2007年1月16日 (火)

朝日新聞,特集「ロストジェネレーション」

「年が明けたらどんどん更新しよう」と思っていたら、もう16日。生来の怠惰さに自己嫌悪。
日曜の14日は誕生日でして、31歳になりました。ごく近い知人に、ささやかに祝ってもらいました。

さて、ウェブで見られなかったこの記事、某筋から送ってもらってやっと見ることができました。ありがとうございます。

この特集には賛否両論いろいろあるらしいですが、ハタ目には「結構良い特集なんじゃないか」というのが素直な感想ですけどね……。これまで、こういうミクロな視点で、あんまり大々的には取り上げられなかった話題がいろいろ入ってるし。

個人的に思ったのは、個別の事例を、社会的な「背景」につなげる回路が、ほんのちょっとで良いから欲しかったなと。
社会全体に関わるはずの問題について、特定の集団に「希望」や「絶望」を見出し仮託するという形の議論は、絶対どこかでウソをつくことになるんだと思うんですね。特に「希望」の方ですけども。個人的に私はそういう話はしたくないなあと思っていて。
対象者に、支援なり何なり、具体的に何かしようという話ならば別ですけども。

だから、「ロストジェネレーションというのがこういう風に考えたり動いたりしてるけども、実はそれを良いとか悪いとか言っててもしょうがなくて、我々全部が怒ったり反省したり身の振り方悩んだりすべきことなんだよ」という体にしないと、なんか企画意図が誤解されちゃんじゃないか……というようなことをハタ目には思いました。

しかし逆に、「若者」とかいうテーマがこういう風にマスメディアへ出てくると、とにかく悪口言おうみたいな空気があるのも、どうかと思うんですけどね。その悪口が、当人たちに利益をもたらす方向に、物事を動かすようには見えないし。

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2006年2月27日 (月)

VOICE3月号「特集:下流社会ショック」

先日の案件は無事終了した。お疲れさまです~。
たぶんこれからまた、東アジアの開発主義という問題に戻ると思う。ここしばらく、いろいろな所で書いていた内容を、学術論文の形に翻案(?)していく作業をしないといけない。

ところで、某さんとの会話でも出てきた、この特集記事。宮台真司、本田由紀、大竹文雄、山田昌弘といった論者が、これまでの自分の主張をコンパクトにまとめた文を寄稿している。分かりやすくて便利。

しかし、それより何より、冒頭の渡部昇一&日下公人の対談がすごい。「二極化社会は悪くない」という題名。なんでも日本では、下流の人間のうち、世捨て人的な存在を「風流な文化人」と見なす文化があるそうだ。だから「二極化社会は悪くない」と。
そして……「風流の精神とは、誰にも頼らず、ダメになったら潔く死ぬというものです。下流でもそのような尊い精神をもっているなら構わない」と。そして、昔、施しを断って死んだ流浪僧を「ご立派です」と誉めたりしてるんだけど……。
単純に、この会話を活字にすることに何の意味があるのか、よく分からない。それをバカにするのは簡単だ。でもそういう人々が大きな発言権を手にし、財団の会長とか一流大学の名誉教授とかになっていることを、いまいちど思い起こせば、分る。笑って済む問題ではないのである。

ついでに、ニューズウィーク日本版3月1日号も、「下流パニック」という特集を組んでいる。認識の枠組みがなくて、いろいろな意見を並列しているだけだから、あんま面白くない。たぶん読むべきなのは「アメリカ式経営を誤訳した日本の罪」というコラム。
ついでに、昔の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という本の著者の息子も短文を寄せている。旧来の日本の雇用制度について、「悪い所も確かにあったが、良い所もあったことは忘れるな」という内容。そりゃそうだ。
しかし、「すべての国民が等しく教育を受けるチャンス」とか、「働く女性を支える」とか、「正社員と非正社員の待遇格差改善」とかいうのが、あたかも「日本の雇用制度」を改善するための、外部要因であるかのように論じられているのは、違うと思う。
それらの問題はすべて、「日本の雇用制度」の<内部矛盾>としてあるのであり、それを指摘しながら「旧来の日本の雇用制度の良さ」を強調するのは、語義矛盾である。私は、アメリカ(中国でもいい)の文脈に置いた時、その矛盾をすっ飛ばして「日本の雇用制度は良い」と言ってしまう感覚を、分からないでもない。しかし今の日本語圏でそれを言うと、発言者の意図と逆向きにしか解釈されないのが明らかだ。

この辺の話は、私の研究者(の卵)の同僚にも、いくら言っても分かってもらえない。彼らは、どう考えてもその<内部矛盾>を体現している存在であるにも関わらず。
別にどうでもいいんだけど、「マイノリティが蒙る不利益とは、直接的な差別ではなく、些細な問題をさも重大なように感じる<虚偽意識>を植え付けられることである」という、スピヴァックだか誰だかの発言を思い出して、「意外にポスコロも良いこと言ってたんだよなあ、受け手がアレだっただけで」とか思う冬の午前2時。

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2005年10月30日 (日)

『NEWSWEEK』11/2号・「靖国反日のまぼろし」

金曜日の昨日は非常勤。終日ずっとなのでかなり疲れる。ま、みなさん頑張りませう。

土曜日の本日、いろいろやってから、「割とご近所」に引っ越してきた大学時代の同窓生宅を、おなじく同窓生一人と訪問。
「引っ越してきた」方は、「おれのもっとも古い付き合いの友人」。そいつは私の戦友みたいなもので、「一緒にいろいろあがいた」ものだけど、「あること」をきっかけにめっきり疎遠になってしまった。
「ま、頑張りが裏目に出たんですよねおれたち。あの年頃ってそういうのありがちですよね」と言いたかった午後9時の郊外住宅地。

そんな帰り道、キオスクで購入したこの雑誌。最近私が考えていることに割と近いのだが、「メディアのフレームアップ」にすべてを還元するのはちょっと違うんじゃないか。韓国でも中国でも「漠然とした反日ムード」があるのは厳然たる事実だし。「反日/非反日」とかじゃなくて、違う変数を入れ込まないとたぶんダメなんだよな、と思うが、すんごい眠いのでまた追い追いにしよう。そうしよう。

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2005年10月20日 (木)

だから反日デモなんてもうないって

結局、神は光臨しないまま世は更ける。もう限界だ寝よう。

その前に……中国の都市部で、さらなる反日デモが起きることは絶対にない。もう「ブーム」は終わったんだし、だいいち、当局が引き締め体制を明確にした今になって反日デモが起きるとすれば、それは反日感情云々とかをはるかに超えた「やばい事態」である。体制の根本的変革か、あるいはほとんど「断交」レベルの対日政策転換か。
もちろん小規模な数十人単位のものはあるでしょう。どこの国でもいろんな人がいますから。でも大衆運動として巨大化することは絶対にない。この靖国参拝をきっかけにした反日デモが、もし一万人を集めたら、おれは坊主にします。
と、世界に向かって閉じられたブログで宣言してみた午前X時。明日もあるのになあ。バタリ

しかし、漠然とした「愛国・反日ムード」がずっと続いているのは事実。というかこれはもう完全に定着したものだから、短期的にはなくならない。今回の一件で、個別の嫌がらせ事件とかは起きるかもしれませんね。次に訪中した日本の有名人が卵投げられるか何かして、それがやたら大きく報道される、というのに一票入れます。はい。

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2005年10月19日 (水)

靖国の話から飛躍して

非常勤先の仕事が終わった後、ややへばったので仮眠を取り、靖国関係のネット資料収集をやっている。

こういう問題が起きるたび、「歴史問題にありがちな、微細すぎるディティールに拘泥するのってほんと意味ないよな」という無力感と、「といっても、何か言うなら最低限のデータはないといけないよな」という義務感とのバランスに、しばし思い惑うことが多い。

それはとにかく、この問題をそのまま論じても仕方ないだろう、という感覚はやはり拭えない。遺族会とのつながりとか政党人脈的な話とかも、重要なんだろうけど私はやや門外漢だし、「そういう場所の話ですべてをカバーできたフェイズはもう過ぎたんじゃないか」的な感覚も強い。

何かざっくり言うと、「経済的リアリティのシビアさ」に「気付く」ことが「社会格差」の重要な一側面として立ち現れているとすれば、この手の「ナショナリズム」が、明らかにその「気付き」の妨害となっていることが重要な気がする。
特に日本では、それが残酷なほど明確に現れていると思う。中年以上と若年とでは、その「気付かなさ」の毛色がだいぶ違うけど。

韓国でも似た構図はある。特に若年の間で。でも386世代とかはちょっと違って、「経済的リアリティ」と「政治的熱さ」みたいのが、まだ完全には乖離してない感じ。
といっても、「経済的リアリティ」を、「民主化の建国神話」に意識的に対置する層も、着実に出現している。というか、この二項の分極化がすなわち近年の「386世代」であるような気もする。
日本では、そのどっちかだけ取り上げて「非-反日化の期待」と「反日の激化」のどちらかの兆候とする話が、ぼちぼち出回っている。どうでもいいと思うんだけどなあ。

中国では、やっぱり成長の形態&時代背景からして、「気付き」と「ナショナリズム」という形で問題が立てにくいという事情があるような気がする。都市中間層が、そのものとして社会全体では上層に近く位置づけられ、その内部の格差意識に対するバッファになってるというのもありそう。
でも中間層の若年の割と上層部の内部(三里屯で遊んでるような子たち)に話を限れば、同形の構図があるような気がする。もちろん彼らは上層なんだから、「経済的リアリティからの乖離」とは呼びづらいんだけど、でもやはり。あと数年したらもっと顕在化するのかもしれないと思ったり。

やっぱり「経済的リアリティ」とか「気付き」とかいうより、「流動化/個人化への適応」と言った方がいいかもしれないなあ。何かおれ、同じ所をぐるぐる回ってる気がするけど。

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