民主的発展にとって害悪であるが、西欧ではそれに多元主義的民主主義体制が批判的理論として定立してきた(140)。また個別独占資本が巨大でも、選挙権を持つ市民社会が巨大であり、多数の独占資本が組織化されて始めて、代議制民主主義に影響を及ぼす。
 これに対し「わが韓国社会は、国家独占資本主義と極度の政治的権威主義という条件、すなわちすでに後退した出発点から民主化を模索しなければならない」(142)。
 「わが国では、わずか数社だけでも国民総生産(GNP)の半分を占めるほど極端な独占的地位を有する財閥企業と、その上に君臨する強力な権威主義的国家権力とが結合している。【中略】このような体制のもとでの私的利益政府は、単一の巨大企業の閉鎖的構造となり、特殊利益が公的利益自体を圧倒する威力を意味するものとなる。国家の経済成長が事実上、ごく少数の巨大企業によって主導される私的利益の集積と同じ意味を持つようになるとき、そして国家の経済政策が基本的にこのような巨大企業中心の私的蓄積を推進する方向で作用するとき、それは公的利益の私的利益への従属であり、【中略】このようなとき、国家とは、集中的に独占資本の利益を代弁し貫徹させる公的支配機構であるという表現が可能になるのである」(142)
 「国家独占資本主義は、一つの政治イデオロギーとしての発展主義イデオロギーによって正当化される」(143)

*もう一度言うけど、確かに韓国では「こういうこと言われ過ぎ」だが、日本では「こういうこと言われなさ過ぎ」でしょう。もちろん具体的な文脈の違いも大きいのは分かっていますが……。
 右から左までいろいろな人が言ってるし、草の根の不満の種にもなってる「大企業の正社員の特権化」とかいうのは、こういう話とそれなりに連続的ではないか。いろいろな仕事をしている人と会って話を聞いてても、言語化すれば上に近くなるような不満の念を抱いている人は、少なくないと思うんですけどね。別にそれを運動論で表現する必要はない訳ですが。

*韓国の民族主義(ひいてはナショナリズムの一側面)も、こういう話と連続的であり、その文脈に置かないとあんまり理解できない。より詳しい試論は『不安型ナショナリズムの時代』参照。

・「既存の社会秩序と冷戦反共イデオロギーをそのまま堅持する統一政策」=「国家主義的統一政策」と、「下からの民衆的エネルギーから発生する」「民族的統一運動」とがある(149-50)。
 「民族民主運動」は、反米民族自主化をその核心とする。「民族民主運動によって主導される民主化運動と統一運動が反米自主化運動と並行して展開されているのは、この二つの運動領域が闘争対象としている権威主義-独占資本の支配構造のイデオロギー的バロメーターである冷戦反共主義がアメリカによって維持され、再生産されているという認識、それゆえこのような支配的体制を否定し、克服する問題は、他ならぬアメリカの帝国主義的役割を拒否することであるという認識のためであったということができる」(150)

◆第六章 軍部権威主義的体制の内部矛盾と変化のダイナミックス1972-1986 159-217(1986)
*この章では、明確な開発独裁であったパク・チョンヒ政権期と異なり、チョン・ドファン政権期には経営者層と官僚との利害が齟齬をきたすようになっていたと指摘される。それが「形式的民主化」の達成に向けた運動に中産層が参加した背景にあったと。
 現代グループ創始者・鄭周永の、この時期の発言……「政府のいかなる施策も自由企業人の創意・努力を阻害することは慎まねばならない」(200)が、象徴的に引用される。

・朴政権期のいろいろのまとめ:
-朴政権期の大衆的スローガン:「歴史的使命感を持ち、近代化の効率的な達成を通して、民族中興は可能になるだろう」(165)。
-「総和団結」、経済的動員体制と政治の無力化。年平均10.3%のGNP成長率(165)
-大規模投資の背景には、73以後に大量流入した海外資本がある。そのうち90%以上が海外共同借款・商業借款(165)
-73年から、低賃金の労働集約的な消費財軽工業から、重化学工業に輸出部門の発展をシフト。増税と、外債を土台とする海外資金(165)。同時に防衛産業の成長も意味していた
-国防力増強5ヵ年計画:「国際独占部門と強固に統合された防衛産業の発展は工業生産部門と国民福祉のために投資されなければならない資本を、費用が多くかかる非生産的な部門にまわすことによって、国民経済にさらなる負担を負わせた」(166)。
 また、海外借款の配分(金融投資と銀行貸付)、また国家統制下におかれた国内銀行投資により、排他的に大資本家を支援→部門・階級・地域間の両極分化が進む。
 農村から都市に人口が流入し、大部分は産業労働者と都市貧民を形成していった(167)

・全政権期:国家エリートと上層ブルジョアジーが決裂。
-「強力な国家支援によって形成され、経済的に急激に成長した産業ブルジョアジー――今は政治的にはまだ弱くても――が彼ら自身の利益を国家の持続的な規制と監督によってではなく、国家と私的領域のよりはっきりした分離、すなわち経済的合理性を拡大することによって獲得できると認識するに至ったという点にあらわれている。労働にたいする統制の領域を除き、経済にたいする国家の介入がもはや過去のように企業利潤にプラスにならないという考えが生じた」(199)
-また、退役軍将校を国営企業・私企業・公務員に特別採用させたことも、軋轢を深めた(200-1)
 ⇒「中産層の反乱」へ

*こうして、学生や労働者だけでなく、経営者層や中間層の利害をも巻き込んで「形式的な民主化」が達成された。しかしその後は、「発展主義」(私は「開発主義」という言葉の方が好きなんだけど)による成長・分配の歪みこそが運動の焦点になると。

◆第七章 民主化の二つの概念――手続き的民主主義と実質的民主主義 218-235(1987)
・「手続き的民主主義」=市民の政治参加の制度的脇枠組みの整備=6.29宣言まで希求されていたもの、実現したものはこれ(219)
・しかし経済成長の確信から疎外されてきた都市労働者・都市貧民・下級中間層・農民層などの「民衆勢力」の利害は反映されたとは言えない:
 「国家独占資本主義の資本蓄積機構に基盤を置きつつ、成長第一主義の理念的支柱である発展主義と、所得と富の公正な社会的分配を強調する経済的民主主義との対立関係」が顕在化
 →「実質的民主化」が希求されるようになった(220)
 「このような意味からするならば、6・29宣言はただ形式的で手続き的なレベルでの民主化に向けた一つの重要な突破口を準備したものであり、同時にそれはその内容的・実質的民主化の方向について沈黙、または隠蔽していることがわかる」(220)
・中産層は、前者を支持するが、後者には消極的あるいは否定的。保守派は、下からの民主化要求を、国家安保の危機や経済破綻を招くものとし、この層の右傾化を図ってきた云々(227)

*個人的には、こういうのを読んで「韓国政治はすごい」とか、「やっぱ運動だよ」とか、あるいは「やっぱ韓国左翼はうざい」とか言うのではなく、「開発主義」という概念をテコにメタ化していけないかなあと思っているのですが、ダメでしょうか(?)。その論文も、書くならそろそろ時間が迫ってるんだけど……。

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2006年5月29日 (月)

コイル,ダイアン,室田泰弘,矢野裕子,伊藤恵子訳,2001(=1997),『脱物質化社会』東洋経済新報社.

 週末だらだらしたら、だいぶ回復した。ふう。
 どうでもいい話だが、私は身近に人望がまったくない。たまに用があって出身大学院などに立ち寄っても、ただの一人も話しかけてくれない。ほとんど不審者扱いである(笑)。
 最近よく出入りしているのは、出身とは違う研究室。そこに「マサヒロ」という、私を先輩っぽく慕って、いろいろ手伝ったりしてくれる、ほぼ唯一の弟分がいる。
 先週はやたらと疲れ気味だったので、彼にものすごい勢いで八つ当たりしていた。すまんマサヒロ。しかし来週以後もなんかいろいろある。また八つ当たりすることもあると思うんだが(笑)、おごるから許せ。

 それはさておき、この本。この間書いたような、「流動性の偏り」にまつわる「最近の若者が感じがちな不満」と、かなりシンクロする本だと思う。というか、今の日本でよく似た議論を聞く機会が非常に多い。私を含めて(笑)。この本は拙著の脱稿後に読んだんですけども。
 これが1997年に書かれた本で、今現在の日本で同じようなことが論じられている意味とは、何か。そんなことを考える時に有用な本、だと思う。

*「脱物質社会」=「重量なき世界weight-less world」というタイトルのコンセプトは、要するに製品小型化・知識集約・情報産業化などを示したもので、それほど大きな意味はない。
 でも、その帰結をいろいろ論じていて:

・ウェイト-レス化の帰結:
-技術進歩による産業再編→失業・不平等。衰退産業に失業者が増大する反面、先進産業に新規の職が生まれる訳でもない。
-福祉国家の危機
-資本の自由な移動
 これらは、無力感・不安・ポピュリズムへとつながる。

・その対策として挙げられるのが:
1)「教育内容の改善と教育を受ける機会の均等化」(xviii)
 「ウェイト-レス時代の根源的な資源は、人々の創造性と知性である」からこそ、教育機会の平等が重要だと。
2)「創造性や熱意を呼びさますこと」=「文化的変革」
 「政府は、経済分野で人的資源を開発するだけでなく、人々がより柔軟な対応ができるよう、法律や税制の柔軟性を高めなかればならない。たとえば、終身雇用が望めなくなり、職を渡り歩いたり、失業したり、自営業に転じたり、はては外国に移住せざるをえなくなると分かっているのなら、税当局は、それによって不利な扱いを受ける人が出ないようにすべきである。また地位や場所が変わっても年金や社会保障の受給資格が不利にならない仕組みが必要である」(xix)

・こういうことの対策として、「かつての製造業」モデルを持ち出す形の議論に対して……
 「彼らがひどく嫌う、法律・金融サービス・コンサルティングは、現代脱工業社会の一大成長部門である。こうした職業の人気がこれほど高いのに、社会的に有用ではないと見るのはなぜなのか、理解に苦しむ。要するに彼らは、働き手は皆、工場でモノを作るべきであるとか看護婦や教員になるべきだ、という古臭い考えを持っている。これは単なるロマンティシズムにすぎない」(158)
 ……と手厳しい。

*不毛な議論が続く背景には、「左右対立」の両極分解があると。
・「現代の政治哲学には、経済的進歩を嫌う潮流がある。(xxix)【中略】こうした反進歩主義は、単純思考の経済的エリートによって武器を与えられた。少し極端な言い方をすれば、テクノクラート的考え方には二つの選択肢しかない。一つは極端な市場自由主義のリベラリズムであり、変化を肯定する。もう一つは愚かな時代遅れのコーポラティズムで、変化に抵抗する。この二文法によって伝統的な右翼と左翼の区別がなくなってしまった。だから一方では極端な環境保護主義者が妄想狂の極右私兵組織と手を組み、他方では中道左派がむき出しの資本主義を受け入れるといったことが生じる」
 →「ラディカルな中道の確立の道」が必要。経済的進歩・より多くの人の生活水準保障の両立(xxx)

*で、「ラディカルな中道」の担い手になれるかもしれないのが、公でも民でもない「第三の領域」と呼ばれるもので、総じて「コミュニティ」に関わるものであると。
・小型化・新素材・ファッション化などで物的財は軽量化。またサービス部門の比重が高まっている。ということで成長の可能性がある分野は:
1)「コミュニティ・社会・個人サービス」(理容・清掃・子守り・教職・看護・政府サービスなど)
2)「高付加価値サービス分野」(通貨取引・金融派生商品(デリバティブ)の考案・ソフト開発・遺伝子研究・衛星テレビ用プログラムの作成など)(3)

・その中で、先進国での雇用の伸び、とくに低熟練労働のそれが期待できるのは「コミュニティ・社会・個人サービス」部門である。対個人サービスと、「第三の領域【サード・セクター】」あるいは「社会的経済」と呼ばれるものの二種。
・「第三の領域」=多様な活動の集合体=「慈善活動、労働組合からシンクタンク、ロビー団体にいたるボランタリー団体、政府部門と部分的に重なり合う独立公共機関を含む非政府組織、非営利企業、教会、学校、住宅協会、美術館、共済組合や協同組合」など(88)
・「これらに共通するのは、利潤最大化を目的とせず、サービス自体の提供を目的とする人間集約的なサービスである、という点である」(88)。
・英仏の事例を引きつつ、「官僚が考案するのではなく失業者自身が発案し動機付けする」のが効果的であると(91)
・ちなみに、「社会的経済」というのは、「これまで「世界的反体制運動」とし描かれてきたものの経済的表現」であり、それが職の創出という経済的課題に関わって、転換してきたものとされる(101)

*このような施策を実現するためには、大きな政府(福祉国家)/小さな政府(夜警国家)という二元論ではなく、「教師国家【ティーチャー・ステート】」とでも呼ぶべき第三項を構想する必要がある、という。

・「税金と規制をどのような形にすれば、人々に柔軟性と機会を与えることができるのだろうか。【中略】福祉国家【ナニー・ステート】は被保護者に対し判断を下し、彼らが何をすべきかを命令する。教師国家【ティーチャー・ステート】は生徒に自分で考えさせる。そこでは、国家は安定的な枠組みを提供し、その枠組みのなかで人々が自分の判断と決定に責任を持てるようにするのである」(292)

*……私は、見ようによっては、これに近い事態が、すでに日本でも進行中だと思っている。
 だけど、たとえば、「団塊の世代を取り込むマーケティング」とかいう話の中で提唱されがちな「趣味的コミュニティ」とか、「セイブ・ザ・何とか」とか言われる時の「コミュニティ」とかは、「国家が安定的な枠組みを提供し、その枠組みのなかで人々が自分の判断と決定に責任を持てるようにする」構図の形成に、有用だろうか。
 あるいは、「コミュニティ・社会・個人サービス」による低賃金労働の創出は、「ケアワーカー育成」とかいう形で、部分的にはすでに実施されている。この動きは、上の意味でいう「第三の領域」の創出につながっているのだろうか。そんなことを考えないといけないんじゃないかと思っている、今日この頃。

*ところで最後に……以下のような記述も、我々の実感と非常に近いものがあるんじゃないだろうか。
 いつもながらオチのないエントリで恐縮ですけども。はい。

・「ウェイト-レス化の進展によって生じるリスクの程度は多様で、個人ごとに対応能力も異なる。筆者もその一人だが、高度の教育を受け、エコノミスト兼ジャーナリストとして高級を取り、ある程度の企業家精神を持つ人間にとって、英国労働市場に最近もたらされたフレキシビリティはすばらしい機会を提供する。【中略】しかし、資質や家庭的支援や十分な蓄えのない人にとって、フレキシビリティは結局、悪辣な、あるいはみずからも経済的に厳しい立場にある雇用主による搾取をもたらすだけだ。こうした人々は、世紀末資本主義の特徴であるいまわしい社会的ダーウィン主義の犠牲者である。
 筆者自身、ウェイト-レス世界ではフレキシビリティが必要不可欠だという確信と、それがもたらす不平等と不幸への嫌悪の間で揺れている。中道左派を自認する多くの人々が、同様なジレンマに悩(125)んでいるのではないだろうか」(126)

・「フレキシビリティは不可避であり、むしろその便益を受け入れるべきである。市場反対論は「自由市場経済学が政治的ハイジャックにあったことを批判すべきなのに、競争や規制緩和自体を批判している」(137)
(ちなみに、この意味での失敗の典型例として、日本が挙げられている)

・「グローバル市場に抵抗する」と言うカルスタ的?議論に対し:
 「しかし抵抗するには遅すぎる。それに、抵抗は特定集団の特権を他の集団の犠牲によって擁護することにほかならない。つまり、雇用形態が固まっていない若者や女性を犠牲にして、既存産業でフルタ(197)イムの仕事を持つ中年男性の擁護し、移民を犠牲にして定住者を擁護し、第三世界を犠牲にして先進国を擁護することになる」。
 「同質で固定的な人口に対する福祉の増進」という、工業化された国民国家の目的に執着することにより「左翼は保護主義と移民規制の支持に回る」(198)

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2006年4月25日 (火)

続・松原隆一郎 『分断される経済』

最近妙に疲れやすい。確かに多少は忙しいが、そこまで言うほどでもないんだけどな……なんでだろう。
長い間溜め込んでいたものを、単著の形で一気に吐き出して、それに対していろいろリアクションを頂いたりして、多少参り気味っぽい気もする今日この頃。でもリアクション頂けるのはありがたいことです。何かあったらコメントでもメールでも下さい。どうぞよろしくです。

ところで……妙に間が空いてしまったけど、前回の続き。
この後は、割と各論っぽい論点が多い。そして非常に共感できる。なのになぜ、前回書いたような違和感が残るのか。次書く論文では、そんなことが表現できていると、いいなあ(なかば運任せ)。

*まずは都市再開発について。

・「都市再生」論は、塩漬けで廃れた土地ではなく、すでに人気のある土地を狙い打ちにしている(148)。都心から地方に人口が去ったから成長率が下がった、などと論じられている

*「入れ替え可能性」に対して、「場所のアウラ」のようなものを復権させようという試みはいろいろ行われているけど、「都心回帰」とかいうのはそういうのと別個のメカニズムで動いているもので、前者が後者に追随するだけだったら、別にわざわざ地方自治体とかが出てくる必要はないですよね。確かに。
でもなぜわざわざテコ入れが行われるかというと、以下のような事情が考えられると。

・「建造物の寿命の作為をも感じさせる短さと業界の建て替え体質とが、戦後日本の建築物の特徴だ」(157)。
 長期雇用制度を前提とした住宅ローンを組んだ人から、自己破産者が続出している。また阪神淡路大震災では、二重ローン問題が深刻に。「あの手この手で国民に借金させて家を買わせ、倒壊すれば自己責任と言って放り出す」(155)
 背景には政財官の癒着があり、構造改革はそれを再結合させている(155-6)。

*少し話がズレますが、個人的には、そもそも人々の側の「持ち家志向」というのがあまり理解できないし、なんで郊外に住宅地を作りたかったのかもよく分からない。バブルの地価高騰で郊外に弾き飛ばされていった、というだけなんだろうか。大正期の沿線開発の話とかはよくある訳ですが……たぶん80年代初頭に生じた一大転機について、当事者の(要は団塊世代の)発言というのは、恐ろしく少ない。なんで?

*ちょいと飛びまして……次に規制緩和の話。

・93年の宮沢・クリントン首脳会談に始まり、「日米投資イシニアティブ」→97年の独禁法、商法・証券取引法改正→98年のビッグバン→99年の株式交換・株式移転制度導入→01年の会社分割制度創設・金庫株制度導入などにいたる、外資による日本企業買収促進(185-6)。
・日本が自主的に規制緩和したものだが、政府が国民に周知徹底しなかったため、ライブドアが生まれても当然だった(187)

*たぶん今、中国が一番注目している「失敗例としての日本」ってこの辺りにあるんでしょうが……私が勉強不足なので、また追い追いに。

*続いて成果主義の話。

・「成果主義が【社内外の】風通しの良さではなく上司の裁量と結びつくと、逆に組織の閉鎖性を高めてしまう」。
・例がJR西日本の尼崎脱線事故:JRで唯一成果主義を導入しており、上司の宴会の誘いを断れなかったのかも(204-5)

*前回の繰り返しになりますが、こういう組織内に閉じた成果主義は、悪弊ばっかりで、ちっとも成果主義ではなく、<だからこそ外部労働市場がなるべく公平な形で形成されるように>と考えるのが普通だと思うんですよね……。なのになぜ「かつての終身雇用のもとでの予測可能性」の方が「マシ」なのか。それが分からない。

*そして結びとしては、「社会資本」の話になります。

・戦後日本は不確実性の縮減と「信頼」の醸成を中心課題としてきた。90年代にそれがうまくいかなくなったが、代わりに登場した構造改革は、信頼の再構築ではなく無視だった(240)。
・「経済は、非経済的な部分と表裏一体となっているのであり、純粋な市場化はそもそも不可能なのである」。その中での市場化の貫徹は秩序の崩壊を招く。終身雇用制の解体の後、コミュニケーションの場がないままで、不安や自殺率の高まりが生じている(242)
・「社会資本」は、一旦会社に吸収された。でも「会社という共同体に戻れない人は、自分の能力を評価してくれるなんらかのネットワー(242)クに身を置かなくてはやりきれない」(243)。→スポーツクラブ振興、暗渠河川の復活、地方の商店街など

*私も参加している某先生のプロジェクトの次のテーマが「コミュニティ」だけど……詳しくは追い追いにするけど、要は「不確実性をなくす素晴らしいコミュニティ」と長らく信じられていたものが、まったくそんなもんではなかったことが明らかになった。というか、実はその中で「コミュニティ」が根こそぎ消滅していたのが明らかになった。その間、他の先進国では「社会関係資本」とかが論じられていたにも関わらず……。
 「で、やっぱコミュニティ」となった時に、一体どうすれば良いのか。そこで古臭い「大平総理の政策研究会」とかが呼び起こされるのは、ちょっとナシなんじゃないかと思う。かといっていきなり「ストリート」とか「趣味空間」とか言い出すのも明らかにおかしいし……というような所に考えどころがあるんじゃないかと。
 「地縁・血縁」とか、そのスジでいろいろ再考されるべきでしょうが……これがまた、韓国の保守派から「地縁・血縁があるのは韓国の近代化が素晴らしかった証拠だ」とか言われると、それもちょっと違う気がするし……。
 あと、中国のマンション建設ラッシュの時に、一番論じられていたのが正に「コミュニティ・メイキング」で、社会学の主なニーズもそこにあったくらいだそうだけど、それがうまくいったかどうかは結構先にならないと分からん気もするし……。

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 ところで蛇足だが、いろいろな所で、微細な話題を巡って妙な「党派」が結成され、両極端に分かれた陣営の間に、下らないケチの付け合いが繰り広げられていく……という風景が見られる気がする。特にオンラインで。そういうのに充実感を覚える心性は、私にはよく理解できない。
 
 私はこの本と、いろいろな価値観を共有していない気がするけど、「だからこそ読んだ時に自分の理屈をこねる必要性を感じさせられる」というのは、私の価値観で言えば「めちゃくちゃ面白い本」ということになる。
 今回の例で言えば、「昔の終身雇用を誉めているからダメ」とかいう評価は、批判として下の下であり、そういう人は「昔の終身雇用はダメだった」という一行を、一生ブツブツ唱え続けるだけで終わっていくだろう。これに限った話じゃないけど。
 私は別に、一行でまとめられるお題目のもとに、ケチな徒党を組みたくて色々考えたりしている訳じゃありませんし……いろいろあって多少取り乱しましたが(笑)、とにかく、この本は「必読」です。はい。

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2006年4月13日 (木)

松原隆一郎,2005,『分断される経済』日本放送出版協会.

先日、とある会合にお呼ばれしました。その時、またもや酔って、うつらうつらとかしてしまいました。薄暗い店だといけないみたいだ……気をつけよう。もしご覧でしたら……すみません。でも楽しかったので、またぜひご一緒させてください~。

時に、某KSJ御大が出演していたNHK-BSの番組を、見逃してしまいました。どなたか録画した方がいらっしゃいましたら、ぜひご一報くださいませんか。よろしくお願いします。

ところで、某所での同僚にもお弟子さんがいる、松原隆一郎氏の最近著。……実は、先月末の毎日新聞で、中央公論に発表した論文を取り上げて頂きました。
彼の関心は、私や同世代の同僚たちとすごく近い。だがこの本をめぐっては、私の周辺でも議論の分かれている点がいくつかある。これは議論が分かれているのか、それとも結局は同じことを言っているのか、自分でもよく分からない。いろんな対立軸を整理していく、というのが大事な作業だと個人的に思うので、いつもながら完全に自分用のメモを書いておくことにする。

*「構造改革批判」というのが、最も基本的な主旨となっている。構造改革が「分断」をもたらしていると。

・小泉改革において、「公」が「小さな政府」という理屈で仕事を放棄している。必要な「公」は創出するべき(14)
・「リストラが一巡し、収益を回復した大企業の従業員などはみずからを「勝ち組」とみなすにいたった。二極化は、期待ではなく実態にも及んだのだ。ここの人々にとって将来に向けての最大の不確実性が、終身雇用制の崩壊がもたらした「リストラされるか否か」にとどまらず、この断層線のどちら側に属するかになりつつある」(13)

*ここで「トリクル・ダウン」という言葉が出てくる。よく言う「格差拡大」とか「行政のスリム化」とかが問題なんじゃなくて、何かしらのルートで「上」から「下」に利益が降りていく構図が必要なのだと。
「構造改革」が持つ真の問題は、この「トリクル・ダウン」の回路を断ち切り、何も降りてこない「下」を「分断」してしまったことだ、と。

・二極化が正当化され得るのは、優位→劣位に利益が及ぶ「トリクル・ダウン」が機能するか否かによる(13)。「公」の極端な削除は、政治がその構築を放棄すること(14)
・「大きな政府」であること自体に善悪はなく、トリクル・ダウンの有無が問題(43)。

*そして「トリクル・ダウン」が機能していた「構造改革前」のことが概観してあるのだが……前回の「大平総理」の中で書いたけど、この「かつての日本」の論理は「中心を保護するため、周辺をバッファにする」というのを主眼にしていたのであって、それを「上から下に利益を降ろしていった」ものと評価して良いものなのかどうか、というのが、個人的には多少疑問に思う。
 たぶん「実証的」に言えば「どちらの側面もあった」ということで、後は価値判断の違い、としか言いようがなくなるような気がするけど……

・下請け構造などの撤廃はトリクル・ダウン構造の破壊であった。
 「問題は、株主と従業員、大企業と中小企業、都市と地方、正社員と非正社員の間で、関係がなだらかに続いているか否かだろう。もし「格差」と呼べるものが大きくなく従来通りに前者と後者が結びついているのであれば、景気回復の第一段階では大企業や都市・正社員だけが恩恵を受けるのだとしても、次第にその影響は中小企業や地方、非正社員に波及していくはずだ。それが「トリクル・ダウン」現象である。【中略】
だが、中国などとの経済関係の濃密化すなわちグローバリゼーションによって、企業間の取引とりわけ大企業が行う対企業取引は、地方や中小企業よりも海外に向けられている。中小企業や地方経済は、大企業や都市の下請け的な立場や長期的な取引を行うという慣行を維持できておらず、それゆえ大企業で輸出が増えても効果は波及していない。そのうえ、公共投資は減っている」(35) 
・「構造改革は、理想としては「機会の均等」と「トリクル・ダウン」によって万人に好景気の恩恵を施すかのように唱えている。けれども現実には、景気回復は大企業や都会、正社員に都合よく果実をもたらし、それは中小企業や地方、非正社員の全域には及びそうもない。経済は、「分断」されたのである」(36)

*たぶん松原氏は、理念としての「構造改革」というより、その現段階での実行のされ方と、現実的な結果への批判に主眼を置いているのだと思う。その意味では納得できるし、私などの実感とも非常に近い。
 だけれども、その時に「それ以前」を批判の土台に置いて、「その崩壊こそが悪だ」という論理にすると、「それ以前」にもいろいろあった問題が全部覆い隠されてしまうような気がする。
 私は、現在の「分断」の萌芽は、みんなが浮かれていた「それ以前」の状況に内在してあったのであり、「市場主義」とかいうのが外からやってきて「分断」を形成しつつある訳ではないと思っている。
 というか、そういう風に書かないと、今の日本ではすぐ「昔の方が良かった」とか「昔ながらの正社員システムがあれば良いんだ」とかいう風に、「誤読」されてしまうような気がするのです……。私が学生とかとばっかり会ってるからかもしれないですが。

*だから、たとえば……今、地方の都市とかに、かつて「トリクル・ダウンを受け取っていれば大丈夫」だった企業がいっぱいあり、それが大丈夫じゃなくなって、中国とかにどんどん奪われていると。
 その上でいろいろ対策が取られているようだけども、たとえば(同僚のAM君がよく言っているように)「大手メーカーのコールセンターを誘致しよう」とかいう形で、実質的にはただの使い捨て労働力を地元で量産しているだけなのに、「トリクル・ダウンを取り戻せた気になってしまう」ような心性の方が、個人的にはよほど気持ちが悪い。
 また別の例を出せば、東京を経由しないでアジアにつながる回路を探す動きの、かなりの部分が「アジア交流」とかいう話になって、「文化」でいろいろやろうとして、全然うまくいってない(ように見える)のはなぜか。私の価値観で言えば、そういう時に「文化」が出てくると大抵、というか当然、ダメになると思うけど……。
 要するに、まさに松原氏が書いているような背景事情が熟慮されないままに、「よく分からない擬似解決策」ばっかり動きがちなのはなぜだろうか。よく考えれば、別のやり方がいくらでもあるんじゃないか。そしてその別のやり方を思いついている人がたぶん既にいっぱいいるとすれば、その実現を阻害しているものは何なのか。……とかいうことを考える方が、「東京の構造改革」を批判するより先なんじゃないか、という疑念が拭えないのである。

*別に地方の話だけじゃなくて、同じことは正社員とそれ以外の差とかにも言えることで……。今の話の延長上で、行政が「若者自立塾」とか作って「何かした気になっている」のはたぶん逆効果しか生まないと私は思うし、「そういう公的支援がもっと欲しい」と思っている当事者がいればその人は間違っていると思う。立岩真也氏が主眼に置く障害者とかは別なのかもしれないけども……。
 なのでたとえば以下のような事実認識は(私が詳しく知らないこともいっぱいあるけど)実感として私も納得できることばかり。

・貯蓄率の低下=高齢化が原因などと言われるが、勤務先企業の規模の差が大きく影響している。高額消費や住宅を購入しているのは大企業の従業員で、それ以下の企業の従業員は消費を減らしてもまだ家計予算が不足している(40)
・97~03の急激な構造改革は、深刻な不況をもたらした。97の消費税率引き上げ・社会保険の負担増→消費意欲の減退・金融危機(62)。つまり「不確実性の増大」が、消費や投資の減退をもたらした。終身雇用の時は、将来の予測可能性があったにも関わらず、それが失われたから(62-3)

*……なんだけど、たぶん「不確実性の増大」に「かつての予測可能性」を対置する時、どうしても「後者の方がマシだったのだ」と読めてしまうのが、私の感じる違和感なんだと思う。
 私は、いろんな所で進んでいるおかしなことの根本に、「予測可能性をどうしようもなく追い求めてしまう我々の心性」みたいなのがあって、それが「もっとマシ」なことを生みそうな動きを、どんどん歪めていっているように感じている。まず批判するべきなのは、「不確実性の増大」より、「副作用を伴う予測可能性希求」の方なんじゃないんだろうか、と……。

どうせおれ、「心性」の話くらいしかできないしな……などと、独りで勝手に暗い気分になっている春の深夜。次回も引き続きこの本と対話を試みる(大げさ)。

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2006年4月 7日 (金)

続・『大平総理の政策研究会報告書』

『不安型ナショナリズムの時代』ですが、もう書店に並んでいるみたいです。
はい、宣伝です。ヒソヒソ

そして前回の続きで、『大平総理の政策研究会報告書』についていろいろ。
この報告書についても、ものすごく短くですが、本の最初に書いています。

◆「対外経済政策」研究グループ報告書 395-435

*ここでは、まず、二つの目標が提示される。
①市場経済の秩序維持
②南北問題の解決
それぞれ見てみると、

 ①市場経済の秩序維持
・自由主義経済の弊害:
1)景気変動や失業の発生、分配の平等化、独占への傾向と国家産業の癒着
 具体的には、先進諸国のスタグフレーション傾向、南北の所得格差の拡大、独占的行動の世界的拡がり、である
2-1)環境汚染や公害激化、2-2)途上国の貧困
3)米の優位低下→無秩序・混乱→巨大になった日本経済の国際的役割が大きくなった

*この時代、「格差」というのはすなわち「南北問題」のことであり、今現在広く論じられているような、国内におけるそれではまったくない。そのうえで……

 ②南北問題
・日本はまだ発展から日が浅いので途上国の現状を理解できる&脱却のノウハウがある

*という訳で、要は①でも②でも日本が重要だと言っている。日本の経験が、先進国向けには「先進病の回避」、途上国向けには「離陸のモデル」として、世界のほぼすべての問題に対する解決策を提示するキーになり得る、という訳だ。
 今考えれば明らかに、自国内の問題に対するただの脳天気なのだが……一面では、「だからこそ責任感を持って将来ビジョンを語らねばならない」という切実さも持たれていたのである。

 それはともかく、具体的な提言はと言えば……
・「国際分業に合致した国際協調を進める上で、産業構造の変革を行うとともに生活スタイルを変化させることに対応する。これは、一方では貿易その他からの利益を享受するとともに、他方ではそのコストを、国内経済条件の場合によってはかなり苦しい調整の形で、払わなければならない状態を招来するであろう。
 ところで、このコスト負担は、国際関係の変化から直接影響を受ける当事者のみならず、国民各層が広く分かち合う必要があると考える。この必要をみたす政策や制度のあり方を、「福祉国家」への道とか、公共部門の役割の新しい出現とかいうことが出来よう。自由主義原則の基本的骨格は維持しながら、その弾力的運営を漸進的な政策や制度の変革の下で行おうとする、この種の試み……」(407)

*産業構造の変革が、なんで福祉国家への道なのか、まったく分からない。今の言葉で言う「構造改革とその痛み」が、なんで「福祉国家への道」なんだろう?
 一応読み取れるのは、……要するに、大きくなりすぎた日本の比較優位による国際分業のコストを積極的に負担せよ、ということ。そのコストというのは……
1)対途上国(援助)・そのからみでエネルギー問題(416)
2)貿易摩擦の回避
 なのである。「途上国援助」と「貿易摩擦回避」。市場開放・流通改革・公共機関の民営化なども、この文脈でのみ論じられている。今の「構造改革」と違って、「途上国を助ける」ことと、「アメリカからの文句をかわす」ことに(のみ)主眼があった。こういう中で、抜け落ちていった話とは何だったのか。いちいち検証する作業がやっぱり必要だと思うのです。はい。

 これらすべての背景を成しているのは、オイルショックであり……

・失業などの問題は石油ショックによる世界不況に対してのパフォーマンスに還元される。英・伊は負け、西独・日は勝ち。「経済のファンダメンタルズが強固」だったから(430-3)

 だ、そうである。

◆「文化の時代の経済運営」研究グループ報告書(この報告書だけ、頁数はバラ売りバージョンのもの)

前回書いたように、この報告書がこの研究会全体のキモです。
「文化の時代」。私は、この提言の内容は、日本の社会意識として、今でも色濃く残っていると思いますね。たとえば今、「ニートとかフリーターとかがどうのこうの」とか「ホリエモンとかヒルズ族がどうのこうの」とかいう形で語られている問題に違和感があるとすれば、まずこの研究会の知見と引き合わせてみるのが良いと思う。身近に敵を作って批判すれば済む問題ではなく……敵はかなりでかい(笑)ということが分かる、ような気がする。

*主な時代認識は、「目標とすべき欧米モデルにはもう追いついた」というもの。

・「今日、日本社会が、近代化・産業化を成し遂げ、最も先進的な産業社会となったなかで、日本人にとって「近代」とは、もはや志向すべき目標ではなくなったのである。日本人の価値観を測るための新しい次元が、検討されなければならない。それは、「西欧的なものの見方」に対し、「日本的なものの見方」という軸を採用することでもあろう。それは、日本社会が伝統的にはぐくんできたあたたかい人間関係や人間と自然との調和を重視する日本的価値観の見直しにもつながるものである」(16)

・「文化の時代」=「かつてない自由と経済的豊かさは、これまでの物質文明や近代合理主義の下で、ともすれば見過ごされがちであった人間の精神的・文化的側面への反省を促し、より高度な人間的欲求を目覚めさせるに至った。いまや人々は、物質的・経済的豊かさにとどまらず、さらに、生活の質の向上、人(25)間と自然との調和、人と人との心の触れ合いや生きがいなど、精神的・文化的豊かさを強く求めるようになった」(26)
→それぞれの国民にはそれぞれの文化的特質があり、尊重されねばならない
→「われわれは、急速な近代化や高度経済成長を可能にした日本の文化を検討するとき、そこに多くの優れた特質を再発見した。それらの多くは、西欧社会が市民革命、産業革命以来の「個」の確立を目指した近代化300年の歴史のうちに、もろもろのいわゆる文(30)明病や孤独な個の窮状に遭遇し、「全体と個の関係」や「個と個の間柄」を見直し、「全体子(holon)」という概念を求めている最近の方向にも沿うものであろう」(31)

*そして全体として……「近代」の行き着く先の病理としての「個人主義」を回避する形で、日本が世界から脅威と見なされるぐらい経済発展を成し遂げたという、「近代の超克」が語られる。

*では、日本の高度成長とは何か。心理面としては、「仕事における会社」と「活発な消費」が重要だった。これら自体には何の問題もないが、残る問題としては、「生きがい」を持てない人が多いことがある、らしい。

・「高度産業化を支えた社会心理」
1)「会社中心主義」と「生産中心主義」
2)個別化と即自化(生産に拘束されきらない自由、ゆとり、レジャー)
3)価値観の変化=「消費のスタイル」が新たな基準になった。
 しかし他方で、移ろい行く流行などでは自己形成ができないという不安が、「生きがい」希求を強めてもいく。

*制度面としては、自由市場に任せるのでもなく、政府が「計画」するのでもなく、政府は金融政策と「行政指導」に留まり、あくまでも企業間の競争の中で成長が拡大していったことが重要、とされる。

・戦後の高度成長の「制度的基盤」
1)「民間経済部門の急速な拡大」によるのであり、財政はそれが調整しえない部分の部分的調整役に過ぎなかった。これが民間投資を促進し、積極的な拡張経営を有利にし、企業間競争と企業努力を促進し、「成長促進的な構造」を形成した(69-70)
2)「金融市場における統制」=1)「資金の国際的な流れを遮断」、2)「人為的低金利政策によって信用割当てを行い、基幹産業と輸出産業に資金を重点的に配分した(70)
3)70年前後からの制約=1)海外からの抵抗増大=外国為替管理の統制が困難に、2)財政赤字の拡大と国債の大量発行(71)
・政府と計画と行政指導の役割は目標設定であって、達成のために直接的手段を用いたことはほとんどなかった。
・問題は、業界内の不公平忌避と横並びの取り扱いのため「行政指導の枠組みの中で、生産や販売の拡大を目指し、かえって激しい「過当競争」が生じる傾向がみられる」こと(73)

*心理的・制度的両面で、日本の達成したこれらの点はすなわち、「間柄文化」という日本の特殊な文化的土壌が、「個人主義」という「文明病」の回避を可能にしたことを意味している。

・「欧米先進諸国における市民革命・産業革命以降の「近代化の時代」は、「個人主義の時代」ともいわれるように、政治的にも経済的にも社会的にも、「個」の確立を目指した時代であった」=「個人主義(individualism)」
・「厳しい「個」の確立の要請は、機会の」「平等」の下に、絶えざる「自己主張」と厳しい「個人競争」の「自由」を結果し」た。「しかし、近年に至り、欧米先進諸国が高度産業社会として成熟してくると、その中で、かつて近代化を支えた「個」は、「孤独な個」、「疎外された個」となり、「全体」の前に無力化して、逆に社会の活力を低下させる大きな要因ともなった。即ち、「文明病」の発生である」(75)

・日本も欧米を模倣し個の確立を目指したが、「日本の文化的風土」が大きく影響した
 =「「間柄」の重視と、個の競争より「社縁」「なかま」→「「人間」を中心に据えた経済運営」(76)

*これが日本の「ポストモダン」であり、ポストモダンというと通常想起される消費論だけじゃなくて、「会社主義」とか「日本的経営」というのもポストモダンだったこと、そこには「近代の超克」という意識が如実に込められていたことも覚えておくべきだろう。
 蛇足だけど付け加えれば、「消費に踊って仕事しない」というのが前者の意味の「ポストモダン」の再検討を要請するとすれば、「会社主義の崩壊と副作用」とかいうのが露呈しているのも「ポストモダン」の再検討を要請するのである。
 その片方だけを批判して、すべての問題の責を負わせようとしても、意味がないし面白くない。たとえば若者論と団塊世代論が共につまらないのは、そういうことだと思うし、「消費に踊る若者に対し、正社員になるよう訓練を」という提言が胡散臭いのも、そういうことだと思う。
 結局は、巨視的な文脈としての「バブルの再評価」みたいな所に行かざるを得ない。というか最近の議論の流れは、もうそうなってると思いますけどね。はい。

・日本の雇用特性=長期安定雇用と年功序列賃金
1)中核と周辺の二重構造と下請制
 環境変動への対応は、一般的に4種。1)余剰労働力の切捨てや新規雇い入れ、2)定員を低めに抑えて就業時間で調整、3)長期安定雇用の中核とクッションとしての周辺という二重構造、4)組織外には下請制をクッション。
 日本の場合、欧米型の1はとらず2-4を取った。
2)組織原理=欧米型でリーダーのパワーによる統合の「トリー構造」【ママ】ではなく「リゾーム構造」=「間柄」「なかま」として「なんとなく「総合」されている」(82)
3)勤労者の意識の組合=企業への不利益になる場合にはみずからの賃上げを要求しないし、そういう判断力と企業へのインセンティヴがある。
 「日本では、勤労者がおおむね25才を過ぎると、その暮らしのほとんどが企業内にビルト・インされてしまう。勤労者は、自分の生活や社会的評価、家族の満足度などが、自分の属する企業の先行きと密接に関係していることをよく知っている」(85)
4)日本型市場経済と競争=欧米の「個人競争」に対する「集団競争」。欧米では「公正かつ自由な競争」がないと言われ日本では「過当競争」と言われるのもこの違いによる。「機会の自由」の確保による個人競争の自由の欧米に対し、日本では「なかま」集団【内】の競争なので「分相応」が大事になる(89)。「分を過ぎた分け前」要求は「なかまはずれ」として追求される=日本的公正は「結果における平等」(90)。
 つまりルールを守れば自由競争の「フェア・プレイ」に対する「フェア・シェア」=「最適な分配方法」(90)

*……「クッションとしての周辺」を置くことで「中核」を守るという「二重構造」が、(「なかま意識」を育むというのはともかく)「公正かつ自由な競争」「最適な分配方法」につながる、という思考回路は、まったく理解ができない。
私が、「日本的経営の堅固な雇用を復活せよ」という提言に、ことごとく違和感を覚えるのは、そういう話を聞くとこの一節を思い出すからでもある。

*そんで、その利点と欠点が共に挙げられるけど、そのうち利点の部分では今では冗談・反語にしかならないのに対し、欠点は「全部その通りになった」という……。

・日本的経営の活力:
1)長期・年功制により昇進に対する強い願望と競争意識(=インセンティヴ確保)
2)組織巨大化による硬直化を防ぎ小集団間競争の活力
3)組織目標達成のための協力(=労使関係)(95-6)

・今度の課題・問題
1)働きすぎ=家庭が犠牲に(96)
2)組織巨大化→73年の石油危機以後1)急速な拡大から急激な減量政策への転換により年齢構成が変化、2)年功序列に吸収できない管理職のポスト不足、3)人口高齢化と定年延長圧力(97-8)
3)能力主義強化と定年延長圧力
4)マクロ的要因:1)「もたれあい」の中でも技術革新が達成され続ける保証はない、2)なかま意識が業界内以上に広がらない、という問題あり

*あと、「提言」というのが続くけど……略

◆「科学技術の史的展開」研究グループ報告書
*あとの二巻は適当に……

・西欧近代文明・科学技術は、地球環境の危機という形で、限界を迎えている。
 よって、「ホロニック・パス」という新しいパラダイムが必要、なんだそうだ。

・西欧近代文明の限界は、要するに「量的拡大への障壁」である。
①文明社会における物質・エネルギーの消費拡大そのものに対する障壁
②生産設備規模の巨大化に伴う障壁」(552)
・だから「ホロニック・パス」は「質的拡大」を目指す。
 それは「情報化」である。
1)「単能な要素の高度化」=半導体など
2)「システム化」=工場のアセンブリーラインなど

・ホロニック・パスのコストの一つは、諸財の需要の多様化である。しかし市場経済の中でこれは解決される。
1)需要が供給をひき起こすことに変わりはないから【?】(561)
2)「多様化が生ずるのは、基本的には最終需要財であり、その生産における多様化は、産業用ロボットを含めての情報技術の進歩により、生産効率の低下をほとんど招くことなしに可能となっている、ということである。自動車の生産はまさにその好例であって、同一車種であっても、異なった色や内装、シートの車が一つのラインから次々と生産されていく状況は、現代産業の一つの典型的形態といえる」(562)

*「地球環境」とかいうのに議論の焦点があるので、「高付加価値産業」の議論は「環境にやさしい」というレベルでしか捉えられない。
結局、「高付加価値産業」も、「これまでの通り、工場でできるんだから、心配するな」というのが結論になっている。同時代に、ビル・ゲイツとかスティーブ・ジョブズが活動を初めていた状況と比べて考えると、面白いですね。はい。

◆「多元化社会の生活関心」研究グループ
一応、統計的な意識調査みたいで……なんか電波出まくりでよく分からないんだけど(笑)、要するに「中流意識が広がったのは良いことだ」と言いたいようだ。

……どうでしょう、結構面白そうでしょう?

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2006年4月 3日 (月)

『大平総理の政策研究会報告書』、自由民主党広報委員会出版局, 1980

最近、書類作成のような事務的な作業がたまっている。やりたくないけど、避けていると後で自分が損するんですよねえ……。

そしていきなりですが、戦後日本を語ろうと思ったら、この『大平総理の政策研究会報告書』を抜きで済ますことは絶対にできない。だが、私の同僚たちを含め、読んでいる人は意外に少ない。
現在の各種審議会へとつながっていくような、外部の学者たちを抱え込んで書かれたこの報告書。当時の著名な知識人が一同に会している感じ。というか、今でも論壇誌とかで見る名前がちらほら。

全部で9つの部会があったらしく、それぞれの報告書がある。9冊バラのもの(一般販売用?)と、全部が一冊にまとまっているもの(関係者配布用?)がある。どちらもとっくの昔に絶版だが、オンライン古書店などで比較的すぐ見つかります。はい。

「戦後安定社会」とか「1940年体制」とか「日本的福祉社会」とか、論者によっていろいろ名指しされている、たぶん70-80年代にかけて完成した、いわゆる「戦後日本」。今、そのほころびが各所で論じられているとすれば、もともとそれが何だったのかを考えなければならない。
私の知る限り、それを最も網羅的、かつ精密に描き出したのがこの本である。こういう議論を、「日本人論」とか、「日本の優越意識」とか、「伝統の創造」とかで斬るのは、たやすいけれど、あんまり意味がない。
この膨大な知性の集積が……どこまでも楽観的で、今となっては若干の居心地悪さなしに読めないものだが……、「総体として」何を意味していたのか。そういうことを考えないといけないと思う。
今回は久々の更新だから大仰ですね。はい。

一番面白いのは「文化の時代の経済運営」という巻で、これだけでも良いような気がするが、自分用の覚え書きをいろいろ書いておくことにする。

◆「文化の時代」研究グループ報告書
*第一巻で、全体概観に相当するもの。主な論点:

・西欧を後追いする時代は終わり、日本は自己の伝統を否定する明治以来の状態から脱却すべきである
・高度成長で経済大国になった。世界の工場となり、豊かな消費生活を満喫するようになった。
→しかし「ゆとり」が乏しい(39)
→今後は他の先進国同様、低成長に移行せざるを得ない。
 「低成長の背景となる資源・エネルギーや環境の制約は、これまでの生産拡張第一主義に代り、第三次産業や公共部門でもより文化的な分野への投資の比重を増加せざるを得ないであろう。これは労働力の配分についても同じである。また何よりも低成長のもとで人々の生活時間の(39)設計も変化し、文化的な充足に対する欲求はむしろ高まっていくことになろう。
 このように考えれば、低成長のもとでも、むしろ低成長なるがゆえに文化の発展の潜在的可能性はよりいっそう高まるのである。【中略】われわれは工業化至上主義、経済中心主義の段階をすでに七〇年代に卒業したのであり、今後の日本は成熟した市場社会にふさわしい「文化の時代」を生きていくことになるであろう」(40)。

*要するに、がむしゃら高度成長への反省が、低成長をむしろ「ゆとり」の好機とする評価につながっている。そこでは、当然ながら、高度成長の達成したもの……高所得・治安の良さ・高い平等……などが、根元から崩れる可能性が考慮されることはない。
二度の石油危機の影響が軽度に済んだ、と言えば、それまでなのかも知れませんが……。そこをスルーしたことの影響がいかに甚大だったかは、我々が日々いろいろな話題で目にしている通りなのである。

◆「田園都市構想」研究グループ報告書
*第二巻。上のような時代認識に基づいた、都市計画についていろいろ書かれている。おそらくニュータウンとかの源流の一つ、なんじゃなんですか。

・明治維新から100年、またGNPが米に次いで世界二位になった今、追いつき型近代化の目標が終焉している。
 そこで再評価されるのが、田園都市構想である。「それは、近代文明とそこにおける豊かさの質を問い直し、人間生活の目標とあり方を再検討し、国家システムの再編成をめざす、超近代の動きの重要な一環にほかならない」(91)。

*「超近代」なので、当然(?)農村とかが焦点になる。
総じて、「都市に田園のゆとりを、田園に都市の活力を」という、良いとこ獲り戦略が提唱される。

・農山漁村は日本人全体の「ふるさと」だが、近代化・産業化・高度成長の中で生活様式が変貌。
  →田園的な農業生産と都市的な消費生活が、混在してしまうようになった。両者を分離し、緑あふれる余暇・教育・文化・健康の場としての農村と、それをつなぐ場としての都市の機能を明確にさせねばならない。
・そのために、「多極重層構造をなす都市・農山漁村を結合する交通ネットワーク」の整備を全国的に推進せよ、とする。

*……んだけど、単純に、「緑とか農業とか」と、「都市的な消費生活」が「混在」していると何がいけないのか、よく分からない。
 あと、その「結合する交通ネットワーク」の整備が行き過ぎるくらい充実した結果、「入れ替え可能性」が高まったというのもあるだろう。

*続く、地方地方の愛着と帰属感を醸成するための「文化施設建設」とか、環境主義=「人間と自然の調和をめざす国づくり」とか、ありがちな話はまあいいとして……(こういうのもいちいち「脱近代」という時代認識を背景にしていること、その背景にはかなり多幸症的な現状認識があったことは覚えておく必要がある)
 ……この間までここでいろいろ言っていた、産業の構造転換についても、同じ論理が適用されているのが面白い。

・中小企業の台頭・経済のサービス化・需要の高度化・ソフト産業・クォリティ産業・先端技術産業などは「地域産業の発展」をもたらすものである(138)。「これらが、個性ある地域産業として多彩に発展していくことによって、各地域社会を経済的に支える質の高い雇用機会と所得水準の提供が可能になっていくのである」(143)
・「地場産業都市構造」、「工芸コミュニティ・モデル都市構想」を推進せよ(143)。地域の風土に合った伝承技能と、先端技術・デザインを結合してクォリティ商品を作れ(144)

*要するに、「地域の多様性」が、すなわち「新しい高付加価値産業」を生み、もって地域格差の是正要因になるだろう、ということだ。それが実現されたとは到底言えそうなのはもちろんだし、そこで選出される「高付加価値産業」が、「地元工芸」のようなものであることは、今考えれば驚くべきことだろう。
 その一方でハイテクについても言及があるのだが、

・ハイテク・省資源産業は「クリーンな環境」がいる。シリコン・バレーも「文字どおり公園と呼ぶべき環境のなかにクリーンな半導体生産工場が散在し、世界の最先端技術を開発し、活気にあふれている」(146)

*……と、なぜか「自然」に注目が寄せられる。見るのそこかよ。

*総じて、この著者たちは、人間関係の潤いを失ったかに見える「都市」の外部を希求しているのであり、それが「超近代」的な(笑)「農村」「自然」の復権あるいは再組み込みという思考へつながっている。

◆「家庭基盤充実」グループの提言
*以下三巻は、私があまりよく理解できないのもあるが、あまり面白くないので簡略に。

*特にこの「家庭基盤充実」グループは、意味不明な楽観と伝統回帰意識の合成みたい。というか似たようなことを言っているが、今でも多い気がしますけど……。

・欧米より、犯罪・離婚は低く、祖父母同居率・あたたかい人間関係は高い。この延長で「脱工業化社会への転換」を行えば「ひとつの先進的経験」になりえる(185)
・間柄文化による仲人制度と見合結婚が離婚率の低さに貢献している(199)
・親子同居の多さは「日本人の親子観ないし内面的道徳を反映している」(208)

◆「総合安全保障」研究グループ報告書 301-344
・没落した米をもう頼りにしない。また今は防衛として最低限の軍事力もないから整備せよ、と

◆「環太平洋連帯」研究グループ報告書 345-394
・ガット・IMF体制が動揺している現在にあって、自由で開かれた経済システムを維持し相互依存関係を強めよう

 ……という訳で、一番面白い「文化の時代の経済運営」はじめ、後半は次回また、ということに……。

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2006年3月30日 (木)

私の著書『不安型ナショナリズムの時代』が発売されます

私の初の著書が、4月8日に発売になります。

『不安型ナショナリズムの時代--日韓中のネット世代が憎み合う本当の理由』
高原基彰
(洋泉社・新書y)
定価780円
ISBN:4-86248-019-5

です。お見知りおきを、平にお願い申し上げます。

過去に論考として発表したもの、そしてずっとここで書いてたようなことを、節操なく全部ブチ込んだものになっております。

最近告知っぽいのばかりですみません……。次回からは、その内容を踏まえて、書評などに戻ろうかと。

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2006年2月23日 (木)

続々ソフトウェア産業とかいろいろ

昨日、久々に外で酒を飲んだら、案の定眠くなってしまい散々だった。本当すみません兄貴。
そして私の兄貴分たちにまつわる、めでたいニュースが次々と。おいらも頑張ります。はい。

そしてこないだの修正が、とりあえず終了。まだごく一部手直しの必要ありか。
引き続き、その原稿のためにいろいろ読んだ本の一部を……(紙幅の関係もあり大部分は直接反映されていない)。多分これが最終回。

◆戸塚秀夫・中村圭介・梅澤隆,1990,『日本のソフトウェア産業――経営と技術者』東京大学出版会.
「日本的経営」が、ソフトウェアという新しい産業の登場により、どう変容を蒙っている/いないのか、という着眼のもと行われた調査の記録。

いろいろ興味深いですが、私的なポイントは:
・中小零細企業が多い。初期投資が少ないので参入障壁が少ない、新しい産業なので制度的条件がまだ固定されていない、などの要因により(16)
・成長基調で、消滅したデータ外のものを除けば、ほとんどの企業が成長を続けている(17)
・技術者は人手不足気味、その人数は急増中:1企業平均で22.7%増加
・新卒が主で、不足分を中途採用で補う例が多い(95)

ところが:
・離職率は、小規模の所ほど大きい。従業員9人以下は16.8%、100人以上だと6.2%(96)

しかしいずれにせよ:
・これはつまり、比較的若い、高学歴のソフトウェア技術者集団が大量に存在しているということ。年齢・学歴・勤続年数などによる管理が有効ではない。すべてが役職につけるとは限らない。
→モラール維持のための処遇上の仕組みが必要である。
→とはいえ能力主義をとるにしても、客観的な資料がない、評価できる考課者がいない、個人の実績評価は困難である、などの問題がある

→役職と離れた資格制度=「昇進と昇格の区別」が必要だと提言される。
「資格制度によりソフトウェア技術者のモラールを維持するには、少なくとも各資格等級と役職の対応が緩やかなものでなければならない。つまり管理職ポストが不足しているため職位上の昇進が可能ではなくとも、能力と適性があれば資格上の昇格は可能というのでなければ、ソフトウェア技術者のモラールの維持は図れない。もちろん昇進・昇格の際の人事考課、評価がいかに困難かは、すでに述べた。しかし資格、役職、賃金が一体となった資格制度の形態では、ソフトウェア技術者のモラールの維持は不可能である」(124)

という訳で、「社内のポストの配分」に話が収斂していく。堺屋太一『団塊の世代』の亡霊は、IT化の中でも生き残っていたのである、と、とりあえず読んでおく。

◆新井進,2003,『よくわかる情報システム&IT業界』日本実業出版.
なんか適当に買ったんだけど、そのスジでは評価の高い本らしく、いろんな所で推薦されているのを見かける。

「SE」という職に就いた人々の、あり得るキャリアステップなどが詳しく書いてある。いろいろ泥臭い話も書いてあって、特に:

・80年代を通し、日本の情報産業とは第一に、金融・物流・製造メーカーなど各種の既存産業のうち、社内の情報処理を担っていた部門がシンクタンクなどとして分社したもののことであり、第二に、コンピュータのハードメーカーから分社したソフト部門のことだった。
・企業内の情報部門と、ハード会社のソフト部門とを橋渡しするべく、80年代後半以後に急増したのが、独立系システム会社である。各種のコンサルティング会社など。
 その仕事は、クライアントの企業の活動のうち、コンピュータでフロー化可能な部分を見極め、既存業務を合理化することである。いわば日本におけるIT産業は、既存の大企業の活動の延長か、あるいは「企業向けサービス産業」のいずれかとして発展した。
・狭義のIT産業である後者の内部には、情報的な技術開発ではない、対企業サービス職に近い部門が多く含まれる。しかもその内部には「ゼネコン的下請け構造」があり、特にプログラミングなど、開発に近い仕事が下請けのものとなっている。

……みたいなことが重要かと。まあ似たようなことはどこでもあるんでしょうけどね……。
これからSEの労働に関する研究とか増えそうだけど、入門編として最適かもしれない。あと就職関連業務の参考にもなりそう。

◆畠山けんじ著、久保雅一企画・監修,2005,『踊るコンテンツ・ビジネスの未来』小学館.
・ジブリの鈴木敏夫さんのインタビュー:
(日本のコンテンツ産業の未来は明るいか暗いかという質問に対し)
「しばらくの間、暗いでしょうね。日本が不景気になれば、本当に貧乏になれば明るくなりますよ。豊かな時代に育った人たちは、残念ながら本当の意味での送り手にはなれないでしょう」

まあぶっちゃけ、後進を育てる気はない、ということですよね。おれは外部の人間だから、別にいいんですけどね。

・経済産業省・広美郁郎・商務情報制作局文化情報関連産業課長のインタビュー
非常に面白いし貴重な資料なんだが、単純に考えて、「昔の製造業がやったみたいに、業界団体を作って税金の受け皿を作る」という提言と、「やはり制作資金は独立系プロデューサーが投資家からお金を集めた方が良い」という提言とは、矛盾するような気がするんだけど……しないのかな。よく分からない。

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2006年2月19日 (日)

前回の続きでベンチャーとかいろいろ

いろいろ短